溺愛のち婚約破棄は許しません  副社長は午前零時に愛を絡めとる
「菊代さん、今日はどうしたんですか?」

「なに、自分の店に来ちゃ悪いの?」

「いえ、そんな意味で言った訳ではありません」

「あなた、失言に申し訳ございませんの一言もないの?」

「申し訳ございませんでした」

 菊代の装いはいつもに増して華やかで周囲に着座している社員は気圧された。果林がライムの浮かんだグラスをテーブルに置くと仰々しく脚を組んだ菊代がメニュー表を開いた。

「いつもの頂戴」

「はい?」

「いつものサンドイッチとカフェオレ!そんな事も覚えられないの!」

 間髪入れずに菊代が謝罪の言葉を求めて来た。

「申し訳ございませんでした」

  菊代は毎日、重箱の角を楊枝(ようじ)で突くように果林に厳しく当たった。

「和寿を呼んで頂戴」

「え・・・・お客さまがいらっしゃって満席ですから」

「果林さんがおひとりで接客されたら?ほんの数分よそれくらいも出来ないの?」

「・・・・分かりました」

「なぁにその不貞腐(ふてく)された顔は!!!」

「申し訳ございませんでした」

 菊代は謝罪の質よりも兎にも角にも果林に頭を下げさせ「申し訳ございませんでした」と言わせたいのだ。

「呼んできます」

「雇い主に向かってなにその呼び方は!果林さん、あなた何様なの!」

「申し訳ありません、お呼びして参ります」

「最初からそう言えば良いのよ」

 母親が来ていると知った木古内和寿は菓子工房の中でエプロンを外すと嬉しそうに奥の席へと向かった。そこに客が居ようとお構いなしに一直線、母親の顔しか見えていない。その有り様に果林は大きな溜め息を吐いた。

(潔いほどのマザーコンプレックスよね)

 そこで(けやき)のガーデンテラス席で手が挙がった。

(・・・・あ、あの人だ)

 その男性は14:00になると(けやき)の木を眺める席に座り同じメニューをオーダーする。濃灰の上質なスーツ、ネクタイの色は紺色。ただ社員専用のパティスリーブーランジェリーにもかかわらず社員証を首から下げていない。

(でも社章は付けているのよね、不思議な人)

「いらっしゃいませ」

「こんにちは」

「いつものオーダーで宜しいでしょうか?」

「お願いします」

 男性はいつもアフォガートをオーダーする。アフォガートはイタリアのデザートでバニラビーンズが香り立つアイスクリームにエスプレッソコーヒーを垂らす。しかしながらその男性は「アッサムティーでお願いします」と言った。

「あ、私はアッサムティーでお願いします」

「かしこまりました」

 そしてその男性は果林を凝視して薄い唇で呟いた。

「アフォガートはイタリアでは溺れるという意味だそうですよ」

「おぼ、溺れるですか?」

「はい」

 その呟きにどんな意味があったのか果林には見当がつかなかった。
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