政略結婚ですが、幸せです ~すれ違い夫婦のやり直し計画~
冬の虹



***



あの日から、紗彩は結都を避け続けた。
キスの余韻に惑わされて、形だけの妻という立場を忘れそうになっているからだ。

あのまま永遠に続けと欲しい願うくらいのキス。
時が止まってくれたらと思い、唇が離れても、また繋がりたくなるようなキス。
そんな経験は初めてだった。終わりにしたくなくて、彼の情熱を受け入れた。

愛情がなければ交わせないキスなのではと甘い気持ちになるが、慰めてくれただけと冷静に言い聞かせる。
濃厚なキスを忘れられない紗彩は、ふたつの感情の間で揺れ動いていた。
だからこそ結都と顔を合わせないのが一番だと、日々細心の注意を払った。

朝食は早く起きて作り置いたし、彼が休みの日は会社からできるだけ遅く家に帰る。
それだけでもふたりきりになる時間はなくなるし、彼の姿を見かけることもほとんどない。
無駄に家が広くてよかったと思うくらいだ。

回復するまで長くかかりそうな母は、退院後は兄の牧場で療養することになった。
母の体調を知った兄が、しばらく仕事から離れた方がいいと提案してくれたのだ。
なるべく安静に過ごして、月に二回ほど足立病院に通院すればいいらしい。
『空気のいい場所で孫たちと遊べば気分も変わるだろう』と足立院長のお墨付きをもらった母も、ホッとした表情を見せている。

「紗彩ひとりに背負わせてしまってごめんな」
「兄さんだって、忙しいのに」

生き物を扱う仕事だから、兄だって二十四時間気が抜けないはずだ。
しかも乳量を増やしたり、観光事業に着手したりと多忙を極めている。
それでも退院の日に母を迎えに来てくれた兄は、俺にまかせろと力強く言ってくれた。

「結都くんにも会いたかったな」

紗彩たちは入籍しただけで結婚式を挙げていないから、兄と結都はゆっくり会ったことがない。
今回も結都は仕事が休めないので、兄は残念そうだ。

「消防士って、大変な仕事なんだろう?」
「そうみたい」

家でも黙々とトレーニングしている結都だが、彼の仕事には危険がつきものだ。
紗彩は近ごろ、消防車のサイレンの音を聞くとビクッとするようになった。
火事が恐ろしいこともあるが、もし出動した結都がケガをしたらと思うとじっとしていられない。
ふたりで暮らしているうちに、いつの間にか無事を願う気持ちが生まれいた。
名ばかりの夫でしかない人に、想いばかりが募っていく。

「紗彩が選んだんだ。きっといいヤツなんだろう」
「兄さんたら、ヤツだなんて」

「とってもいい方よ。頼もしくて、優しくて」
「母さんたら、実の息子より評価が高いな」

兄は母の言い方がおかしかったのか、声をあげて笑っていた。どうやら母は結都のことをかなり頼りにしているようだ。
大好きな家族に形だけの結婚だと言えるはずもなく、紗彩は顔に微笑みを張り付けて母と兄を見送った。






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