溺愛のち婚約破棄は許しません 副社長は午前零時に愛を絡めとる
雨の夜
パーティー
Apaiserのオープンから数日後の事だった。商工会議所で夫人同伴のパーティーが催される事になった。これまでは辻崎株式会社からは代表取締役社長である宗一郎と妻の佳子が出席していた。
「今回は宗介が出席してくれ」
「まだ私は独り身ですが」
「なにを言っているんだ果林さんがいるじゃないか」
「そうよ、果林さんにもみなさんの集まりに慣れて貰わなくちゃ」
「まだ時期尚早ではないかと思いますが」
「あらあらあら、果林さんなら大丈夫よ、ねぇ?」
佳子にそう言われれば「今回はご遠慮します」と異を唱える事も出来ず果林はそのパーティーに出席する事になった。商工会では経営診断や事業計画、商品化、販路拡大など事業経営に関する相談事を無料で受ける事が出来た。その為パーティーには事務所、店舗、工場、企業などの事業者など錚々たる顔ぶれが集まる。
「宗介さん、心配です」
「そうですよね、申し訳ありません」
「同伴される奥さま方も茶道や華道のお家元の方が多いとお聞きしました。大丈夫でしょうか」
「初めは緊張するかもしれませんが果林さんなら大丈夫です」
「そうでしょうか」
宗介の根拠のない「大丈夫です」は果林をより不安にさせた。パーティーには正装とまでは言わないがそれ相応の装いで出席しなければならない。手持ちのワンピースなど以ての外だった。
「果林さん、ワンピースを買いに行きましょうか」
「はい」
2人はきらびやかなファッションモールの一角にいた。普段ならば楽しいショッピングも気が乗らない、宗介はそんな果林に気を遣いながら何枚かの上品なワンピースを選んだ。それはシフォン生地で軽やかで清楚、果林によく似合った。
「母からパールのネックレスを頂きました。以前買った白いハイヒールと合わせてこの色はどうでしょうか」
「・・・・・白いハイヒール」
そうだ、あの時宗介は「いつか必要になるから」と白と黒のハイヒールを手に取った。あれはこのような事態を想定しての事だったのか。
「パールのネックレスに白いハイヒールならこの色のワンピースが似合うと思いますが」
それはまるでバニラアイスからミルクティーのグラデーションで7部袖の膝丈フレアスカート、軽やかなシフォン生地のワンピースだった。
「コサージュはどれが良いですか?」
果林は悩みに悩んで季節に合わせ茶色い木の実があしらわれた深い赤茶の薔薇のコサージュを選んだ。
「木の実に薔薇ですか個性的ですね」
「駄目でしょうか?」
「良いと思いますよ」
「試着してみますね」
「はい」
果林はワンピースを手に試着室のカーテンを閉じた。さすが宗介が選んだだけあって果林の面差しによく似合いサイズ感もしつらえた様にピッタリ合っていた。ただひとつの問題は着脱が背中のファスナーであることだった。両手で上げようとしてみたが肩甲骨の下が限界だった。致し方がない。
「宗介さん」
「着心地はどうですか」
「それは良いんですが困った事になりました」
「どうしましたか」
果林は顔を赤らめながら宗介に助けを求めた。
「背中のファスナーが上がらないんです。お願いできますか?」
「ああ!はい!」
宗介は「お邪魔します」と試着室の中に滑り込んだ。
「果林さん、とても似合っています」
「ありがとうございます!ファスナー、お願いできますか?」
「はい」
すると宗介は果林のうなじに薄い唇を近付けると舌先で軽く舐めた。
「ひゃっ!」
「しっ、静かにして下さい」
「宗介さんが悪いんですよ!もう!」
宗介はふっと笑いながらワンピースのファスナーを上げた。
「さぁ、見て」
果林は試着室のカーテンを開き鏡の中の自身に見惚れた。
「綺麗、ウエディングドレスみたい」
「果林さん素敵ですよ。大丈夫、パーティーでもそのワンピースを着て私の隣にいて下さいればそれで問題ありません」
「そうですか」
「いつもの笑顔で」
「はい」
果林の心はシフォンのワンピースのように少しだけ軽くなった。
バタン バタン
うやうやしく頭を下げた黒いスーツに白い手袋の運転手が後部座席のドアを開けた。高台から街を一望出来る場所にそのホテルは建っていた。車寄せに次々に着けられる黒い高級車。中からは白髭の紋付き袴、その後には加賀友禅の着物の女性が連れ立った。高い天井からは光の滝が流れ落ち、足元にはヒールが埋もれる高級な紺色のカーペットが敷かれていた。
「そ、宗介さん」
「そんなに緊張しないで。誰もあなたを取って食べたりはしませんから」
商工会議所のパーティ会場は最上階の18階で開催されると衝立が置かれていた。
「あ、乗ります」
宗介にエスコートされた果林はエレベーターの箱の中に足を踏み入れたが粉っぽい海外製の化粧品の匂いにむせかえった。ふと見上げると年配の女性が宗介に微笑みかけ、次に果林を見下すように一瞥した。果林は居心地の悪さを感じた。
ぽーーーん
エレベーターの扉が開くときらびやかなシャンデリアが会場全体を照らし白い布のテーブルクロスで覆われた円卓が幾つも並んでいた。円卓には豪華なアレンジメントフラワーが飾られ銀のカトラリーが輝いていた。
(別世界だ)
果林は初めて見る豪華絢爛な風景に気圧され宗介の腕にしがみついた。この世界に馴染んだ宗介は「大丈夫」と微笑んだがとてもそんな気持ちにはなれなかった。そして宗介が辻崎株式会社の副社長でこれから社を一身に背負う人物である事を認識した果林は自分がその妻になるのだという現実を再確認した。
(私、とんでもない事をしようとしているんじゃない?)
宗介は上背があり整った面立ちで周囲の人物よりも頭ひとつ抜きん出ていた。今回のパーティーは夫人同伴とあるが未婚の娘を伴ってパーティーに参加する者も多くその娘たちは我先にと宗介の周囲に群がった。娘たちは皆、気品があり育ちの良さを感じさせた。間に合わせで買い揃えたワンピースを着ている果林とは雲泥の差、衣装やアクセサリーも上品で高価な物ばかりだ。果林はこの場所に立っている自分を恥ずかしく思った。
(やっぱり私、宗介さんと釣り合っていないよね)
生まれは町の建具屋でその両親も他界、学歴も低く資格といえば菓子を作るくらいで茶道や華道などとは縁遠い。果林が呆然としているうちに宗介は名刺交換に勤しみ人混みの中に消えた。果林はたった1人壁際でその賑やかな群れを眺めていた。すると給仕がトレーにワインを持ち「いかがですか」と声を掛けて来た。
「ありがとうございます」
受け取ったグラスは芳醇な香りを放っていた。
(・・・・ふぅ)
その時、宗介がにこやかに微笑みながら果林へと歩いて来た。
「1人にして申し訳ない」
「お仕事ですから、大変ですね」
「機嫌悪い?」
「いいえ」
「おいで、皆さんに紹介したいから」
「えっ」
壁の花だった果林は宗介に背中を押されて人の輪の中に連れて行かれた。案の定、娘たちは果林の足の爪先から頭のてっぺんまで見定めると口元を歪ませて小さく笑った。そんな事に気付かない宗介は「婚約者です。仲良くしてやって下さい」と果林を紹介したが娘たちは一斉に蜘蛛の子を散らしたようにいなくなった。
「申し訳ない」
「良いんです、お友達を探しに来た訳ではありませんから」
マイクの音が響き壇上で商工会議所会頭の挨拶が始まった。宗介の視線は壇上に向けられた。その数歩後ろに果林が立ち宗介の背中を見つめていた。その時、すれ違いざまに誰かの肩が果林を押し退けた。
「あっ!」
そこでほくそ笑んでいたのは立派な加賀友禅の振袖を着た若い娘だった。手に持っていた赤ワインがグラスからこぼれ果林のシフォンワンピースを深紅に染めた。娘は小声で「あら、ごめんなさいね」とその場を離れ、果林は胸元から裾に掛けて滲んだ色に涙が込み上げた。
(もう、嫌だ!)
気が付くと果林はエレベーターホールで階下に向かうボタンを連打し、背後では大きな拍手が湧き上がった。「お客さまどうなさいましたか!?」フロントのホテルマンが慌てて後を追って来たが果林は車寄せに停まっていたタクシーの後部座席に乗り込んだ。その頃、宗介は背後にいた筈の果林の姿がなく左右を見渡した。
(果林?)
足元の紺色のカーペットには黒いシミが点々と落ちていた。
「今回は宗介が出席してくれ」
「まだ私は独り身ですが」
「なにを言っているんだ果林さんがいるじゃないか」
「そうよ、果林さんにもみなさんの集まりに慣れて貰わなくちゃ」
「まだ時期尚早ではないかと思いますが」
「あらあらあら、果林さんなら大丈夫よ、ねぇ?」
佳子にそう言われれば「今回はご遠慮します」と異を唱える事も出来ず果林はそのパーティーに出席する事になった。商工会では経営診断や事業計画、商品化、販路拡大など事業経営に関する相談事を無料で受ける事が出来た。その為パーティーには事務所、店舗、工場、企業などの事業者など錚々たる顔ぶれが集まる。
「宗介さん、心配です」
「そうですよね、申し訳ありません」
「同伴される奥さま方も茶道や華道のお家元の方が多いとお聞きしました。大丈夫でしょうか」
「初めは緊張するかもしれませんが果林さんなら大丈夫です」
「そうでしょうか」
宗介の根拠のない「大丈夫です」は果林をより不安にさせた。パーティーには正装とまでは言わないがそれ相応の装いで出席しなければならない。手持ちのワンピースなど以ての外だった。
「果林さん、ワンピースを買いに行きましょうか」
「はい」
2人はきらびやかなファッションモールの一角にいた。普段ならば楽しいショッピングも気が乗らない、宗介はそんな果林に気を遣いながら何枚かの上品なワンピースを選んだ。それはシフォン生地で軽やかで清楚、果林によく似合った。
「母からパールのネックレスを頂きました。以前買った白いハイヒールと合わせてこの色はどうでしょうか」
「・・・・・白いハイヒール」
そうだ、あの時宗介は「いつか必要になるから」と白と黒のハイヒールを手に取った。あれはこのような事態を想定しての事だったのか。
「パールのネックレスに白いハイヒールならこの色のワンピースが似合うと思いますが」
それはまるでバニラアイスからミルクティーのグラデーションで7部袖の膝丈フレアスカート、軽やかなシフォン生地のワンピースだった。
「コサージュはどれが良いですか?」
果林は悩みに悩んで季節に合わせ茶色い木の実があしらわれた深い赤茶の薔薇のコサージュを選んだ。
「木の実に薔薇ですか個性的ですね」
「駄目でしょうか?」
「良いと思いますよ」
「試着してみますね」
「はい」
果林はワンピースを手に試着室のカーテンを閉じた。さすが宗介が選んだだけあって果林の面差しによく似合いサイズ感もしつらえた様にピッタリ合っていた。ただひとつの問題は着脱が背中のファスナーであることだった。両手で上げようとしてみたが肩甲骨の下が限界だった。致し方がない。
「宗介さん」
「着心地はどうですか」
「それは良いんですが困った事になりました」
「どうしましたか」
果林は顔を赤らめながら宗介に助けを求めた。
「背中のファスナーが上がらないんです。お願いできますか?」
「ああ!はい!」
宗介は「お邪魔します」と試着室の中に滑り込んだ。
「果林さん、とても似合っています」
「ありがとうございます!ファスナー、お願いできますか?」
「はい」
すると宗介は果林のうなじに薄い唇を近付けると舌先で軽く舐めた。
「ひゃっ!」
「しっ、静かにして下さい」
「宗介さんが悪いんですよ!もう!」
宗介はふっと笑いながらワンピースのファスナーを上げた。
「さぁ、見て」
果林は試着室のカーテンを開き鏡の中の自身に見惚れた。
「綺麗、ウエディングドレスみたい」
「果林さん素敵ですよ。大丈夫、パーティーでもそのワンピースを着て私の隣にいて下さいればそれで問題ありません」
「そうですか」
「いつもの笑顔で」
「はい」
果林の心はシフォンのワンピースのように少しだけ軽くなった。
バタン バタン
うやうやしく頭を下げた黒いスーツに白い手袋の運転手が後部座席のドアを開けた。高台から街を一望出来る場所にそのホテルは建っていた。車寄せに次々に着けられる黒い高級車。中からは白髭の紋付き袴、その後には加賀友禅の着物の女性が連れ立った。高い天井からは光の滝が流れ落ち、足元にはヒールが埋もれる高級な紺色のカーペットが敷かれていた。
「そ、宗介さん」
「そんなに緊張しないで。誰もあなたを取って食べたりはしませんから」
商工会議所のパーティ会場は最上階の18階で開催されると衝立が置かれていた。
「あ、乗ります」
宗介にエスコートされた果林はエレベーターの箱の中に足を踏み入れたが粉っぽい海外製の化粧品の匂いにむせかえった。ふと見上げると年配の女性が宗介に微笑みかけ、次に果林を見下すように一瞥した。果林は居心地の悪さを感じた。
ぽーーーん
エレベーターの扉が開くときらびやかなシャンデリアが会場全体を照らし白い布のテーブルクロスで覆われた円卓が幾つも並んでいた。円卓には豪華なアレンジメントフラワーが飾られ銀のカトラリーが輝いていた。
(別世界だ)
果林は初めて見る豪華絢爛な風景に気圧され宗介の腕にしがみついた。この世界に馴染んだ宗介は「大丈夫」と微笑んだがとてもそんな気持ちにはなれなかった。そして宗介が辻崎株式会社の副社長でこれから社を一身に背負う人物である事を認識した果林は自分がその妻になるのだという現実を再確認した。
(私、とんでもない事をしようとしているんじゃない?)
宗介は上背があり整った面立ちで周囲の人物よりも頭ひとつ抜きん出ていた。今回のパーティーは夫人同伴とあるが未婚の娘を伴ってパーティーに参加する者も多くその娘たちは我先にと宗介の周囲に群がった。娘たちは皆、気品があり育ちの良さを感じさせた。間に合わせで買い揃えたワンピースを着ている果林とは雲泥の差、衣装やアクセサリーも上品で高価な物ばかりだ。果林はこの場所に立っている自分を恥ずかしく思った。
(やっぱり私、宗介さんと釣り合っていないよね)
生まれは町の建具屋でその両親も他界、学歴も低く資格といえば菓子を作るくらいで茶道や華道などとは縁遠い。果林が呆然としているうちに宗介は名刺交換に勤しみ人混みの中に消えた。果林はたった1人壁際でその賑やかな群れを眺めていた。すると給仕がトレーにワインを持ち「いかがですか」と声を掛けて来た。
「ありがとうございます」
受け取ったグラスは芳醇な香りを放っていた。
(・・・・ふぅ)
その時、宗介がにこやかに微笑みながら果林へと歩いて来た。
「1人にして申し訳ない」
「お仕事ですから、大変ですね」
「機嫌悪い?」
「いいえ」
「おいで、皆さんに紹介したいから」
「えっ」
壁の花だった果林は宗介に背中を押されて人の輪の中に連れて行かれた。案の定、娘たちは果林の足の爪先から頭のてっぺんまで見定めると口元を歪ませて小さく笑った。そんな事に気付かない宗介は「婚約者です。仲良くしてやって下さい」と果林を紹介したが娘たちは一斉に蜘蛛の子を散らしたようにいなくなった。
「申し訳ない」
「良いんです、お友達を探しに来た訳ではありませんから」
マイクの音が響き壇上で商工会議所会頭の挨拶が始まった。宗介の視線は壇上に向けられた。その数歩後ろに果林が立ち宗介の背中を見つめていた。その時、すれ違いざまに誰かの肩が果林を押し退けた。
「あっ!」
そこでほくそ笑んでいたのは立派な加賀友禅の振袖を着た若い娘だった。手に持っていた赤ワインがグラスからこぼれ果林のシフォンワンピースを深紅に染めた。娘は小声で「あら、ごめんなさいね」とその場を離れ、果林は胸元から裾に掛けて滲んだ色に涙が込み上げた。
(もう、嫌だ!)
気が付くと果林はエレベーターホールで階下に向かうボタンを連打し、背後では大きな拍手が湧き上がった。「お客さまどうなさいましたか!?」フロントのホテルマンが慌てて後を追って来たが果林は車寄せに停まっていたタクシーの後部座席に乗り込んだ。その頃、宗介は背後にいた筈の果林の姿がなく左右を見渡した。
(果林?)
足元の紺色のカーペットには黒いシミが点々と落ちていた。