退屈な映画のあと
私の彼氏 (The Man I Love)
「この映画か。タイトルは知っていたけど、あんま興味なかったな」
「せっかくもらったんだし。それに試しに見たら面白いかもよ」
「ん、だな」
それは、ジャンルとしてはラブサスペンス作品で、ジャズの定番をそのままかりた「The Man I Love」という題名だった。邦題もそのまま『私の彼氏』になっている。
麻子が好きだと言っていた俳優は、みすずにとっては「濃くて男臭い中年ハンサム」程度の認識だった。
みすずは中性的で線の細い若手俳優が好きだったので、いまいちピンと来ないが、史雄は割と好きなタイプの俳優だったようで、「まあ、この人ならいい演技しそうだし」と、次第に前向きになっていった。
「でも、相手役がなあ…」
「私、この人よく知らないんだけど」
「知らない?離婚しちゃったけど、Tのあねさん女房とかで話題になってた」
「あー、そういえば」
Tというのは、日本でも海外でも大人気のハリウッドスターで、映画をあまり見ない人間にもおなじみの名前だった。
みすずも、Tがかなり年上の女優Mと結婚したことだけは知っていたが、特に深掘りしてなかった。
チケットに印刷されたMの顔は、知的で落ち着いた雰囲気の大人の女性で、みすずはむしろ好印象だったのだが、史雄にとってはあまり魅力がなかったのだろう。
「だって結婚してちょっと有名になっただけの三流女優だよ?美人だけど、言っちゃえばおばさんだし、乳ないし、なんかまずそう」
史雄はしばしば、女優の容姿についてあけすけにこんなことを言う。
その一方で、美人枠ではないが歌がうまい、演技が最高という女優に対しては素直に称賛するので、単に率直に自分の感想を言っているだけと思い、みすずは少々不愉快に思っても、何も言わずに聞いていた。
「まずそう」という言い方も、性的な意味でふざけて使うことは今までもあったが、それは「密室」での話だったので、特に気にもならなかった。
しかし太陽の下で、誰が聞いているか分からない雑踏で聞きたい言葉ではない。
しかも、麻子の思いも詰まったチケットで見にいこうとしてる映画についての話題だ。
「みすずちゃんの顔ってなんか平板なんだよね。化粧変えたら?」
そんなふうに、少し前に史雄が言った言葉まで、なぜか思い出された。
(自分だって白はんぺんみたいに情けない顔してるくせに、何言ってんだよこの《《おっさん》》は)
気付けばみすずは、「今日、隣に座って映画見るの嫌だな」と口走っていた。
もしもチケットが自分で買ったものだったり、これからプレイガイドで調達したり、窓口で買ったりという状況だったら、「私、帰る!」の一言で済んだが、麻子のためにも映画だけは見たかった。
「え、急に何言ってるの?」
「なんか嫌なの。史雄君の隣で見たくない。そんだけ」
「ちょっと…急に不機嫌になって何?俺何か気に障ること言った?」
「わかんないよね。ならいいよ」
その言葉どおり、窓口でペアチケットを出して入館した後、みすずはさっさと自分の座りたい場所に席を取った。
史雄は「何飲みたい?買ってくるから」と、機嫌を取るように声をかけてきた。
そうされるたびに席を替えていたら、3度目ぐらいで諦めたようで、別の席に移った。
史雄は呆れて帰ってしまったかもしれないが、みすずにはどうでもよかった。
肝心の映画は――はっきり言えば、あまり面白くはなかった。
史雄がこき下ろしていたMは裕福な未亡人役で、たまたま犯罪現場を見たことで、命を狙われてしまう。
そんな彼女を守るのが、麻子が好きだった俳優扮する刑事だった。
刑事には妻がいたが、未亡人に惹かれてしまい、一度だけベッドをともにする。
刑事の妻はそれをひどくののしり、結局2人は離婚した。
妻に去られ、未亡人も何も言わずに外国に移住し、1人になった刑事。
終盤で刑事は元妻に偶然出会うが、羽振りのよさそうなハンサムな男性を同伴していて、「久しぶりね、こちら私の今の彼氏よ」と勝ち誇ったように挨拶してくる。
そしてFin.
少なくともみすずには、「何がしたかったの?この映画」としか思えなかった。
Mは上品で美しかったし、少しだけエロチックなベッドシーンにもどきどきした。
よかったところといえぱ、そんなものだろうか。
後に、辛口で知られる映画評論家が、「古いハリウッドメロドラマのような香気を含んだ傑作」とか何とか言っていたのを見て、(私なんかにはワカンナイけど、ちょっとはいい映画なのかもな)とみすずは思った。
◇◇◇
ただし、映画がイマイチだったおかげで、みすずは少しだけ冷静になれた。
サスペンスといっても、複雑な謎解きがあるわけではない。
頭が暇になってせいか、史雄とのちょっと微笑ましいやりとりをぼんやりと思い出しさえした。
(まあ史雄君からしたら、私が突然怒り出して、わけわかめだったよね)
できるなら、無駄にエキセントリックな態度を取ってしまったことを謝りたい。
そう思いながら劇場を出ると、「みすずちゃん!」と声をかけられた。声の主はもちろん史雄だった。
「あ…の…ごめんね」
「いやあの、俺もよく家族に無神経だって怒られるし、きっと何か言っちゃったんだよね?ごめん」
「ううん、ごめん」
「いやその、俺こそ…」
生産性のない会話をしているうちに、どちらからともなく笑い出して、「とりあえず何か食おうか?」という流れになった。
2人はその後、“いつものように”ラブホテルに行くことはなく、明るいうちに別れた。
この日の史雄の褒められていい点は、「Mって女優は脚が長いなあ。Tってどっちかというと白人にしちゃ小男だし、バックでヤるとき苦労したんじゃないだろうか」という、本当にどうでもいい妄想を口に出さなかったことだった。
「せっかくもらったんだし。それに試しに見たら面白いかもよ」
「ん、だな」
それは、ジャンルとしてはラブサスペンス作品で、ジャズの定番をそのままかりた「The Man I Love」という題名だった。邦題もそのまま『私の彼氏』になっている。
麻子が好きだと言っていた俳優は、みすずにとっては「濃くて男臭い中年ハンサム」程度の認識だった。
みすずは中性的で線の細い若手俳優が好きだったので、いまいちピンと来ないが、史雄は割と好きなタイプの俳優だったようで、「まあ、この人ならいい演技しそうだし」と、次第に前向きになっていった。
「でも、相手役がなあ…」
「私、この人よく知らないんだけど」
「知らない?離婚しちゃったけど、Tのあねさん女房とかで話題になってた」
「あー、そういえば」
Tというのは、日本でも海外でも大人気のハリウッドスターで、映画をあまり見ない人間にもおなじみの名前だった。
みすずも、Tがかなり年上の女優Mと結婚したことだけは知っていたが、特に深掘りしてなかった。
チケットに印刷されたMの顔は、知的で落ち着いた雰囲気の大人の女性で、みすずはむしろ好印象だったのだが、史雄にとってはあまり魅力がなかったのだろう。
「だって結婚してちょっと有名になっただけの三流女優だよ?美人だけど、言っちゃえばおばさんだし、乳ないし、なんかまずそう」
史雄はしばしば、女優の容姿についてあけすけにこんなことを言う。
その一方で、美人枠ではないが歌がうまい、演技が最高という女優に対しては素直に称賛するので、単に率直に自分の感想を言っているだけと思い、みすずは少々不愉快に思っても、何も言わずに聞いていた。
「まずそう」という言い方も、性的な意味でふざけて使うことは今までもあったが、それは「密室」での話だったので、特に気にもならなかった。
しかし太陽の下で、誰が聞いているか分からない雑踏で聞きたい言葉ではない。
しかも、麻子の思いも詰まったチケットで見にいこうとしてる映画についての話題だ。
「みすずちゃんの顔ってなんか平板なんだよね。化粧変えたら?」
そんなふうに、少し前に史雄が言った言葉まで、なぜか思い出された。
(自分だって白はんぺんみたいに情けない顔してるくせに、何言ってんだよこの《《おっさん》》は)
気付けばみすずは、「今日、隣に座って映画見るの嫌だな」と口走っていた。
もしもチケットが自分で買ったものだったり、これからプレイガイドで調達したり、窓口で買ったりという状況だったら、「私、帰る!」の一言で済んだが、麻子のためにも映画だけは見たかった。
「え、急に何言ってるの?」
「なんか嫌なの。史雄君の隣で見たくない。そんだけ」
「ちょっと…急に不機嫌になって何?俺何か気に障ること言った?」
「わかんないよね。ならいいよ」
その言葉どおり、窓口でペアチケットを出して入館した後、みすずはさっさと自分の座りたい場所に席を取った。
史雄は「何飲みたい?買ってくるから」と、機嫌を取るように声をかけてきた。
そうされるたびに席を替えていたら、3度目ぐらいで諦めたようで、別の席に移った。
史雄は呆れて帰ってしまったかもしれないが、みすずにはどうでもよかった。
肝心の映画は――はっきり言えば、あまり面白くはなかった。
史雄がこき下ろしていたMは裕福な未亡人役で、たまたま犯罪現場を見たことで、命を狙われてしまう。
そんな彼女を守るのが、麻子が好きだった俳優扮する刑事だった。
刑事には妻がいたが、未亡人に惹かれてしまい、一度だけベッドをともにする。
刑事の妻はそれをひどくののしり、結局2人は離婚した。
妻に去られ、未亡人も何も言わずに外国に移住し、1人になった刑事。
終盤で刑事は元妻に偶然出会うが、羽振りのよさそうなハンサムな男性を同伴していて、「久しぶりね、こちら私の今の彼氏よ」と勝ち誇ったように挨拶してくる。
そしてFin.
少なくともみすずには、「何がしたかったの?この映画」としか思えなかった。
Mは上品で美しかったし、少しだけエロチックなベッドシーンにもどきどきした。
よかったところといえぱ、そんなものだろうか。
後に、辛口で知られる映画評論家が、「古いハリウッドメロドラマのような香気を含んだ傑作」とか何とか言っていたのを見て、(私なんかにはワカンナイけど、ちょっとはいい映画なのかもな)とみすずは思った。
◇◇◇
ただし、映画がイマイチだったおかげで、みすずは少しだけ冷静になれた。
サスペンスといっても、複雑な謎解きがあるわけではない。
頭が暇になってせいか、史雄とのちょっと微笑ましいやりとりをぼんやりと思い出しさえした。
(まあ史雄君からしたら、私が突然怒り出して、わけわかめだったよね)
できるなら、無駄にエキセントリックな態度を取ってしまったことを謝りたい。
そう思いながら劇場を出ると、「みすずちゃん!」と声をかけられた。声の主はもちろん史雄だった。
「あ…の…ごめんね」
「いやあの、俺もよく家族に無神経だって怒られるし、きっと何か言っちゃったんだよね?ごめん」
「ううん、ごめん」
「いやその、俺こそ…」
生産性のない会話をしているうちに、どちらからともなく笑い出して、「とりあえず何か食おうか?」という流れになった。
2人はその後、“いつものように”ラブホテルに行くことはなく、明るいうちに別れた。
この日の史雄の褒められていい点は、「Mって女優は脚が長いなあ。Tってどっちかというと白人にしちゃ小男だし、バックでヤるとき苦労したんじゃないだろうか」という、本当にどうでもいい妄想を口に出さなかったことだった。