政略結婚ですが、幸せです ~すれ違い夫婦のやり直し計画~
引き戸には鍵がかかっていなかったので、すぐに倉庫に入ることができた。
「あ、いつもは倉庫には鍵をかけています。今日は防災点検だから開けていました」
そこはコンクリートがむき出しになった、がらんとした空間だった。
古めかしい戸棚に、いくつか段ボール箱が置かれているくらいだ。
出入り口はシャッターで、暗唱番号で開ける仕組みだという。
中が空っぽだし取り壊す予定だからと、防犯対策は重視されずにいるようだ。
倉庫内に危険物がないのを確認して、本社の点検は終わった。
「お疲れさまでした」
「ありがとうございました」
北消防署のメンバーが帰るときには、ビルの入り口に社長自ら見送りに出てくれた。
その横には研究室にいた小柄な女性も並んでいる。白衣は脱いで、髪もネットを外したようで肩先で揺れていた。
小柄なふたりが並ぶと、どことなく雰囲気が似通っている。
「かわいかったなあ」
広報活動用の赤い指令車に乗りこんだとたん、三枝が呟いた。
「え?」
聞き間違いかと思ったが、三枝は真面目な顔をしている。
「毎年の定期健診の時に気になっていたんですよ。かわいい子だなって」
「かわいい?」
「白川だって、気に入ってたんじゃないのか?」
いきなり指摘されて、そんなはずはないと焦ってしまった。
「俺は別に……」
彼女のことを気にしたことはないと言いかけたら、三枝がからかってくる。
「いつもブスッとした顔してるのに、この前の健診で受付してた彼女に笑いかけてたじゃないか」
「まさか」
「今日だって、熱い視線で見つめていたぞ」
三枝がニヤニヤとした顔を向けてくる。
「おい、職務中だぞ」
上司から睨まれてしまったので、結都は三枝の冗談めかした言葉に憮然としたまま口を閉じた。
(笑った? 彼女に?)
普段の結都はどちらかというと愛想のない男だし、『笑う』ということ自体が苦手なのかもしれない。
どうも心から笑った記憶や、楽しい思い出というのが少ないのだ。
結都はこの街で消防士として働いているが、この土地で生まれ育ったわけではなく、東京生まれの東京育ちだ。
母方の祖父母がこの街に住んでいた縁で、ここでの就職を選んだ。だが彼らはもう他界しているし、住んでいた屋敷もすでにない。
幼い頃に母に連れられて、この街に遊びに来たことがあった。それは彼にとって、やっかいな記憶だ。
まだみっつくらいだっただろうか。
母とふたりで市内のデパートに買い物に行ったら、たまたまボヤ騒ぎに出くわした。
寝具売り場が火元だったから、あっという間に煙がデパート中に充満してしまったのだ。
慌てて我先に逃げ出そうとする客たち。必死で非常口に案内するデパートの店員たち。
初めての場所で右も左もわからなかった結都は、あっという間に母とはぐれてしまった。
どこをどう走ったか覚えていないが、しまいには壁際にうずくまっていた。
逃げ遅れていたところを見つけてくれたのが、救助にきた消防士だった。
大きな体ですっぽりと抱き抱えて、煙の中を走ってくれた記憶がある。
その時に感じた浮遊感、ああ助かっという安心感。
夢の中の出来事のようだったけど、大泣きして取り乱した母に抱きしめられたとき実感した。
あの時、ほんの数分救助されるのが遅れていたら死んでいたかもしれない。
その記憶は、結都の脳裏に焼きついて離れなかった。