さりげない、あと





生徒1人1人のことを深く知らねば。と、やけに正義感に似たただのエゴに縛られていた。


「増田、どうしたんだこれ」

ほうきを手に持ち床を掃いている男子生徒。
長袖の隙間からみえたそれ。咄嗟にその子の手を掴んで、軽く上にあげるとあらわになったのはいくつかの痣だった。

思わず顔を顰めて問えば、増田は戸惑ったように瞳を泳がせたあと手を振り払った。自分の手首をぎゅっと掴んで、「転けただけだけど」と小さな声で言い放つ。

自分が担任となっているクラスの1人である増田は目立つタイプの方ではなかったが、人付き合いが悪いと言うわけでもなくどちらかといえば皆に合わせてニコニコと笑っている子だった。だから一瞬の動揺でさえも少し意外に感じた。


「本当に転けたのか?」


しゃがみ、彼の目線に合わせる。
周りの子たちが「どうしたの、あれ」とざわついていたのが増田自身も気になったのか周囲をちらちらと見渡して引きつったような笑顔を見せる。


「変な疑いとかやめてくださいよ先生、俺誰かと殴り合いの喧嘩とかするようにみえる?」


違う。そういう疑いをかけているわけではない。誰かから一方的に殴られているのではないかという大きな心配だ。
だが、教室の真ん中でそんなことを吐露できるわけがなかった。
聞くタイミングを間違えてしまった。
みえたものを頭に留め一度落ち着いて考えたあと、本人に冷静にきくべきだ。
俺はニコリと笑って増田の頭を撫でる。彼の肩があがった。

「疑って悪かったな、何かあったらなんでも相談しろよ増田」


そう言うと、彼はまた引きつったような笑顔を見せたあと「分かりました、ありがとうございます先生」と感情をのせることのない言葉をはいて、小さく小さくゴミを箒でまとめていく。


「先生」

「ん?」

増田から離れたあと、声をかけてきたのは女子生徒の三橋だった。

「あの、わたし、増田くんの家の近くに住んでて幼稚園から一緒なんですけど」

周りを気にしながら、声を顰めて言葉を続ける。
三橋自身もどう言葉を紡いでいくべきか迷っている様子が垣間見える。
俺は増田にもそうしたように目線を合わせるようにしゃがんだ。

「あとで話を聞かせてくれるか?三橋」

クラスの中でおちゃらけている子たちも同様、何かに迷い、どんな大人になるのか、周りに溶け込むには、うまく生きていくには、小さいながらに葛藤している子たちがほとんどだ。大人の道を一歩ずつ進んでいる彼らにとって、周りの目は時に四面楚歌になる。

三橋は小さく頷いた。



放課後、職員室にきた三橋が「長谷川先生」と小さな声で俺を呼んだ。
提出されているクラス全員分の漢字練習の紙に「よく頑張りました」のスタンプをおしている最中の手を止める。

職員室の入り口で入りにくそうに身を縮こめる三橋に俺は、手を上げてこっちに来るように合図した。

小走りで俺のもとにやってきた三橋を微笑ましく見つめた。
最近歩くようになったひよりもいつかこんな感じで走るんだろうな、と。


「さっきの掃除の時間に言おうとしてたことはなに?」


「えっと、あの」


両手をいじりながらぎこちなく俺の方を見た三橋に俺は話を続けやすいようにゆっくりと頷く。


「よく増田くんの家から怒鳴り声とか、大きな音とか聞こえてくるってママが」


「っ、それ、いつ頃から?」


「よく分からないですけど、最近だと思います」


「そっか」と椅子に背中を預ける。
ということは、増田のあの痣は家庭内でつけられたものだと仮定して。
ーーー仮定したら、とてもおそろしくなった。

家庭の問題だと正直介入するのが難しい。増田が俺を自分のテリトリーにいれないなら尚更だ。
痣が見つけられたときに見せた、少しの焦燥と怯え。
簡単じゃない、けど、なんとかしなければ。


「わたし、増田くんのこと心配で話しかけに行くんですけど、あからさまに無視されたり、返事が返ってきても『近寄んな』て言われて」


「うん」


「前までこんなことなかったのに」


「そっか、それはなおさら心配になるね」


「最近増田くんのお父さんが出ていっちゃってお母さんと2人で暮らしてるって、ママが言ってました」


家庭環境に変化があった後の痣だとしたら、母親による虐待が1番に考えられる。
だがこの事だけで信じていいものか。三橋を信じていないわけではないけれどこの子の言っていることが正しいとも言いきれないし。

ただ、増田の変化にいち早く気づいたのは幼馴染だからで、前みたいに仲良くしたいと切に願っての行動だったのだろう。そんな嘘をつく子ではないことは知っている。

「教えてくれてありがとう三橋、また何かあったら教えてくれ」

「はい」

緊張が解けたように元気に返事をした三橋は、職員室の戸へとかけていく。「危ないから走るなよー」と小さな背中に放った言葉。

確信を得た。増田のあの腕の痣は転けてできたものではない。
誰かから意図的に加えられた『あと』
もしくは、ぶつけられるものから身を守るための『あと』だ。



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