溺愛のち婚約破棄は許しません  副社長は午前零時に愛を絡めとる
 辻崎株式会社2階フロアの一角に辻崎株式会社専用のパティスリーブーランジェリーchez tsujisaki(しぇ つじさき)が店を構え訪れる社員に憩いの場を提供していた。

「いらっしゃいませ」

果林(かりん)さん、いつものお願いします」

「はい、エスプレッソとタルトタタン(りんごケーキ)のセットで宜しいですか」

 chez tsujisaki(しぇ つじさき)の外観は社屋の雰囲気に合わせた味気ないコンクリートの壁に全面硝子張りでアルミ枠といった無機質なものだ。しかしながら併設した芝生の庭園には四角い空へと広がる(けやき)の樹が土壌を握り締め、新緑と柔らかな日陰をもたらす癒しの空間となっている。

 店内を切り盛りしている女性の名前は羽柴 果林(はしばかりん)(25歳)chez tsujisaki(しぇ つじさき)ではパティシエール兼ウェイトレスを担当していた。

「おまたせいたしました」

「ありがとう」

 chez tsujisaki(しぇ つじさき)は2年前、辻崎株式会社に土地を買収された木古内洋菓子店が現在その経営を任されていた。パテシエの名前は木古内 和寿(きこないかずとし)(30歳)、果林の従兄弟に当たる。

「おい果林!遅いぞ!」

「はい!」

 果林の両親は交通事故で既にこの世を去り身寄りもなくアパートで一人暮らし、こうしてchez tsujisaki(しぇ つじさき)で働き細々と暮らしていた。

「ほら!皿を下げろ!」

「はい!」

 木古内和寿は乳母日傘(おんばひがさ)で育てられた自己中心的な人物でその物言いや横柄な態度が果林を追い立てた。気の休まらない日々、果林は疲弊したがchez tsujisaki(しぇ つじさき)での接遇は丁寧に、を心掛け笑顔を絶やさなかった。
 そこに現れたのは美しいグレージュの巻き髪の女性だった。その女性は黄色と黒の派手なワンピースに香水の香りを撒き散らしながら深紅のハイヒールで闊歩(かっぽ)して来た。

「あらぁ、果林さん相変わらず貧相なお顔だこと!もう少し綺麗にお化粧なさったらどうなの?」

「いえ、飲食店でそんなお化粧はちょっと駄目かなって」

「はああ、また言い訳!もう聞き飽きたわ!」

「申し訳ありません」

 隣のテーブルで飲食を愉しんでいた社員たちは香水の匂いに鼻をつまみ眉間にシワを寄せていた。

「き、木古内さん、香水は控えめにお願いできませんか?」

「菊代さんとお呼びなさいって言ってるでしょう!」

「はい」

「その空っぽのおつむはシュークリームの皮みたいね、和ちゃんにクリームのひとつでも絞ってもらったら?」

「き、菊代さん、声が大きいです」

「あーーーらぁ、私はこの店のオーナーよぉ、良いじゃなぁい?」

 この厚かましい女性は木古内 菊代(きこないきくよ)(60歳)、和寿の実母である。菊代の言い分はあながち外れてはいないが木古内家はchez tsujisaki(しぇ つじさき)の経営を任されているだけで実際のオーナーは辻崎株式会社である。にもかかわらずこの横柄な態度には目を覆うばかりだった。
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