狂気のサクラ
悠樹だ。
思わず手で口を塞ぎ何度も唾を飲んだ。息が浅くなる。
彼は私に気付き、少しだけ、ほんの少しだけ顎を下げすぐに視線を逸らした。
どうやって呼吸をしていたか忘れてしまいそうなほど息が荒くなる。
さゆりたちに気付かれないよう鼻で息を吸い込んだ。
近藤が店員からプレートを渡され何か案内されていたがよく聞こえない。その後3人の後ろに着いて歩いた。
彼はフロントで誰かと話している様子だったけれど、そちらを向けるはずもない。
手足が冷たくなり、震えている。
部屋に入るとさゆりが1番に歌いはじめた。意外だが北川も続いて歌った。
今まであまり気にしていなかったけれど、世の中の歌は恋の歌が多い。そして失恋の歌が圧倒的に多い。歌詞などあまり気にしていなかったけれど、どれもこれも胸が痛くなり耳を塞ぎたくなる。失恋の歌を聴き共感して元気になるとよく聞くけれど、悲しい歌を聴いて元気になどなれるはずがない。余計に辛いだけだ。
私は彼を、少しも忘れてなどいない。
辛い思いが少しずつ和らいだと思っていたけれど、忘れてなどいない。忘れられるはずがないと思い知らされた。
思いはもう届かない。抱きしめられることは叶わないと諦めがついただけだ。頑張って忘れるなんてできない。むしろ無理をしてまで忘れる必要があるのだろうか。
彼の姿を見て、彼の視界に入ることができて、それだけでも心が軽くなった。好きでいるだけなら、誰に迷惑をかけることもないはずだ。そう考えはじめると、急に頭がスッキリした。
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