溺愛のち婚約破棄は許しません  副社長は午前零時に愛を絡めとる
 食事を終えた果林と宗介はエレベーターの箱の中に居た。気まずい雰囲気を破ったのは宗介だった。

「今夜はお疲れ様でした」

「はい」

「タルトタタン、美味しかったです」

「ありがとうございます」

「父と母も喜んでいました」

「私、社長さんと奥様にお会いするなんて思ってもみませんでしたから驚きました」

ぽーーん

「果林さん」

「はい、なんでしょうか」

 靴を脱ぎながら顔を上げると神妙な面持ちの宗介が果林を見下ろしていた。やはり宇野との出来事で気分を害しているのかと姿勢を正すと微妙な間と改まった口調で「シャワーを終えたらリビングに来て下さい」と言われた。

「分かりました、なるべく早く準備します」

「いや、それは大丈夫です。私も心の準備をしますから」

「・・・・・・は?」

「いえ、なんでもありません」

(なんなんだ)

 果林がリビングに行くと天井の照明は落とされ間接照明がオレンジ色の仄かな明かりを灯していた。

「お待たせしました」

 リビングテーブルには赤ワインとワイングラスが2つ置かれ重々しい空気が漂っていた。

(やっぱり宇野さんとの事で怒ってる?)

 果林は唾を飲み込んだ。

「果林さん、座って下さい」

「はい」

(な、なんなんだ)

「はい、果林さん。お疲れ様です」

「あっ、私が注ぎます!」

「私に注がせて下さい」

 深紅のワインは芳醇な香りを漂わせた。宗介は驚く早さで一杯目のワインを飲み干した。

「宗介さん、大丈夫ですか」

「はい」

「飲むペース、早くないですか」

「はい」

 宗介は二杯目のワインを飲み干すと《アフォガートはイタリアでは溺れるという意味です》と果林の耳元で(ささや)いた。

「私は2年間、毎日あなたに会いに行きました」

「お仕事だったとお聞きしていましたが」

「アフォガートをオーダーしていたのは、つまり」

「つまり?」

「毎日、あなたに”好きです”と告白していました」

(あれはそういう意味だったの!?)

 果林が慌てふためいていると宗介はおもむろに立ち上がりチェストの引き出しを開けた。

「果林さん」

(これは・・・ドラマでよく見るあれだ)

 婚姻届と印字された紙、薄茶の枠線の中には辻崎宗介の現住所、本籍、両親との続柄が丁寧な字で書き込まれ印鑑が捺されていた。証人欄も記入済みだ。

「これはいつの間に」

「先日、市役所に出向く仕事があったので一緒に頂いて来ました」

「この婚姻届はどういう意味でしょうか?」

「宇野と結婚をするのか、私と結婚をするのか決めて下さい」

 宗介は果林の手を握った。宗介の手のひらは緊張で汗ばんでいた。

「結婚を決める」

「はい、決めて下さい」

 宗介からの突然のプロポーズに面食らった果林は婚姻届を眺めながら溜め息を吐いた。



翌朝、目が覚めると宗介は既に出社していた。

「・・・・宗介さんと結婚」

 洗濯機のドラムの中で2人のインナーが絡み合っている。果林はそれを座り込んで眺めていた。

「結婚」

 いつの間にか洗濯物を一緒に洗うようになっていた。

(同居生活と同棲生活の違いってなんだろう)

 この部屋の中で宗介の手が果林に伸びる事は無かった。

(これって同棲生活になるのかな)

 昨夜、たった一度手を握っただけの清く正しい関係だがいつの間にか宗介の両親は2人が結婚を約束した仲だと思い込んでいる。そしてついに宗介からは婚姻届を手渡された。

(これは一考の余地も無いという状況なのでは?)

 果林は手を広げて1本、2本と指折り数えた。

1、手を握っても嫌じゃ無かった
2、言葉使いが優しい、気性は穏やか
3、イケメン
4、仕事が出来る、家柄が良い、金持ち、副社長
5、一緒にいると嬉しい、楽しい

(プロポーズを断る理由が見つからない)

 宇野には大変申し訳ないが答えはひとつしか考えられなかった。
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