溺愛のち婚約破棄は許しません  副社長は午前零時に愛を絡めとる
 濃灰のスーツに紺のネクタイ、赤茶の革靴を履いた男性は社員証を首に下げた総務課部長と一緒にエレベーターから降りて来た。

(総務課の部長さんはエスプレッソにティラミス、あの男の人はアフォガート)

 咄嗟(とっさ)にいつものオーダーが頭を過ぎった。果林は1度来店した社員や役員の顔とオーダーした品を記憶するという特技を持っていた。よって来店者はその接遇に感激し常連客となる。

「・・・・・あ」

 男性も果林に気が付いたのか会釈する総務課部長に「いいよ、いいよ」という風に手を挙げて総合案内所に向かって歩いて来た。アテンダントスタッフがお辞儀をしたので小声であの人が誰かと尋ねたが分からないと答えが返って来た。

「こんばんは」

「いつもありがとうございます」

「はい」

 やはりその胸元に社員証は無くスーツの襟元には社章が光っていた。

(・・・・誰なんだろう)

 果林がぼんやりと間抜けな顔で社章を見上げているとその男性は優しく微笑んだ。

「果林さん」

「はい?あの、なんで私の名前をご存知なんですか?」

「あぁ、いつもパティシエ、オーナーに呼ばれているから覚えました」

「あーーーーーあれですか。お恥ずかしい」

「でもなぜ果林さんが彼に注意されているのか私には分かりませんが」

「私がのんびりしているからです」

「いえ、果林さんの穏やかな雰囲気が好ましいとみんな言っていますよ」

(ん?みんなとは誰が?みんな?)

「そうですか、ありがとうございます」

「そうだ、私の名前をあなたに伝えていませんでした」

「お名前ですか」

「はい」

 男性はスーツの内ポケットを探してみたが名刺入れを忘れたと言った。

「あぁ、名刺を忘れるなんて最悪ですね」

「最悪ですか?」

「最悪です」

 男性は最悪だと言いながら果林に右手を差し出した。

(握手、握手をするのね)

 それは握ると大きく見た目よりもゴツゴツとしていたが温かい手だった。

「私の名前は辻崎 宗介(つじさきそうすけ)と言います」

「辻崎、この会社と同じ名前ですね!」

「あーーーー、そうですね。そうとも言いますね」

「宗介さん、素敵な名前ですね」

「ありがとうございます」

 宗介は顔を赤らめて横を向いたが果林の腕に抱えているポスターに興味を示した。

「それはなんですか」

chez tsujisaki(しぇ つじさき)のスタッフ募集のポスターです」

「拝見しても宜しいですか」

「はい」

 男性は眉間にシワを寄せた。

chez tsujisaki(しぇ つじさき)のスタッフの時給が970円ですか」

「ちょっと安いですよね」

「これは宜しく無いですね、ありがとうございます」

 すると背後で総務課部長が宗介の名前を呼んだ。

「果林さん、また明日」

「はい、またのお越しをお待ちしています」

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 宗介は社員出入り口の自動扉の奥に向かうと黒い車の後部座席に座った。

「誰なんだあの人は。謎な人だ。あっ、閉館時間になっちゃう!」

 果林は慌ててエスカレーターを駆け上がった。
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