自信家CEOは花嫁を略奪する
 淳也が夜に和眞を訪ねた日から二十日ほどが過ぎた。璃桜と淳也の結婚式が四か月を切った時期に差し掛かったところだ。

 自分の窺い知らぬところで事が動いているなど夢にも思うこともなく、璃桜は挙ホテルから届くと聞いていた書面がまだであることを心配し、担当者に問い合わせの電話をかけたのだが――

「え? キャンセル?」
『はい。新郎の坂戸様から中止になったのでとキャンセルの連絡を承りましたが』
「いつ、ですか?」
『えーっと、あ、三日前ですね』

 なにも聞いていない。璃桜は言葉を失った。が、疑問はいくつも湧いてくる。

「……電話で、とか?」
『いえ、直接お見えになりました。間違いがあってはいけないからと』

 担当者の声がずいぶん遠くに聞こえる気がする。

「そうですか」
『あの、キャンセルでよろしいのですよね? なにか行き違いがあるとか、そういうご事情がおありでしょうか? もしそうでしたら、保留にいたしますが』
「いえ……すみません、キャンセルでお願いします。今までいろいろとありがとうございました」

 そう言って電話を切るものの、なにがどうなっているのかさっぱりわからない。ホテルの対応が気に入らないので別の会場にしようとでも思ったのだろうか。

 淳也は璃桜に丸投げでまったくタッチしていなかったのに、と思うとなんだか腹が立ってくる。なにもしなかったくせに、こちらに一言も言わず勝手にキャンセルするとは、と。

 しかしながら、中止になったという言葉が気になる。キャンセルする口実か、本当に縁談が破談になったのか。

 璃桜は確認すべく史乃のもとへと向かった。が、扉をノックするも返事がない。

(あれ? 留守?)

 そう思った矢先、家政婦の一人が璃桜に気づいて近づいてきた。

「奥様、今日から一泊でお出かけですよ。北海道で行われるパーティにご出席で」
「そうだった。でも、外出って宿泊を伴うものだったのね。わかったわ、ありがとう」

 仕方なく部屋に戻る。するとベッドに陽子がちょこんと腰かけていた。

「お母さん、ダメだっていつも言ってるでしょ」
「奥様がいない時はいいじゃない」
「それはそうだけど……」
「それより結婚式の準備は進んでるの?」

 璃桜はちらりと陽子の顔を流し見る。

「だって、出席できないのよ? 話くらい聞かせてよ」

 そう言われたら仕方がない。璃桜は椅子を引き寄せ、陽子の前に座った。

「それが……おかしなことになってるみたい」
「どういうこと?」

 もう一度、チラリと陽子を見、すぐに逸らした。言うべきかどうか迷う。だが璃桜も状況に困惑し、不安があまりに大きくつい口を衝いて出てしまった。

「ホテルから送られてくる予定の書面が届かないから電話したら、淳也さんが式をキャンセルしたって」
「え? キャンセル?」
「うん。中止になったからって。そんな話、聞いてないし。奥様に尋ねようと思ったけど、今日から宿泊のお仕事だそうで。夜、お父さんが帰ってきたら聞いてみるけど……」
「…………」

 黙り込んでしまった陽子に気づいて視線を向ければ、青い顔をして俯き加減になっている。璃桜は陽子が自分のせいではないかと考えていることを察した。

「お母さんのせいじゃないと思うわ。それだったらあの時に破談にするって言うはずだもの。なにかあったのよ。破談になったのならお父さんが知らないはずがないから」

 不安そうに話す璃桜の手を陽子が急に握ってきた。

「ねぇ、璃桜、破談になったらこのお屋敷から出る話もなくなるのよね?」
「そりゃそうよ」
「えーー、イヤよ、そんなの」
「仕方ないじゃない」

 口を尖らせて拗ねる陽子に呆れるが、こればかりはどうすることもできない。結婚もせず、ただ一人暮らしをしたいと言っても許してくれるはずがないし、そもそも会社を辞めて無職の今、実際に生活はできないだろう。

「二人で暮らしましょうよ、璃桜」
「なに言ってるのよ」
「私たち、親子じゃない。一緒に住んでどこが悪いの? お金ならあるわ」

 その言葉にカチンときた。璃桜は無意識に立ち上がり、睨むように陽子を見下ろす。

「そのお金はお父さんをたぶらかして私を産んで得たものでしょ! そんなの全然自立って言えない。ぼったくりとおんなじ! それに私は華原家の娘なの。出生はどうであっても、華原夫妻の戸籍に入ってる。そんな真似するわけないでしょうが」

「でもぉ」
「私の母親は奥様よ。奥様の言葉に従うわ」
「じゃあ、私は?」
「単なる生みの親よ。育ててくれたのは奥様だわ」
「ひどい」
「ひどくない。そういうことで話は決まっているの」

 陽子はふるふるとかぶりを振った。

「璃桜を身ごもった時はそうだった。生まれた時もそうだった。だけど樹生ぼっちゃんが生まれたから私は親を名乗っていいって言われたわ」

「身内の前だけね。お母さんが生みの親であることに違いはないから。でも、外でそれを言ってはダメよ。今回、坂戸さんには知られてしまったけど、誰かに漏らすことはないわ。だいたい、お母さんは言ってること無茶苦茶なの。ここを出たいならお酒はやめないと。許してもらえない理由はお酒なのよ? わかってる? お母さんが先生の指導に従ってアルコールを断って信用されたら、いくらでもここから出られるの」

 またふるふるとかぶりを振って璃桜の言葉を否定する。

「璃桜と一緒じゃなきゃイヤよ。たった一人で暮らすのは不安だわ」

「ほらぁー。だから結局はお母さん自身の問題じゃないの。とにかく、ここを出る話はなくなったわ。でも、いつまでも奥様に迷惑かけちゃいけないから、お酒は断って、信用してもらって、自立しよう」

「…………」

「それがイヤなら、ちゃんとして、面倒を見てくださってる奥様に恩返ししよう。ね? お母さんだって奥様にご恩感じてるでしょ?」
「……こわいけど」
「それもお母さんが悪いのよ。奥様は優しいわよ。いいわね?」

 強く言えば、陽子はようやく頷いた。

「…………」
「璃桜?」

 たまらなくなって思わずギュッと陽子に抱き着けば、耳元で名を呼ばれてハッと我に返る。

「璃桜、どうしたの?」
「一緒に頑張ろ。私たち、ちゃんとできるって示そう。頑張って、奥様によくできたって褒めてもらおう。ねぇ」
「……うん」

 まるで子どものような返事でどちらが親かわかったものではないが、伝わってくる体温が不安を和らげてくれているのは確かで、璃桜を陽子を強く強く抱きしめた。

 それから数時間。

 璃桜はなぜ淳也が結婚式をキャンセルし、それを連絡してこないのかが気になって仕方がなかった。俊嗣や史乃がなにも言わないのは知らないからだろう。連絡を受けていればすぐに話してくるはずだ。

 会社を辞めてしまって家にいる毎日。特になにをするわけでもないので気を紛らわせることができない。

 最初はネットの記事を読み、次にIFSSに関する新しい情報がないか探し、最後はパソコンから離れて読書に至った。しかしながらベッドのヘッドボードに凭れる格好で読んでいたので、いつの間に寝落ちしてしまい、起きたのは夕方だった。

 半ば寝ぼけた頭で階下へ下りて行くと、田中が勝手口から出ていこうとする姿を見つける。問えば、明日の朝食に必要なバケットを買ってくるよう頼まれたそうで、璃桜は一緒に行くことにした。田中とは心やすいので、おしゃべり含めいい気分転換になるだろう。

 少しだけ待ってもらい、鞄を手にして戻れば、二人して徒歩十分の距離にある駅前のパン屋に向かった。

「ねぇ、せっかくだからお茶していかない?」
「私はかまいませんが、大山さんに連絡しないと、遅いと叱られますので」
「私がするわ」

 大山とは料理をメインとしている家政婦の名だ。若い頃、フランス料理店のキッチンに立っていた経験からさすがの腕前だった。彼女には家庭があるので住み込みではなく、必要に応じて出入りしている。

 璃桜は大山に電話をかけ、お茶をして帰ることを告げた。それからパン屋が併設しているカフェスペースに入ってケーキセットを注文する。

「お嬢様と一緒だとおいしいものをご馳走してもらえるのでうれしいです」
「これくらいお安い御用よ。私の気分転換につきあってもらえて、こっちこそうれしいから」

 田中は結婚式の話を聞きたい様子だったが、さり気なくかわして逸らし、小一時間くらいおしゃべりをして席を立った。

「ただいま」

 玄関を開ければ――

「知らないと言っているだろう!」

 いきなり怒声が飛び込んできた。俊嗣の声だ。

(お父さん? こんな時間にもう帰ってるの? でも、お父さんが怒鳴るって?)

 俊嗣は温厚な男だ。物静かで、声を荒げて怒鳴る姿などほとんど見たことがない。いくら怒っても感情的にはならず、理路整然と説教するタイプだ。

 そう思う間に怒声の続きが響いた。

「それよりも約束を守りなさい! みな君の体を心配しているんだぞっ」

 約束、体――その言葉に、俊嗣が誰に向かって怒鳴っているのか刹那に察した。

(お母さんがお父さんに怒られてる!)

 陽子と華原夫妻との間で取り交わしている約束事。それは俊嗣に近づかないというものだ。それさえ守れば、陽子は自由で、金銭的にも保証されている。

 それなのに。

(なにがあったの!?)

 璃桜は怒声のする場所に急いだ。
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