溺愛のち婚約破棄は許しません  副社長は午前零時に愛を絡めとる

破られた婚姻届

 降りしきる雨の中、部屋に戻った果林はワンピースの背中のファスナーを思い切り下げた。シフォン生地のワンピースはほつれてしまったがそんな事よりも悔しさで涙が止まらなかった。

「なんで、なんであんな事をされなきゃならないの!」

 宗介が見立ててくれたワンピースの前身頃は深紅に染まり、下着にもうっすらとそれは滲んでいた。果林は嗚咽(おえつ)を上げながら震える指でパールのネックレスを外し、(しな)びたコサージュをソファに投げ付けた。パールのネックレスを外すと首周りが随分と軽くなり普段の自分に戻ったような気がした。

(やっぱり私が副社長の奥さんになんてなれない、無理!)

 濡れた衣類を洗濯機に放り込み熱いシャワーを頭から浴びた。ボディソープで苛立ちと悲しさを洗い流したが胸のつかえを取り払う事は出来なかった。ドライヤーで髪の毛を乾かしたがなんの解決にもならなかった。

(婚姻届)

 果林はおもむろにチェストの引き出しを開け婚姻届を手に取った。薄茶の枠線にポタポタと涙が落ち万年筆で書かれた辻崎宗介の名前が滲んで消えた。

(宗介さんと結婚するなんて無理!)

 果林は咄嗟(とっさ)に両手で婚姻届を持つと2枚に引き裂き細かく破いた。

(無理!)

 婚姻届ははらはらとフローリングの床に舞い落ちた。

(やっぱり無理!)

 果林は部屋着に着替えると部屋を飛び出しエレベーターに乗った。果林が向かったのはApaiser(アペゼ)、本来自分がいるべき場所はパティスリーの菓子工房であり、きらびやかなパーティー会場ではなかった。2階のフロアで出くわした夜間警備員に「忘れ物を取りに来ました」と挨拶をし店の扉の鍵を開けた。ふわりと甘い砂糖やバターの匂いが果林を抱きしめた。

(・・・・最悪)

 暗いバックヤード、誰もいない菓子工房、静まりかえった店内は普段ならば不気味に感じるだろうが今の果林の頭の中は空洞で真っ白だった。

(ただのパティシエールが大きな会社の副社長さんの奥さんになるなんて無理だ)

 雨粒がガーデンテラスの窓に涙の筋を作った。少しずつ冷静になった果林はヒッコリーの椅子を窓際に運びそれを無言で眺めた。

(宗介さんどうしたかな、心配しているよね)

 時計の秒針が時を刻むと鳩時計が23:00を告げた。帰宅した宗介が細かくちぎられた婚姻届を見たらどう思うだろう。それは手に取るように分かった。きっと自分を探し回るだろう。果林は自分がただかまって欲しくて駄々をこねている子どものようだと思い恥ずかしく思った。

(どうしよう)

 どれだけ時間がたっただろう自分の行動を馬鹿らしく感じ椅子から立ち上がろうとした時だった。エレベーターの扉が開く音がして聞き覚えのあるかかとを引きずる革靴の足音が駆け足で近付いて来た。Apaiser(アペゼ)の鍵が開いている事を確認したその影は勢いよく店内に踏み込んだ。

(宗介さん!)

 宗介は果林を見つけると足早にその姿を抱き締めた。

「何をしているんですか!」

「宗介さん」

「心配させないで下さい!それにあれはどういうことなんですか!」

「あれ?」

「婚姻届です!」

 宗介の顔は見えないが指先が震え声はかすれていた。

「あれは」

「あれはなんですか!」

「私、やっぱり宗介さんとは結婚出来ません」

 宗介は果林の肩を引き離すと信じられないことを聞いたような面持ちでその顔を凝視した。

「どう言うことですか」

「パーティー会場で分かったんです。私は宗介さんには不釣り合いです」

「そんなことはありません、どうしてそうなるんですか!」

「宗介さんにはあの場所にいたお嬢さま方がお似合いです。私じゃありません」

「私は果林さんが良いんです!」

 宗介は果林の肩を揺さぶると眉間にシワを寄せて声を大にした。果林はその気迫に気圧(けお)されて思わず目を(つむ)った。

「ごめんなさい、自信がありません」

 宗介は一呼吸置くと深く力強い声で呟いた。

「許しません」

「え」

「私は婚約破棄なんて許しません」

 宗介は果林の髪に指先を埋めると思い切り唇を奪った。果林の中に差し込まれた舌は生き物のように這い回り痛みを感じる程に強く吸い上げた。それは息継ぎが出来ない程長く続き果林はその胸を押しやった。

「誤魔化さないで下さい!」

「誤魔化してなどいません!パーティーに出たくないのならばそれでも構いません!」

「そんな訳にはいきませんよね!無理です!」

「果林さんがいなくなるなんて私には耐えられません!」

 宗介は果林をテーブルに押し倒すと激しく口付けその手は胸をまさぐり始めた。

「駄目です!やめて下さい!ここは大切な場所なんです!」

 宗介は我に帰り果林の言葉でその動きを止めた。

「・・・・済まなかった」

 そこへ夜間警備員の持つ懐中電灯の明かりが上下左右し果林は衣服の乱れを整えた。

「部屋に戻りましょう、話はそれからです」

「はい」

 エレベーターの箱の中では気まずい空気に包まれ2人は無言で玄関の扉を開けた。
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