自信家CEOは花嫁を略奪する
「璃桜さん」
ホテルのエントランスに置かれているソファに腰かけていると名前を呼ばれた。物思いにふけっていたが、我に返って顔を上げれば婚約者が真横に立って見下ろしている。璃桜はにこりと微笑みかけた。
「こんばんは、淳也さん」
「今夜はよろしく」
「こちらこそ。あまりパーティは得意ではないので、本当によろしくお願いします」
坂戸淳也はへらっと微笑んだ。それがずいぶん軽薄に見える。
淳也はネクタイこそパーティ用にアスコットタイでスーツの生地も見るからに高級だとわかるが、総合的な印象は普通だろう。
対して璃桜は、白のサテン地にグレーのレースを被せてシックな調子になっているパーティドレスで、ふわりとしたAラインのスカートがまるで妖精のようだ。おとなしい顔立ちだが清楚な雰囲気の璃桜にはよく似合っていて可憐で麗しい。
それでも淳也は璃桜に社交辞令でも褒め言葉一つ言わないので、彼が璃桜のことをどう思っているのか、これだけで察することができる。
(別に期待してないし)
今の世にふさわしくない言葉かもしれないが、『政略結婚』と称して然るべき縁談で、璃桜は希望の欠片も抱いてはいなかった。それにこの男には交際している女がいるのだ。別れる気配もないので、結婚と恋愛は分けて考えているのだろう。
だが、それすらも璃桜は興味がなかった。松阪和眞とのあの夜が実っただけで満足だったからだ。
「ご両親は?」
「もう会場です。ご挨拶する方が多いので先に行きました」
「そう。じゃあ、僕を待っていてくれたのか」
なぜだか、はい、と答える気がしなくて、璃桜はやんわり微笑んだ。
「じゃあ、僕たちも行こうか」
「はい」
すっと立ち上がり、歩き始めた淳也の半歩後ろを行く。これもけっして昔のように男を立てて横に並ばないのではない。単純に並んで歩きたくないだけだ。だが淳也は前者のように受け取ったのか、笑って肘を出してきた。
(腕を組むの? 嫌だわ)
そう思うが仕方がない。軽く手を添えた。それからエレベーターで二階に上がり、パーティ会場へと向かった。
会場入り口には大きな花がいくつも飾られていて、『ベリーベビー本舗新商品発表祝賀会』との案内板がある。二人はそこに進み、中に入った。
「盛り上がっているな」
「そうですね」
かなりの人がいて、広い会場の壁には会食用のドリンクや食事が並べられている。また円形のカウンターテーブルがいくつも点在し、それを囲って参加者が歓談していた。
「華原さんに挨拶しないと」
「あとでいいですよ」
「それはダメだよ。親になる人だから」
刹那、璃桜は自分の顔が強張るのを感じた。
「そうですね。だけど、だからこそあとでいいです。もっと大切な方にご挨拶なさったほうが有益ですから。でも、せっかくそう言ってもらっているので捜してきます」
「そう? 悪いね」
「いいえ。では」
軽く会釈をして立ち去り、親を捜すフリをしてそっと会場から出た。
たった数分一緒にいただけで疲労を覚える。そんな自分に苦笑する。
淳也と顔を合わせるのは今日で六回目くらいだと思う。縁談が持ち上がったのは八か月くらい前だが、日程が合わず、顔見せが実現したのは半年前だった。そこから月に二回程度会うことになったが、軽くランチをするくらいで終わっている。夕食の約束をしないのは、おそらくその後、璃桜と別れてから交際している女と会っているからなのだろう。
興信所の報告では、淳也の恋人はアパレル会社の販売員で、土日は関係ない。ローテーションなので土日のどちらかを早出にすれば、仕事が終わったあとに会うことができる。
璃桜としては、経済界に影響力を持つ華原家と政治家の坂戸家が結びつくことが大事であって、本人のデキはどうでもよかった。璃桜が嫁げば、父も腹違いの弟である樹生も、安泰だろうから。
(そういえば淳也さん、私が華原家内では肩身が狭い思いをしてるんじゃないか、みたいなことを言っていたわね。愛人が産んだ子は、誰の目にもそう映るのかしら)
ホテルの二階にも休憩できるスペースが設置されている。窓際に背もたれのないスクエア型の革張りチェアがいくつか置かれているので、璃桜はその一つに腰を下ろした。
(確かに家庭団欒和気あいあいって感じではないけど、これくらいのギクシャク感は血のつながった家族でもあるでしょう。樹生さんがちょっとよそよそしいくらいで、一般的な家庭の範囲内だと思うわ)
華原家に不満を抱いたことなどない。だが、周りはそうは見ない。いちいち否定するのも面倒だ。自分自身、心の中で感謝をしていればいいだけのことだから。
ぼんやりと窓の外を眺めていると、そのガラスに人が映った。背の高い男性だ。
(え?)
よく知っている整った精悍な顔が驚いている。
(どうしよう――)
ヒヤリと冷たいものが全身を包み込む。体が緊張で硬直してしまって振り返れない。だがガラス越しにバッチリ目が合っている。
(気づかないフリはさすがにできないから……スルーしかないかな)
何事もないという態度を示そうと、震える手でハンドバッグの中からスマホを取り出そうとしたが、それが間違いだった。男――和眞に声をかけさせるキッカケを与えてしまったのだ。
「こんなところで再会とは。総務の岡田さん」
「………………」
「あの時はあれだけ積極的だったのに、今夜は無視か?」
くっと唇を噛み、なんと対応しようか悩むが、考える時間は実質ない。
仕方がない。
「どちらさま? どなたかとお間違えでは?」
「――――――」
立ち上がろうとすると、和眞はさっと璃桜の横に腰を下ろして右手首を掴んだ。
「つれないな。深い関係になった仲だろ?」
「なんの――」
「華原璃桜、あの翌日、会社を辞めた元我が社の総務課社員」
「………………」
「ウチは退職時、有給休暇を消化することを容認している。本当ならまだ籍があってもいいところだ。それなのに君は消化せずに辞めている。社内で俺と顔を合わせることを避けたんだろ? あの夜のことは退職と引き換えだったのか? だったらえらく光栄な話だ。ここで逃げることはないんじゃないのか?」
掴まれた手をぐっと引き寄せられ、璃桜は顔を背けた。
「社長は特定の女性と交際はなさらないでしょ? 私が追いすがったら迷惑ではないですか。無視されたのだから、それに乗っていただきたいものです」
「確かにそうだが、別にケンカをする気はない」
「そういうのを屁理屈って言うんです。すみません、人を待たせているので、これで」
再び立ち上がろうとしたが、やはり引っ張られて阻まれた。
「放してください。それとも、私と交際したいと告白してくださるんですか?」
璃桜のツッコミに今度は和眞が息をのんだ。
「それを望んでいるのか?」
「いいえ。あなたとは、一夜限りの関係です」
「――――――」
今度は力任せに腕を振って和眞の手を振り払った。そして立ち上がる。無視して去ろうとした時、璃桜の名を呼ぶ声が響いた。
「璃桜さん、こんなところにいたのか」
淳也はそう言いつつも、視線を和眞に向けている。三人の間にピンと張りつめた空気が広がった。
「こちらは?」
淳也の問いににっこり微笑んでみせる。
「それが偶然にも先日まで働いていた会社の社長さんも参加されていたんです。だから少しお話ししていました」
「社長?」
「ええ。IFSSの社長で松阪CEOです。あ、松阪社長、こちらは私の婚約者で坂戸さんです」
璃桜が振り返れば、和眞はすでに立ち上がっていて、驚いたように目を見開いていた。
「婚約者?」
「はい。寿退社だったんです。でも、周囲に騒がれるのが嫌だったもので、言わずに自己都合で退職しました」
「――――――」
黙り込む和眞とは正反対で、淳也はまっすぐ歩み寄り、すっと手を出した。
「坂戸です。彼女がお世話になった会社の社長とは」
「――松阪です。よろしく」
二人は握手を交わし、すぐに手を離した。
「松阪社長のことは存じ上げていますよ。と言っても、テレビや経済紙からの情報ですが。すごいな、僕なんて足元にも及ばない。いつまでも親元で脛齧ってる甘ちゃんで」
「そんな、買い被りですよ。私とてまだまだですから」
「そっか、《《璃桜》》はこんな立派な方の会社にいたんだね。結婚で辞めるって、もったいなかったかな」
「そんなことはありません。私は不器用だから、働きながら家庭を切り盛りすることはできないと思うので。では、社長、失礼します」
璃桜が丁寧に頭を下げると、淳也も会釈した。そして二人で会場に向けて歩き出す。その際、璃桜は淳也の腕に手を回した。ここに来る時よりもしっかり絡ませて。
「いい男だったねぇ」
淳也が囁くように言うのを璃桜は無視した。
「璃桜さん?」
「さっきは呼び捨てにされましたけど、どうして?」
「――それは」
淳也の顔を見上げれば、彼はきまりが悪そうに視線を逸らした。
璃桜のことなどなんとも思っていないくせに、対抗心は湧くようだ。
「ふふ、妬いてくださったのならうれしいので、そういうことにしておいてください」
「………………」
その『妬く』は璃桜に対してではなく、男として有望な青年実業家の才能や評価に対するものだろう。わかっているが、機嫌を取っておくほうが無難だ。
璃桜はおくびにも出さず、微笑みを浮かべ続けた。
(私を想っていないのはわかってる。だけど私もあなたのことはこれっぽっちも想っていないからお相子よ)
ホテルのエントランスに置かれているソファに腰かけていると名前を呼ばれた。物思いにふけっていたが、我に返って顔を上げれば婚約者が真横に立って見下ろしている。璃桜はにこりと微笑みかけた。
「こんばんは、淳也さん」
「今夜はよろしく」
「こちらこそ。あまりパーティは得意ではないので、本当によろしくお願いします」
坂戸淳也はへらっと微笑んだ。それがずいぶん軽薄に見える。
淳也はネクタイこそパーティ用にアスコットタイでスーツの生地も見るからに高級だとわかるが、総合的な印象は普通だろう。
対して璃桜は、白のサテン地にグレーのレースを被せてシックな調子になっているパーティドレスで、ふわりとしたAラインのスカートがまるで妖精のようだ。おとなしい顔立ちだが清楚な雰囲気の璃桜にはよく似合っていて可憐で麗しい。
それでも淳也は璃桜に社交辞令でも褒め言葉一つ言わないので、彼が璃桜のことをどう思っているのか、これだけで察することができる。
(別に期待してないし)
今の世にふさわしくない言葉かもしれないが、『政略結婚』と称して然るべき縁談で、璃桜は希望の欠片も抱いてはいなかった。それにこの男には交際している女がいるのだ。別れる気配もないので、結婚と恋愛は分けて考えているのだろう。
だが、それすらも璃桜は興味がなかった。松阪和眞とのあの夜が実っただけで満足だったからだ。
「ご両親は?」
「もう会場です。ご挨拶する方が多いので先に行きました」
「そう。じゃあ、僕を待っていてくれたのか」
なぜだか、はい、と答える気がしなくて、璃桜はやんわり微笑んだ。
「じゃあ、僕たちも行こうか」
「はい」
すっと立ち上がり、歩き始めた淳也の半歩後ろを行く。これもけっして昔のように男を立てて横に並ばないのではない。単純に並んで歩きたくないだけだ。だが淳也は前者のように受け取ったのか、笑って肘を出してきた。
(腕を組むの? 嫌だわ)
そう思うが仕方がない。軽く手を添えた。それからエレベーターで二階に上がり、パーティ会場へと向かった。
会場入り口には大きな花がいくつも飾られていて、『ベリーベビー本舗新商品発表祝賀会』との案内板がある。二人はそこに進み、中に入った。
「盛り上がっているな」
「そうですね」
かなりの人がいて、広い会場の壁には会食用のドリンクや食事が並べられている。また円形のカウンターテーブルがいくつも点在し、それを囲って参加者が歓談していた。
「華原さんに挨拶しないと」
「あとでいいですよ」
「それはダメだよ。親になる人だから」
刹那、璃桜は自分の顔が強張るのを感じた。
「そうですね。だけど、だからこそあとでいいです。もっと大切な方にご挨拶なさったほうが有益ですから。でも、せっかくそう言ってもらっているので捜してきます」
「そう? 悪いね」
「いいえ。では」
軽く会釈をして立ち去り、親を捜すフリをしてそっと会場から出た。
たった数分一緒にいただけで疲労を覚える。そんな自分に苦笑する。
淳也と顔を合わせるのは今日で六回目くらいだと思う。縁談が持ち上がったのは八か月くらい前だが、日程が合わず、顔見せが実現したのは半年前だった。そこから月に二回程度会うことになったが、軽くランチをするくらいで終わっている。夕食の約束をしないのは、おそらくその後、璃桜と別れてから交際している女と会っているからなのだろう。
興信所の報告では、淳也の恋人はアパレル会社の販売員で、土日は関係ない。ローテーションなので土日のどちらかを早出にすれば、仕事が終わったあとに会うことができる。
璃桜としては、経済界に影響力を持つ華原家と政治家の坂戸家が結びつくことが大事であって、本人のデキはどうでもよかった。璃桜が嫁げば、父も腹違いの弟である樹生も、安泰だろうから。
(そういえば淳也さん、私が華原家内では肩身が狭い思いをしてるんじゃないか、みたいなことを言っていたわね。愛人が産んだ子は、誰の目にもそう映るのかしら)
ホテルの二階にも休憩できるスペースが設置されている。窓際に背もたれのないスクエア型の革張りチェアがいくつか置かれているので、璃桜はその一つに腰を下ろした。
(確かに家庭団欒和気あいあいって感じではないけど、これくらいのギクシャク感は血のつながった家族でもあるでしょう。樹生さんがちょっとよそよそしいくらいで、一般的な家庭の範囲内だと思うわ)
華原家に不満を抱いたことなどない。だが、周りはそうは見ない。いちいち否定するのも面倒だ。自分自身、心の中で感謝をしていればいいだけのことだから。
ぼんやりと窓の外を眺めていると、そのガラスに人が映った。背の高い男性だ。
(え?)
よく知っている整った精悍な顔が驚いている。
(どうしよう――)
ヒヤリと冷たいものが全身を包み込む。体が緊張で硬直してしまって振り返れない。だがガラス越しにバッチリ目が合っている。
(気づかないフリはさすがにできないから……スルーしかないかな)
何事もないという態度を示そうと、震える手でハンドバッグの中からスマホを取り出そうとしたが、それが間違いだった。男――和眞に声をかけさせるキッカケを与えてしまったのだ。
「こんなところで再会とは。総務の岡田さん」
「………………」
「あの時はあれだけ積極的だったのに、今夜は無視か?」
くっと唇を噛み、なんと対応しようか悩むが、考える時間は実質ない。
仕方がない。
「どちらさま? どなたかとお間違えでは?」
「――――――」
立ち上がろうとすると、和眞はさっと璃桜の横に腰を下ろして右手首を掴んだ。
「つれないな。深い関係になった仲だろ?」
「なんの――」
「華原璃桜、あの翌日、会社を辞めた元我が社の総務課社員」
「………………」
「ウチは退職時、有給休暇を消化することを容認している。本当ならまだ籍があってもいいところだ。それなのに君は消化せずに辞めている。社内で俺と顔を合わせることを避けたんだろ? あの夜のことは退職と引き換えだったのか? だったらえらく光栄な話だ。ここで逃げることはないんじゃないのか?」
掴まれた手をぐっと引き寄せられ、璃桜は顔を背けた。
「社長は特定の女性と交際はなさらないでしょ? 私が追いすがったら迷惑ではないですか。無視されたのだから、それに乗っていただきたいものです」
「確かにそうだが、別にケンカをする気はない」
「そういうのを屁理屈って言うんです。すみません、人を待たせているので、これで」
再び立ち上がろうとしたが、やはり引っ張られて阻まれた。
「放してください。それとも、私と交際したいと告白してくださるんですか?」
璃桜のツッコミに今度は和眞が息をのんだ。
「それを望んでいるのか?」
「いいえ。あなたとは、一夜限りの関係です」
「――――――」
今度は力任せに腕を振って和眞の手を振り払った。そして立ち上がる。無視して去ろうとした時、璃桜の名を呼ぶ声が響いた。
「璃桜さん、こんなところにいたのか」
淳也はそう言いつつも、視線を和眞に向けている。三人の間にピンと張りつめた空気が広がった。
「こちらは?」
淳也の問いににっこり微笑んでみせる。
「それが偶然にも先日まで働いていた会社の社長さんも参加されていたんです。だから少しお話ししていました」
「社長?」
「ええ。IFSSの社長で松阪CEOです。あ、松阪社長、こちらは私の婚約者で坂戸さんです」
璃桜が振り返れば、和眞はすでに立ち上がっていて、驚いたように目を見開いていた。
「婚約者?」
「はい。寿退社だったんです。でも、周囲に騒がれるのが嫌だったもので、言わずに自己都合で退職しました」
「――――――」
黙り込む和眞とは正反対で、淳也はまっすぐ歩み寄り、すっと手を出した。
「坂戸です。彼女がお世話になった会社の社長とは」
「――松阪です。よろしく」
二人は握手を交わし、すぐに手を離した。
「松阪社長のことは存じ上げていますよ。と言っても、テレビや経済紙からの情報ですが。すごいな、僕なんて足元にも及ばない。いつまでも親元で脛齧ってる甘ちゃんで」
「そんな、買い被りですよ。私とてまだまだですから」
「そっか、《《璃桜》》はこんな立派な方の会社にいたんだね。結婚で辞めるって、もったいなかったかな」
「そんなことはありません。私は不器用だから、働きながら家庭を切り盛りすることはできないと思うので。では、社長、失礼します」
璃桜が丁寧に頭を下げると、淳也も会釈した。そして二人で会場に向けて歩き出す。その際、璃桜は淳也の腕に手を回した。ここに来る時よりもしっかり絡ませて。
「いい男だったねぇ」
淳也が囁くように言うのを璃桜は無視した。
「璃桜さん?」
「さっきは呼び捨てにされましたけど、どうして?」
「――それは」
淳也の顔を見上げれば、彼はきまりが悪そうに視線を逸らした。
璃桜のことなどなんとも思っていないくせに、対抗心は湧くようだ。
「ふふ、妬いてくださったのならうれしいので、そういうことにしておいてください」
「………………」
その『妬く』は璃桜に対してではなく、男として有望な青年実業家の才能や評価に対するものだろう。わかっているが、機嫌を取っておくほうが無難だ。
璃桜はおくびにも出さず、微笑みを浮かべ続けた。
(私を想っていないのはわかってる。だけど私もあなたのことはこれっぽっちも想っていないからお相子よ)