政略結婚ですが、幸せです ~すれ違い夫婦のやり直し計画~



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梶谷乳業は紗彩の自宅から自転車でニ十分くらいの距離にある。
市役所から続く国道沿いにあって、同じ敷地内に本社ビルと工場があるからなかなかの広さだ。
本社ビルといっても三階建の古めかしいものだ。営業や経理部は一階、二階は人事部や社員食堂や、三階には会議室とサーバールームがある。

紗彩は自転車を置いてから、一階フロアに顔を出した。
母が社長になってから、人手が足りないのを理由に一階を区切りのないフロアにしてしまった。
少しでも業務の効率化を図るためだ。
オープン型のオフィスなので、電話の応対に追われていたり、営業担当が慌てて出入りしたりする様子がすぐに確認できる。
どこの誰が忙しくしているかがひと目でわかるので、お互いに協力しあえるのだ。

紗彩も顧客からの電話にでたり、営業担当について販売店に行って商品の説明をしたりすることもある。
紗彩より大変なのは母だろう。専業主婦だった母にはどれも慣れないことだろうに、あれこれと仕事を抱えて慌しそうにしている。
商品の製造については工場長の田村(たむら)に任せているが、人事や経理にまで気を配っているのだ。
乳製品を販売してくれている商店を一軒ずつ回って、頭を下げたこともあるらしい。

母が希望した一階のリノベーションは、経理担当の山岡博(やまおかひろし)部長には反対されたそうだ。
地元の高校で父の後輩だったという山岡は、いつも穏やかな笑顔を浮かべている温和な人だ。
紗彩のことも娘のようにかわいがってくれているが、古風なところもあるから大きなイメージチェンジは受け入れられなかったのだろう。
社長席の近くには、ベテラン社員である秋葉涼子(あきばりょうこ)の席がある。
山岡部長と秋葉のふたりが、慣れない母を支えているのが現在の体制だ。

「いかがですか、新しい製品は?」

紗彩の出社を待ちかねていたように、山岡部長から声をかけられた。

「そろそろ完成です。それで新商品について、社内で意見交換をする会をもちたいのですが」
「それはいいですね」

「めどが立ったらご報告します。その時は秋葉さん、日程の調整をよろしくお願いします」

紗彩がパソコン画面を向いたままの秋葉に頼んだら、ペコリと頭を下げられた。
とても無口な人なので、それが『わかりました』という返事なのだろう。

「失礼します」

山岡に軽く一礼してから、フロアの一番奥にあるドアに向かった。




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