ごきげんよう

いつもの朝


 私の夫は朝は必ず食前にコーヒー、そして食後に日本茶を1杯飲む。
 いわゆるモーニングルーティンだが、もちろんそのどちらも私が淹れる。

「食前のコーヒーは血糖値を抑える」
「食後の緑茶は(略)」

 この情報をバラバラにネットで入手したらしい。
 見た目にこだわる彼は、血糖値が高い=醜いデブという思い込みがあるようで、この手の情報のチェックに余念がない。

 体に気を遣うのは結構だが、彼はまだ若いし、健康診断の結果にも問題はない。
 私の不手際でこのルーティンが少しでも崩れると、ひどくイラついて機嫌が悪くなるので、そういう精神状態の方が、よほど健康に悪いのではないだろうかと思う。

 ちなみに、そのようにしてくれと頼まれたのは、今から2カ月ほど前だったろうか。また何か読みかじったかと思いつつ、
「当たり前の食生活をして、よく眠って、適度に運動して、じゃ駄目なの?」
 と軽い気持ちで言ったら、びっくりするほど言い返された。

医者でもない君に何が分かる?▼自分が怠けたいからそんなことを言うのか?▼夫のためにコーヒーや茶を淹れるぐらいがそんなに手間か?▼そもそも健康診断の結果がいいのは、このルーティンのおかげなのに、理論的に破綻している

 くらいは人様に聞かせても問題のない「言い分」だが、この後はただの罵詈雑言だった。
 このときは口だけで済んだが、本当に機嫌が悪いと手も出るので、平身低頭(ひたすら)謝った。
 ちなみに、今年の健康診断はこれからなので、ルーティンとの因果関係まではまだ分からない。

***

 最初はドリッパーや急須を使っていたが、大した味の違いが分かってはいないようなので、「心を込めて」インスタントコーヒーやティーバッグ緑茶をお出しする程度の知恵はついた。

 また、「南部鉄瓶が安いから買おうと思うんだ。これでお湯を沸かすと、味が柔らかくなるんだよ?」と言われて示したショッピングサイトを見たら、あからさまな外国製の偽物だった。が、それを言ったところで「専門家でもないのに」と言われそうだ。
 専門家のブログやツイッターで知ったんだけどな…と思いつつ、こう言ったら諦めてくれた。

「とてもすてきだけど、私はきっとお手入れも満足にできなくて錆びさせてしまうわ」

 できるだけ「至らない妻」を演じると、彼は勝ち誇ったように言った。

「そうだね。君には敷居が高すぎるかな?君の力量も考えずに悪かったよ」

 “敷居が高い”って、そういう使い方しちゃうんだ…と違和感を覚えつつ、もちろん余計なことは言わない。

 夫が求める理想の妻は、「美しく、口ごたえせず、料理も掃除もうまくこなすが完璧ではない。そしてどんなに美しくても「若い子には負けるわ」と言う程度の謙虚さがある」女だ。とにかく自分を気持ちよくしてくれる人がお好みらしい。あまりにもデキ過ぎる妻だと、マウントを取ることができないという発想なのだと思う。

***

 ある朝夫は、私が心を込めて淹れたインスタントコーヒーを片手に、「ナツキと僕の親子鑑定しようと思うんだけど」と、スマホを眺めながら言った。

「はい…?」
「親子鑑定。本当の親子かどうかを検査するやつだよ。知らない?」
「あ、はい、それは…聞いたことがあります」
 私が「知っている」と断言したり、詳しそうな様子を見せるとヘソを曲げるので、これが最適解だと何となく分かってきた。
「これ。随分安くできるみたいなんだよね」

 またか。
 スマホ画面に表示されているのは、とある巨大通販サイトのページ。
「高精度保証!親子鑑定キット(父子1組)」
 15,000円程度でできるらしい。しかるべきところに依頼すると何十万もかかるらしいから、確かにかなり安い。
 ただ、「高精度」とはいうけれど、信用できるものなのだろうか。

 結構低評価もされているが、商品そのものではなく「デリカシーのない送り方をされた」的なものだったので、これは信用できると診断したという。
(冷静に判断できるオレかっけー、ですね)

「なぜナツキに?」
 ナツキは私たちの次女で、今年7歳になる。
 長女はハルカという名前で10歳。2人とも最寄り駅から電車で4駅の同じ私学に通っている。仲のいい姉妹で、自慢の娘たちだ。


「言うまでもないさ。ナツキはあの男にそっくりじゃないか」
「え?」
「君がいまだに写真を捨てずにいる、元カレだよ」
「あ…」

 全部つながった。
 私たちは大学の同期で、卒業の3年後、今から12年前に結婚した。
 夫がいう「元カレ」は、私が高校生の頃付き合っていた人で、20年会っていない。
 たまたま整理していなかったアルバムに残っていた写真を娘たちが見つけ、「この人、だあれ?」と聞いてきた――夫の前で。
 娘たちは悪くない。処分が不十分だった私が悪い。
 そのくらいどうでもいい、本当にたまたま残っていただけの写真なのだが、夫はそれでは納得しない。

 その夜、私は夫に詰問されたながら、レイプ同然に抱かれた。

 それが3日ほど前のことだったか。

***

 私はそれを思い出して、どんな表情(かお)をしていたか、自分では分からない。
 夫はさらに冷静そうな口調でこう続けた。
 
「でもあんな写真は、きっかけにすぎないんだよね」
「…どういう意味ですか?」
「君は知らないかもしれないけれど、日本人の女の6%から10%は平然とした顔で托卵児を旦那に育てさせているという現実もあるんだよ。ちゃんとエビデンスもあるんだ」
「エビデンス、ですか」
「このネット記事にこう書いてある」
「はあ…」

 後々手の空いたとき、きちんと読んでみると、「記事を書いたライターが知人の医師何人かに聞くと、意外なほど多いという話」らしく、6~10%という数字も唐突で、サンプル数がどれくらいで、いつごろの調査であるかといったことが明記されているわけでもない。こういうものを「エビデンス」といっていいのだろうか。無知な私には見当がつかない。

「まったく、日本人の女は駄目だな。ほら、イギリスは25人に1人って書いてあるぞ」
「へえ…」
「しかも日本人の女の場合、全く罪悪感を抱いていないっていうんだからおぞましいよね。まあ罪悪感があるなら、托卵なんかするわけもないんだが」
「ごもっともね」

 多分今日の心情としては、とにかく「日本人の女」を侮辱したくて仕方ないのだろう。
 その中には当然、私も含まれる。

 女性が男性、特に配偶者から攻撃を受けて悩んでいるとき、助けになる機関への連絡先や受け入れ施設を大々的にアナウンスすることは、攻撃している配偶者にも情報を明かすことになるので好ましくない――みたいな話を、結構前に読んだことがあった。

 女性しか入れない、例えば商業施設の女子トイレなどに、フリーダイヤルの番号と警告文が書かれたステッカーが貼ってあることがある。
 こういうものが、悪意ある誰かにボールペンでいたずら書きをされたり、番号を塗りつぶされていたりすることがあり、軽くため息が出る。
 「暴力を振るわれるのはあなたのせいではありません」の「ではありません」を「せいです」に書き換えたりしているものもよく見かける。

 百歩譲って「殴りたくなるようなことをする女」であったとしても、暴力を正当化する神経が分からない。
 しかも、実際は言いがかりレベルの理由で暴言と暴力で傷付けられている女性は少なくないはずだ。

 例えば「日本の女(彼の表現をなぞりました)の10%弱は托卵クソ女である」みたいなこういう記事は、何の落ち度もない妻の、痛くもない腹を探り、理不尽になじる材料として、大いに使われるだろう。

 もちろんDVの被害者は女性だけでない。
 しかも男性はサポート体制が女性よりもお粗末なので、苦労することは想像に(かた)くない。
 それでも「申しわけないけれど、男性のことは男性が考えてください」と言わざるを得ないくらい、パートナーの仕打ちに耐えている女性たちは余裕がないのだ。
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