溺愛のち婚約破棄は許しません  副社長は午前零時に愛を絡めとる
 振り向くと機嫌の悪い木古内和寿が果林を睨みつけていた。

「おまえ、今なにしたんだよ!」

 木古内和寿は宗介が白い封筒を総務課部長と人事課部長に手渡した場面を目の当たりにしたようだ。

(・・・・・はぁ、面倒臭い)

 果林はサロンエプロンを取りに行こうとバックヤードに向かった。

「ちょっと待てよ」

「なんですか」

 すれ違い様に腕を掴まれ引き止められたがその部分から広がる気味の悪さで全身が鳥肌立った。

「で、あいつらになに渡したんだよ」

「退職届を出しました」

「はぁ?」

「退職届を出したの!」

「はぁ?なに勝手な事やってんだよ!」

「木古内さんが出して来いって言ったじゃない!」

「言ってねぇよ!」

「昨日の夜の事も忘れたんですか!」

 木古内和寿はようやく思い出し、「あぁあれか、あれの事か」と間抜けな顔をした。そして次の瞬間、銀色のボウルが宙を飛び果林の背中に命中し金属音を立てて床に転がった。

「い、痛い。痛いじゃないですか!」

「馬鹿か!冗談も分かんねぇのかよ!取り返して来いよ!」 

「もう遅いです!」

「このくそ(あま)!」

「モラルハラスメントに暴力ですか!裁判になったらこれを出します!」

 果林はポケットからボイスレコーダーを取り出した。これは万が一、なにかが有った時のために果林が常日頃から持ち歩いていた物だ。それを見た木古内和寿の顔色が変わり右手を大きく振りかぶった。

「ざけんじゃねえよ!」

 これまで罵声を浴びせられることはあったが手を出されることはなかった。我慢して来た悔しさが涙となって溢れ出した。

「女は泣けば良いと思ってるんだろ!それ出せよ!」

 木古内和寿はボイスレコーダーを果林の手から奪い取ろうとして2人は激しく争った。その間も録音機能は作動し赤いランプが点灯していた。

「なにをしているんだ!」

 突然、菓子工房に赤茶の革靴が飛び込んだ。

「お客さまもいるんだぞ!良い加減にしろ!」

「えっ、あっ」

 床に倒れ込んだ果林、その上に馬乗りになった木古内和寿、それを見下ろした宗介の形相は鬼のようだった。宗介は和寿を果林から引き剥がした。

「おまえ、後悔させてやる」

 宗介は果林に手を伸ばすと軽々と抱き上げもう一度和寿に言い放った。

「後悔しても遅い!覚えておけ!」

 その怒りに満ちた面持ちに和寿は恐怖を覚えた。

「この店員は私が預かる!2度とこの店には来ない!分かったな!」

「えっ、は、はい!」

 果林は宗介のシダーウッドの香りに包まれてchez tsujisaki(しぇ つじさき)を後にした。
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