自信家CEOは花嫁を略奪する
1 再会
「はい、岡田です。え? 社長? あ、はい、大丈夫です。すぐに伺います」

 同僚の岡田の内線が鳴り、華原(かはら)璃桜(りお)はチラリと目だけ動かして彼女を見、それから視線をパソコンに落とした。

 三年勤めたこの会社を今日退職する。本当はもっと勤めたかったが、家庭の事情でやむを得ない。本当だったら就職自体できなかったところを三年だけということで許されたのだ。

 岡田が離席するのを気配で感じつつ、璃桜はじっとパソコンの画面を睨んだ。

 昨夜のことを思いだすと今でも体がジンと熱くなる。なにより股間の違和感はまだ取れていない。朝起きたら、あまりの激痛に悶絶し、出勤できないのではないかと危ぶんだほどだ。だが、どこの世界に最終出勤日に会社を休むバカがいるのだ。焦りながらなんとか立ち上がり、支度をして家を出れば、通勤途中で痛みはかなりなくなった。それでも走る、しゃがむ、などの動作はまだ違和感がある。

 それから間もなく、岡田が戻ってきた。

「なんだったの?」

 別のスタッフが声をかけると、岡田は狐につままれたような様子で首を傾げた。

「それが……私の顔を見るなりビックリしたように目を丸くして、君が岡田さん? 本当に? 総務にはもう一人岡田さんっている? って聞くのよ。総務に岡田は私一人ですがって答えたら、もういいって言われて。なんの用だったのか、こっちが聞きたいわ」

「そうなんだ。社長に呼ばれるってなんだろってみんなで盛り上がってたのよ?」

 そーそー、と周囲からも同意の言葉が発生する。

「私だってときめいたわよ。もしかしたら専属秘書に、とかさ」
「だよね~。なんたってイケメン御曹司、頭もいいエリートだからカノジョの座を狙ってる女はわんさかいるから」

 盛り上がる中、璃桜は胸中で呟いた。

(特定の相手は作らない、カノジョ面したら即切り、だけどね)

 小さく「はあ」と息を吐き、時計を見ると九時半。早く五時になってほしい。そして退社し、もう二度と社長、松阪和眞(かずま)の姿を見ることもわずかな気配を感じることもない。

 璃桜はもう一度吐息をついた。

 大学時代、経済系のテレビ番組に出演していた和眞を見たことで彼の存在を知った。年季の入ったニュースキャスターや年配のコメンテーターに対し、若いのに堂々とやり取りしている姿に興味を持って、その後自分なりに調べてみたら、驚く経歴の持ち主であることがわかった。

 世界中で人気を博しているエンターテインメント産業の老舗である松阪産業の創業家跡取りであり、本人は二十五歳の時にITによる映像関連のセキュリティソリューションを行う会社、IFSS(イフシーズ)株式会社を創立した。みなは社長と呼んでいるが肩書はCEOだ。去年、起業から六年で東証マザーズにも上場を果たした。

 歳は現在三十二歳だが、十六歳で渡米し、スキップを行いつつ二十三歳でMBAを取得し、二年間ハリウッドなどで人脈を作り、二十五歳で帰国、すぐにIFSSを興し、会社起業後六年で上場させた手腕によって、やり手青年実業家として注目されている。

 一八〇センチに細マッチョというしなやかなボディに甘いマスクの外見で、とにかく女に大人気だ。女性関係は派手で、とっかえひっかえ相手を変えているし、本人は平然と特定の相手を作らないと公言している。

 璃桜ももれなくそんな和眞に憧れている一人だが、少なくてもスペックで惚れたとは思っていない。

(私は社長の経営理念に惹かれたのだけど……でも、それも今日まで。この会社を出たら生涯をかけて果たさなければならない事に注力しないと。もう、充分好きにさせてもらったから)

 キャーキャーと騒いでいるスタッフたちを横目に、引き継ぐものがきちんと引き継がれたか、漏れはないかを確認し、終わったものはデータを削除していく。次に机の中の整理を。その次は三年使った机をきれいに拭いて、午後からは簡単だか世話になった人たちに挨拶をして回って終わりだ。たった三年だ。すべきことはそれほど多くない。

 退社時には総務部で軽く挨拶の場を設けてくれると聞いているが、元来目立ちたくないと思う引っ込み思案な性質なので、そっと去りたいのが本音だった。

「ねぇ、華原さん」
「………………」
「華原さんってば」
「え、あ、はい」
「どうしたの? ぼんやりして」
「今日が最後だからしみじみしてる?」
「だけど寂しいわねぇ」

 脇から次々言葉が入り、璃桜は微笑みだけ返した。

「ここを辞めて次は決まってるの? 聞いちゃいけないかと思ってたんだけど、もしかして実は寿なんじゃないかなって思ってさ。最後の日だから聞いてもいいかなって」

 最初に声をかけてきたスタッフがためらいがちに問うてきて、璃桜は答えに窮したものの、ここで婚約した、と言うと騒ぎになるので隠すことにした。

「実はその真逆で、おめでたい話じゃなくて、親の調子が悪いの。だから面倒見ようかなって」

 刹那に空気がしゅんと沈み込んだ。

「そうなんだ……ごめんなさい」

「いいの。こっちこそ、しんみりさせてごめんなさい。命がどうのって病気ではなくて、ちょっと心のほうが弱っちゃって。傍にいないと心配なもんで」

「そっか。もし気分転換とかしたかったらいつでも連絡ちょうだい。ガス抜きは必要だし」

 同期でもない職場の同僚にそんなことは言えないものだが、彼女たちもなんと言えばいいのかわからないのだろう。ここは微笑んで礼を言っておくに限る。

「ありがとう。そんなふうに言ってもらえると心強いわ。なにかあった時はよろしくお願いします」

「ええ!」
「ぜひぜひ」
「おいしいものでも食べにいこう」

 場の空気が元に戻り、璃桜は内心でホッとした。

「華原さんがいなくなったら、課長とか部長とか、寂しがるだろうね」
「え? そんなことないですよ」

 否定するが、刹那に横から別のスタッフが口を挟んでくる。

「課長部長だけじゃなく、早瀬(はやせ)専務もじゃないかな?」
「あ、それは言えてる。用もないのに総務(ここ)に顔出すもんね」
「そーそー。で、華原さんがいないと、しょぼんとして帰っていくもんね」
「それ、なんなんですか? 初耳です」

 璃桜が問うと、みなが軽快に笑った。

「華原さん、けっして古めかしいわけじゃないのに、大和撫子って感じでさ、おじさんたちに人気なのよ。知らなかったの?」

「知りませんよ、そんなの」
「そういうところがいいのかもね」
「奥ゆかしくて」
「えええっ!?」

 はははっと軽快な笑いが起こる。だが、総務課長と総務部長が会議から戻ってくると、みなは一斉に仕事に戻り、会話は一切なくなった。

 それから午前の就業時間が終わってランチタイムとなり、また午後の就業時間が始まる。その午後もあっという間に過ぎて、退社の時間がやってきた。璃桜は総務部スタッフに簡単に挨拶すると、花束を渡されて労をねぎらわれ、拍手を受けながら職場をあとにした。

 ガランと無機質な机となった璃桜の席は週明けから別のスタッフが来ることが決まっている。総務の面々が璃桜の話題を終えようとした時、そこに松阪和眞が現れた。

「あ、社長、なにかご用ですか?」

 女性スタッフの全員が目を輝かせて注目する中、

「拍手とか聞こえたけど、なにかあったのか?」

 と、問うと、総務課長の島村(しまむら)が立ち上がって答えた。

「今日で退職したスタッフがいたもので。それで、社長、なにか?」

 和眞は総務部内をきょろきょろと見渡しながら、「いや」と答えた。

「拍手が聞こえたから気になっただけだ。仕事中にすまない。あ、でももう終業時間だからみんな早く帰るように。残業はできる限りしないでくれ」

「わかっています。みな、もう帰りますよ」
「そうしてくれ」

 言いつつ、身を返して社長室に戻ろうとするが、ふと視界の端にスタッフのいない殺風景な空席を捉えた。とはいえ、だからといって、なにを思うわけでもない。

 社長室に戻ることにした。

 総務部に『岡田』というスタッフは一人しかない。それは社員リストを見て確認した。だがその『岡田』は昨夜の女とは似ても似つかず、そして昨夜のことを知りもしない。

(どういうことだ?)

 総務課長に昨夜の女の顔を確認してもらおうにも写真を撮ったわけでもないし、手段がない。

「あ」

 その時、閃いた。履歴書を確認すればいいと思いついたのだ。全スタッフのデータの中から条件を絞って検索すれば、デジタル化された履歴書を探すのは骨ではないはずだ。

 さっそくパソコンに向かい、データファイルにアクセスする。アクセス権はそれぞれ設定されているけれど、社長である和眞はフルパスだ。いくつか検索条件を入力し、エンターボタンを押そうとした時、電話が鳴った。

「もしもし。あぁ、これは斎藤(さいとう)社長、ご無沙汰しております。お元気そうで、なによりです。ええ、僕もこの通り元気ですよ。え? 来週末? えぇ、いいですよ。ちょっと待ってください」

 和眞は展開されている画面を消し、スケジュールアプリを画面に展開させた。そこで斎藤社長の言っている日を確認する。

「大丈夫です。あいています。では、喜んで参加させていただきます。えぇ、よろしくお願いします」

 にこやかに返事をして受話器を置くと、立て続けにまた電話がかかってきた。

「もしもし」

 電話の相手は今取り組んでいるアプリの納入先の社長だった。和眞の頭は素早く切り替わり、もう『岡田』という名の女性スタッフのことなどきれいさっぱり消え去っていた。

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