自信家CEOは花嫁を略奪する
2 事情
「そんな怖い顔をしていると主催者に失礼だぞ」
耳元で囁くように言ったのはIFSSの財務責任者である池谷京だ。副社長というポジションでもある。和眞と背格好は似ているが、彼はクオーターなので顔の作りに西洋人の趣がある。特に目は綺麗なアンバーをしている。
キリッとした精悍な顔つきの和眞に対し、京は甘やかで優しい感じがする男だった。
「うるさいな」
「なにがあった?」
「……別に」
何事もないように返事をするが、この男を煙に巻けるとは思わない。長いつきあいだし、優秀だと思うからこそずっと一緒にやってきているのだ。
「まぁいいけどな」
ニヒルに笑う京の顔を横目に睨みながら、和眞は手にしているグラスのビールを飲み干した。
京はアメリカ国籍だ。ハーバード時代に出会ったが、年は三歳年上で三十五歳だ。息が合い、ともに勉強し、卒業後二年間行動をともした。和眞が日本に帰国して起業すると告げるとついてきた。そして二人で会社を設立して現在に至る。経営は和眞が、財務は京が担いつつも互いにチェックし合い、IFSSをここまで盛りたてた。なくてはならないパートナーであり、良き友良き理解者であった。だから和眞の感情など一目で見通してしまう。しかしながら、不要なことは言わない。
「誘った女にフラれたか?」
「ぐぅ」
給仕からビールのおかわりをもらって飲もうとした矢先に言われ、吹きそうになったのをからくもこらえる。おかげで喉が無様に鳴ってしまった。
「おい」
「和眞がそんな顔をするのは狙った女を落とせなかった時じゃないのか? けど、こんな場でお前のお眼鏡にかなう女がいるとは思えないけど」
「うるせーよ」
「あーー、出自が立派なお嬢さま率は高いかもな。ま、お前も出自立派なおぼっちゃまの一人だけどさ」
「だから、うるさいって」
ますます不貞腐れる和眞に京はニヒルな笑みを深めた。
そこに大きな拍手が起き、主催者であるベリーベビー本舗の斎藤社長が挨拶を始める。二十分ほどスピーチを行えば、次に開発担当の責任者が乳幼児用のベニーカーやママ向けの便利グッズの新商品説明を行った。
参加者はじっと聞き入っているが、和眞は話に集中することができず、会場内に視線を巡らせていた。それは単に眺めているというものではなく、明らかになにかを探している風だ。いや、自分でも自覚していた。
(婚約者だって? それに寿退社? なんだ、それは)
脳裏には先週の夜のことが蘇っている。取材場所の地下駐車場で待ち伏せし、ファッションホテルに連れ込んで誘ったのは他ならぬ華原璃桜だ。
――あなたとは、一夜限りの関係です。
そしてさっき言われた言葉が響いた。
(クソ)
なにがクソなのか自分でもよくわからない。ただ釈然とせず、また納得できない。
あれだけ熱い夜を過ごしたというのに、冷たい言葉でバッサリとは。
――あなたとは、一夜限りの関係です。
あの言葉が脳内でこだまする。取り付く島もない態度も鮮明に蘇る。
とても同一人物とは思えない。だが、間違いなく情事の女だ。
(なにをムカついてる。いや、わかってる。俺を置き去りして帰ったこと、さっきの言葉、筋が通っていて本心だってことだ。つまりは――)
松阪和眞ともあろう男が特出したなにかをもっているわけでもないごくごく普通の女にすげなく袖にされたことにムカついているのだ。
会場内、視線を巡らせている視線がピタリと止まった。璃桜が淳也、そして中年の男女と四人で会話している。
(あれは)
男の顔に見覚えがある。思い出そうと考えていると、横から京が顔を寄せて小声で言った。
「華原社長だな」
「それだ。HEホールディングスの華原社長。え、ってことは彼女、華原社長の娘?」
「彼女って?」
京が和眞の独り言を拾って問うてくる。その言葉にはっとなった。
「あ、いや」
が、時すでに遅し。
「ふーん。華原さんとなにかあったのか。それで不機嫌なんだな。あ、辞めたことに関係してる?」
「……お前、鋭すぎ。けど、彼女のこと、知っているのか?」
すると京は目を丸くした。
「当たり前だろ、彼女三年も総務にいたんだぞ? お前こそ知らなかったのか」
「知らないよ。社員の顔、全部覚えていないだろ、普通」
「そうか? 千人もいるわけじゃなく、たかだが百人少々じゃないか。しかも総務なんて俺達も出入りするだろう」
ムッとしたように口をへの字に曲げる和眞を見て、京が「はあ」と呆れの吐息をつく。
「彼女、けっこうオッサンたちに人気だったぞ。早瀬専務なんか用もないのに総務に行って油売ってさ。でもさすがに華原社長の娘ってのは知らなかったがな。そっか、退職理由は自己都合だったが、結婚退社なのか」
今度は和眞がぎょっと目を丸く見開いた。
「なんで知ってるんだよ」
「なんでって、一緒にいる男、坂戸昭の次男だろ」
え? とこぼしてもう一度淳也を見る。
「坂戸昭って、あの坂戸昭?」
「どの坂戸昭があんだよ。政治家の坂戸昭だよ」
坂戸昭とは中央区選出の衆議院議員の名だ。
「……お前の記憶力にはほとほと脱帽だな」
すると京はフンと鼻を鳴らした。
「人の名前を覚えるのは得意だが、自社の区を仕切ってる議員はファミリーごと押さえていて当然だろ。そんなことより、華原家のお嬢さまと政治家のボンボンの結婚かぁ。激戦区とはいえ資金集めに余念がないねぇ。でも、気の毒だね。親の意向で結婚とは」
「………………」
それはわざわざ京に言われなくても和眞とてそう思った。いや、さっきの様子からも、想い合ったカップルには見なかった。
(取り繕うような感じだったもんな、二人とも)
二人の間にある微妙な空気を和眞は感じ取っていた。
それにしても――と、思う。四人で会話している様子を見ていると、わけもなく苛立ちが湧いてくる。
「そんなに彼らが気になる?」
「そんなことはない。けど、今の世の中、家のために結婚ってどうよって感じでさ」
「そうかな、そこいらにいくらでもあると思うがねぇ。お前だって御曹司じゃねぇの」
「ウチはそういうのはない」
そう答えてはみるものの、自分にも妹にも、わんさか縁談が舞い込んできているのも事実だ。それを思えば、璃桜も同様で、政治家の息子と婚約することになったのだろう。
(けど、だったら、アレは何だったんだよ)
そう思うが、同時に和眞は自分の中の矛盾にも気づいている。
女と関係を持つことを軽く捉え、交際したいと言い寄ってくれば無下に突き放してきた。特定の恋人は作らないと公言しているのは他ならぬ自分だ。遊びの関係は願ってもないことのはず。璃桜とのことは自分にとってすこぶるありがたい一夜のはずなのだ。怒るのは筋違いだ。こんなにイラつくことはおかしい。自分が作ったルールに自ら反しているのだから。
(クソ)
やはりここに行きつく、いや、舞い戻ってきてしまう。
イライラしながらパーティを過ごし、お開きとなって参加者たちがガヤガヤと帰宅の途に就いてゆく。和眞もこのまま京と帰ろうかと思っていたら、璃桜が少し前を歩いているのが見えた。両親もいないし、淳也の姿もない。
璃桜が廊下を曲がった。
「キョウ」
「ん?」
「悪いが、ここで別れる」
「は? 飲みにいくんじゃないのかよ」
「また今度」
軽く手を挙げ、和眞は早足でその場を離れた。そして璃桜を追って廊下を曲がる。璃桜の姿はなかったが、奥にパウダールームがあるので、そこに入ったようだ。
壁に背を預け待つことしばし。璃桜が出てきた。
「あ」
「やあ」
「………………」
「そこで黙り込まないでほしいんだが」
「なにかご用ですか?」
璃桜の態度はどこまでも冷たい。
それが気に入らない。
だが、たった一度、一夜を過ごしたことをいつまでも言うのは見苦しいし、自分らしくない。本来なら真逆の立場なのだから。
なんと言おうか悩みかけ、目を閉じてかぶりを振って今の気持ちを振り払った。
「ちょっと話がしたい。上で飲まないかと思っている」
「………………」
「正直に言う。自分でも戸惑っているんだ。俺の気持ちを整理するのに協力してほしい。俺は、君に利用されたんだろ?」
最後は一か八かの乱暴な言い草だったが、逆にこの言葉が璃桜の両眼を見開かせることになった。
「……わかりました。ちょっとお待ちください」
璃桜はハンドバッグからスマホを取り出し、電話をかけ始めた。
「璃桜です。お母さま、すみません。IFSSの松阪社長とお会いしまして、ちょっとお話をしてから帰ります。はい、そうです、勤めていた会社の社長さんです。はい、すみません。遅くならないように気をつけ――わかっています。タクシーを拾いますから。はい、では」
スマホを切ると、璃桜がこちらを向いた。
「……お母さまって、すごいな」
「そうですね。でも……」
「ん?」
「いえ、なんでも。それでどこへ行くのですか?」
「上のラウンジに。行こう」
璃桜の背にそっと手を添え、和眞は進むよう促した。
耳元で囁くように言ったのはIFSSの財務責任者である池谷京だ。副社長というポジションでもある。和眞と背格好は似ているが、彼はクオーターなので顔の作りに西洋人の趣がある。特に目は綺麗なアンバーをしている。
キリッとした精悍な顔つきの和眞に対し、京は甘やかで優しい感じがする男だった。
「うるさいな」
「なにがあった?」
「……別に」
何事もないように返事をするが、この男を煙に巻けるとは思わない。長いつきあいだし、優秀だと思うからこそずっと一緒にやってきているのだ。
「まぁいいけどな」
ニヒルに笑う京の顔を横目に睨みながら、和眞は手にしているグラスのビールを飲み干した。
京はアメリカ国籍だ。ハーバード時代に出会ったが、年は三歳年上で三十五歳だ。息が合い、ともに勉強し、卒業後二年間行動をともした。和眞が日本に帰国して起業すると告げるとついてきた。そして二人で会社を設立して現在に至る。経営は和眞が、財務は京が担いつつも互いにチェックし合い、IFSSをここまで盛りたてた。なくてはならないパートナーであり、良き友良き理解者であった。だから和眞の感情など一目で見通してしまう。しかしながら、不要なことは言わない。
「誘った女にフラれたか?」
「ぐぅ」
給仕からビールのおかわりをもらって飲もうとした矢先に言われ、吹きそうになったのをからくもこらえる。おかげで喉が無様に鳴ってしまった。
「おい」
「和眞がそんな顔をするのは狙った女を落とせなかった時じゃないのか? けど、こんな場でお前のお眼鏡にかなう女がいるとは思えないけど」
「うるせーよ」
「あーー、出自が立派なお嬢さま率は高いかもな。ま、お前も出自立派なおぼっちゃまの一人だけどさ」
「だから、うるさいって」
ますます不貞腐れる和眞に京はニヒルな笑みを深めた。
そこに大きな拍手が起き、主催者であるベリーベビー本舗の斎藤社長が挨拶を始める。二十分ほどスピーチを行えば、次に開発担当の責任者が乳幼児用のベニーカーやママ向けの便利グッズの新商品説明を行った。
参加者はじっと聞き入っているが、和眞は話に集中することができず、会場内に視線を巡らせていた。それは単に眺めているというものではなく、明らかになにかを探している風だ。いや、自分でも自覚していた。
(婚約者だって? それに寿退社? なんだ、それは)
脳裏には先週の夜のことが蘇っている。取材場所の地下駐車場で待ち伏せし、ファッションホテルに連れ込んで誘ったのは他ならぬ華原璃桜だ。
――あなたとは、一夜限りの関係です。
そしてさっき言われた言葉が響いた。
(クソ)
なにがクソなのか自分でもよくわからない。ただ釈然とせず、また納得できない。
あれだけ熱い夜を過ごしたというのに、冷たい言葉でバッサリとは。
――あなたとは、一夜限りの関係です。
あの言葉が脳内でこだまする。取り付く島もない態度も鮮明に蘇る。
とても同一人物とは思えない。だが、間違いなく情事の女だ。
(なにをムカついてる。いや、わかってる。俺を置き去りして帰ったこと、さっきの言葉、筋が通っていて本心だってことだ。つまりは――)
松阪和眞ともあろう男が特出したなにかをもっているわけでもないごくごく普通の女にすげなく袖にされたことにムカついているのだ。
会場内、視線を巡らせている視線がピタリと止まった。璃桜が淳也、そして中年の男女と四人で会話している。
(あれは)
男の顔に見覚えがある。思い出そうと考えていると、横から京が顔を寄せて小声で言った。
「華原社長だな」
「それだ。HEホールディングスの華原社長。え、ってことは彼女、華原社長の娘?」
「彼女って?」
京が和眞の独り言を拾って問うてくる。その言葉にはっとなった。
「あ、いや」
が、時すでに遅し。
「ふーん。華原さんとなにかあったのか。それで不機嫌なんだな。あ、辞めたことに関係してる?」
「……お前、鋭すぎ。けど、彼女のこと、知っているのか?」
すると京は目を丸くした。
「当たり前だろ、彼女三年も総務にいたんだぞ? お前こそ知らなかったのか」
「知らないよ。社員の顔、全部覚えていないだろ、普通」
「そうか? 千人もいるわけじゃなく、たかだが百人少々じゃないか。しかも総務なんて俺達も出入りするだろう」
ムッとしたように口をへの字に曲げる和眞を見て、京が「はあ」と呆れの吐息をつく。
「彼女、けっこうオッサンたちに人気だったぞ。早瀬専務なんか用もないのに総務に行って油売ってさ。でもさすがに華原社長の娘ってのは知らなかったがな。そっか、退職理由は自己都合だったが、結婚退社なのか」
今度は和眞がぎょっと目を丸く見開いた。
「なんで知ってるんだよ」
「なんでって、一緒にいる男、坂戸昭の次男だろ」
え? とこぼしてもう一度淳也を見る。
「坂戸昭って、あの坂戸昭?」
「どの坂戸昭があんだよ。政治家の坂戸昭だよ」
坂戸昭とは中央区選出の衆議院議員の名だ。
「……お前の記憶力にはほとほと脱帽だな」
すると京はフンと鼻を鳴らした。
「人の名前を覚えるのは得意だが、自社の区を仕切ってる議員はファミリーごと押さえていて当然だろ。そんなことより、華原家のお嬢さまと政治家のボンボンの結婚かぁ。激戦区とはいえ資金集めに余念がないねぇ。でも、気の毒だね。親の意向で結婚とは」
「………………」
それはわざわざ京に言われなくても和眞とてそう思った。いや、さっきの様子からも、想い合ったカップルには見なかった。
(取り繕うような感じだったもんな、二人とも)
二人の間にある微妙な空気を和眞は感じ取っていた。
それにしても――と、思う。四人で会話している様子を見ていると、わけもなく苛立ちが湧いてくる。
「そんなに彼らが気になる?」
「そんなことはない。けど、今の世の中、家のために結婚ってどうよって感じでさ」
「そうかな、そこいらにいくらでもあると思うがねぇ。お前だって御曹司じゃねぇの」
「ウチはそういうのはない」
そう答えてはみるものの、自分にも妹にも、わんさか縁談が舞い込んできているのも事実だ。それを思えば、璃桜も同様で、政治家の息子と婚約することになったのだろう。
(けど、だったら、アレは何だったんだよ)
そう思うが、同時に和眞は自分の中の矛盾にも気づいている。
女と関係を持つことを軽く捉え、交際したいと言い寄ってくれば無下に突き放してきた。特定の恋人は作らないと公言しているのは他ならぬ自分だ。遊びの関係は願ってもないことのはず。璃桜とのことは自分にとってすこぶるありがたい一夜のはずなのだ。怒るのは筋違いだ。こんなにイラつくことはおかしい。自分が作ったルールに自ら反しているのだから。
(クソ)
やはりここに行きつく、いや、舞い戻ってきてしまう。
イライラしながらパーティを過ごし、お開きとなって参加者たちがガヤガヤと帰宅の途に就いてゆく。和眞もこのまま京と帰ろうかと思っていたら、璃桜が少し前を歩いているのが見えた。両親もいないし、淳也の姿もない。
璃桜が廊下を曲がった。
「キョウ」
「ん?」
「悪いが、ここで別れる」
「は? 飲みにいくんじゃないのかよ」
「また今度」
軽く手を挙げ、和眞は早足でその場を離れた。そして璃桜を追って廊下を曲がる。璃桜の姿はなかったが、奥にパウダールームがあるので、そこに入ったようだ。
壁に背を預け待つことしばし。璃桜が出てきた。
「あ」
「やあ」
「………………」
「そこで黙り込まないでほしいんだが」
「なにかご用ですか?」
璃桜の態度はどこまでも冷たい。
それが気に入らない。
だが、たった一度、一夜を過ごしたことをいつまでも言うのは見苦しいし、自分らしくない。本来なら真逆の立場なのだから。
なんと言おうか悩みかけ、目を閉じてかぶりを振って今の気持ちを振り払った。
「ちょっと話がしたい。上で飲まないかと思っている」
「………………」
「正直に言う。自分でも戸惑っているんだ。俺の気持ちを整理するのに協力してほしい。俺は、君に利用されたんだろ?」
最後は一か八かの乱暴な言い草だったが、逆にこの言葉が璃桜の両眼を見開かせることになった。
「……わかりました。ちょっとお待ちください」
璃桜はハンドバッグからスマホを取り出し、電話をかけ始めた。
「璃桜です。お母さま、すみません。IFSSの松阪社長とお会いしまして、ちょっとお話をしてから帰ります。はい、そうです、勤めていた会社の社長さんです。はい、すみません。遅くならないように気をつけ――わかっています。タクシーを拾いますから。はい、では」
スマホを切ると、璃桜がこちらを向いた。
「……お母さまって、すごいな」
「そうですね。でも……」
「ん?」
「いえ、なんでも。それでどこへ行くのですか?」
「上のラウンジに。行こう」
璃桜の背にそっと手を添え、和眞は進むよう促した。