政略結婚ですが、幸せです ~すれ違い夫婦のやり直し計画~
春一番
ピー、ピー、ピー。
(何の音だ?)
深い眠りに落ちていた白川結都が覚醒するには、少し時間がかかった。
消防署からの緊急指令の音ではないし、目覚ましのアラームでもない。
今日は非番だから、外がまだ薄暗い時間に目覚まし時計をセットした記憶もない。
数秒のちに、やっとスマートフォンの着信音だと気がついた。
「もしもし」
なんとか電話にでたら、寝起きのかすれた声になってしまった。
相手には聞きづらいだろうが、こんな朝早くに電話をかけてくる方が悪いんだと心の中でうそぶいた。
『やっと出たか』
「お父さん⁉」
いきなり耳に届いた声で、結都はいっきに目が覚めた。
今日は厄日のようだ。よりによって、朝から父と会話しなくてはならないなんて。
『久しぶりだな』
「はい」
『変わりはないか』
「特には」
淡々と交わす内容は数カ月前とまったく同じだったので、なんの用だろうと疑問すら感じる。
『五月に、そっち方面へ視察に行く予定だ』
「はあ」
『食事でもどうかな』
「勤務次第ですが」
『わかった。予定を榊原にでも送っておいてくれ。こっちで調整する』
「はい」
結都の父、白川正親は、リゾート開発から運輸業までいくつもの子会社を束ねている白川ホールディングスの社長という激務をこなしている。
榊原はプライベートから仕事まで、正親の秒単位のスケジュール管理を任せられている優秀な秘書だ。
父に振り回されたのか忙しすぎたのか、独身のまま五十代なっているはずだ。
『お前、いくつになった』
「二十八です。五月には二十九になります」
ひとり息子の生年月日を忘れたのかと結都は思ったが、これは例の会話へのきっかけだと気がついた。
『その年には、私は父親になっていたな』
やはりこの話題は『あれ』に繋がる思うと、ますます気が重くなっていく。
『消防士の仕事は楽しいか?』
「楽しいというより、やりがいがある仕事です」
『そうか』
父が一瞬だけ黙り込んだ。
フッと息を吐く音が聞こえたと思ったら、いつものセリフを聞かされる。
『その仕事を続けたいなら、あの約束は守れ。わかっているな』
さっきまでの軽い口調ではなく、上に立つ者らしい威圧的な声だ。
「もちろんです」
『いい知らせを待っているよ』
「わかりました」
『じゃあ、また』
会話が終わったとたんに肩の力が抜けた。冬だというのにスマートフォンを持つ手に汗をかいている。
父からの早朝の電話に、思っていたより神経を張りつめさせていたようだ。
もう一度布団にもぐろうと思ったが、目が覚めてしまった。
ワンルームの単身者用の社宅では、ベッドの上だけが寛げる空間だというのに。
仕方なく結都は立ち上がってカーテンを開けた。
外は朝靄だろうか、三階の窓から見える景色は白っぽい。今朝は天気予報より冷え込んでいそうだ。
ガラス窓の結露は真冬ほどではないけれど、そろそろ三月になろうという時期にしては多い。
(おっと、今日は定期健診だったな)
毎年これだけは消防士という仕事柄もあって欠かせない。結都はシャワーでも浴びようと、バスルームに足を向けた。
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