優しい嘘
赤いマフラー

冬の寒さが肌を刺す朝、私は駅のホームで赤いマフラーをぎゅっと巻き直した。今日は母の検査の日だ。

 余命宣告を受けてから母は、苦しい治療を余儀なくされていた。1ヶ月治療をして、検査をする。その繰り返しだった。「これだけ苦しい治療をしたのだから、きっと良くなっているに違いない」という期待と、「こんなに苦しい治療を受けたのに、良くなっていなかったらどうしよう…」という不安。その狭間で揺れ動く心。それでも、周りが心配そうにしていたら、本人は余計に悲しむだろうと、私は平然とした演技を続けていた。

「おはよう」

相変わらず準備のいい母は、私が実家に到着する前には、すでに肩からショルダーバッグを下げ、帽子を被り、万全な態勢で待っていた。
痩せた頬、薄くなった髪。それでも、その目には「よくなるんだ」という前向きな意志が感じられた。

 病気が発覚してから、母は「頑張るよ」と繰り返し、それがいつの間にか母の口癖になっていた。

 母をタクシーに乗せ、私は隣に座る。病院までの道のりは、約20分。バスで行くこともできるが、少しでも母の体力を温存させたくて、家の前までタクシーを呼ぶのが恒例となっていた。これまで何度も通った病院は、もう見慣れたはずなのに、足が重い。

病院に到着し、母が検査着に着替え、検査室に入るのを見届けると、私は母に内緒で、主治医の元へ急いだ。

検査が進む。機械の音が響くたびに、私の心は締め付けられた。医者は、今まさに撮影されている画像を見つめ、「よく…ないですね」と一言だけ言った。

「本人には…言わないでもらえませんか。先生からは、少しでも希望の光が見えるような言葉をかけて欲しいんです」と伝えたが、医者は「嘘は言えません」と冷たく返した。 
私は食い下がるように、
「じゃあ、せめて『頑張ってますね』って、労ってあげてください。それは嘘じゃないでしょう?どうか、よくないなんて…本人には言わないでください…」
と懇願した。医者は黙ったままだった。

私は検査が終わった母の手を握りしめ、「こんなに頑張ってるんだから、絶対に良くなるよ!」と言って母を抱きしめた。

帰りの電車の中で、突然、涙がこみ上げてきた。周りに人がいるにもかかわらず、抑えきれずに溢れる涙を、赤いマフラーで隠した。母の前では泣けない。せめて母が居ない場所でだけ、涙を許されるような気がした。


 母は、庭に咲くこぶしの花を毎年楽しみにしていた。白く大きな花びらが春の訪れを告げるその光景は、彼女にとって特別なものだった。しかし、病気が発覚した年、こぶしの花の樹が突然枯れ始め、やがて完全に腐ってしまった。母はその様子を見て、何かを予感したかのように、ふと呟いた。

「あのこぶしの樹みたいに…嫌な予感がする…」

彼女の言葉には、消えゆく命への悲しみと、未来への不安が滲んでいた。私は、その言葉に対して何も言えず、ただ静かに彼女の手を握り返すことしかできなかった。


 ある日、私は薬を飲むのが苦しいと言った母に、「頑張って飲もう」と言った。その瞬間、母は泣き崩れた。「頑張ってるのに、もうこれ以上頑張れない!だから、もう頑張れなんて言わないで」と、初めて母が弱音を吐いた。

 その日の帰り道、私は公園のベンチに座ると、これまでの思いが一気に溢れ出て、マフラーが濡れるほど、声を上げて泣いた。すると、誰もいないはずの夜の公園に、80代くらいの高齢の女性が私の隣のベンチに腰掛け、優しく声をかけてきた。

「人生、いろんなことがあるわね」

驚いたと同時に、なぜか私は心に響くものがあった。初めて会ったはずのその女性には、どこか懐かしさを感じた。

「家庭を暗い雰囲気にするな」と夫から言われていた私は、誰にも弱音を吐けないでいた。だから、その女性との出会いは、私にとって心の救いとなっていった。

それから、私はその女性に会いたくなると、夜の公園へと行くようになった。母の病状が悪化していく中、私はその女性との会話に救われた。彼女は私の心の痛みを知っているかのように、穏やかな笑顔で寄り添ってくれた。

「お辛いのね。けれど、そんなに自分を責めないで。お母さんはきっと、あなたのことをとても誇りに思っているわ」

まるで私の心を読んでいるかのようだった。

どこかで会ったことのあるような気がするが、思い出せない。それでも、その穏やかな表情に、不思議と心が落ち着いた。

 ある日、私は息子の保護者会に出席していた。携帯電話が鳴ると、母からだった。ここのところ、毎日のように…いや、1日に何回も母から電話がかかってくる。
仕事と家庭、息子のこと、そして母のことですっかり気が休まらない日々を送っていた私は、心の余裕を失っていた。そのため、母に冷たい態度を取ってしまった。

電話口で母が言う。
「今ね、1人で公園に来てるの。桜が綺麗よ」

何かあったのではないかと慌てて電話に出たせいか、一瞬、イラッとしてしまった。頭では寄り添ってあげなきゃと思いつつ、心の中で「勘弁してよ」と思ってしまう自分がいた。
「今、保護者会に来てるの。後でかけ直すから」
もっと別の言い方ができたのに…。
やるせない怒りと、少しは状況考えてよ。という思いが交差した。


それから何回目かの検査の時、「あまり調子が良くないのであれば入院しましょう」と医者に言われ、そのまま母は入院となった。

それから母の意識は朦朧となっていった。

「頑張るよ」が口癖だった母が、病院のベッドでの上、朦朧とした意識の中で

「もういいよ」

と言い残し、意識を失った。それが母の最期の言葉だった。私は、母にもっと優しくできたのではないか、もっと一緒にいたかったのではないかという後悔に苛まれた。

その後も私は、あの公園でひとしきり泣いてから、気合を入れて自宅に帰るのだった。

 そんなある日、久しぶりにあの女性が公園に現れた。私は彼女を見つけると、いきなり質問をぶつけた。

「この間、母が私のことを誇りに思っているって言いましたよね?なんでそんなことが言えるんですか?」

彼女は私をじっと見つめ、少し微笑み、そして静かに言った。

「そろそろ、お話ししてもいいかしらね。」

「話…?」

「それはね、私があなただからよ。40年後のあなた」

その言葉に、私は言葉を失った。信じられない気持ちと、何かが腑に落ちるような感覚が同時に押し寄せてきた。

「未来の…私?」と、私は戸惑いを隠せないまま呟いた。

女性は優しく微笑んで頷いた。 
「そう、私たちは同じなの。だから、あなたのことも、お母さんのことも、誰よりもよく知っているの」

私は沈黙の中で、自分の心が解けていくのを感じた。未来の自分がここにいて、私を慰めてくれるなんて、想像もしていなかった。

「今はとても辛い時期だと思う。でも、未来にはまだたくさんの幸せが待っているわ。お母さんが亡くなってしまうのは、どうしようもないこと。でも、彼女は決してあなたを責めたり、後悔したりなんてしていない。あなたは、母親にとって何よりも大切な存在だったの」

私は涙をこぼしながら、未来の自分の言葉に耳を傾けた。彼女の言葉は、まるで自分自身が過去の自分に寄り添い、許しを与えているようだった。

3日後、母は亡くなった。

告別式が終わり少し落ち着いたころ、再び私はあの夜の公園へと向かった。あの女性にもう一度会えるのではないかと思って。いつものように、赤いマフラーを巻いて、ベンチへと腰を下ろした。すると、どこからともなく、あの女性が現れた。

「お母さん、亡くなったのね」

「はい。母が亡くなってから、私、ずっと後悔していました。もっと、何かできたんじゃないかって」

未来の私は首を振った。「それは自然な感情よ。でも、あなたは十分に頑張った。もっと優しくすることは、できなかったわけじゃない。ただ、あの時のあなたには、あれが精一杯だったの。だから、そんなに自分を責めないで。お母さんもそれを理解しているわ」

私はその言葉を心に刻みながら、少しずつ自分を許す気持ちが芽生えていくのを感じた。未来の自分が、こうして私に語りかけてくれることが、どれだけの救いになるか、言葉にできないほどだった。

「今は悲しみの中にいるけれど、いつかこの経験が、あなたをより強く、そして優しくしてくれるわ。そして、その時にはまた、母のことを笑顔で思い出せるようになる」

その言葉に、私は深く頷いた。未来の自分がそう言ってくれるのなら、きっと大丈夫だと思えた。

その時、未来の私はさらに静かに口を開いた。

「私ね、思うのよ。母は、全て知ってたんじゃないかって。」

「え…」

私は驚いて未来の自分を見つめた。

「お医者さんに、よくないって言われても、本人に言わないでって…希望を持たせてって…食い下がっていたでしょう?母に検査結果は『大丈夫だった』って言いながら、どこかで、嘘をついていることに罪悪感があった。自分がそれを背負うことで、母のためになると思ってたけど、本当は、自分がこれ以上、母の傷つく姿を見たくないからだったんじゃないかって。」

まさにその通りだった。言葉にできない今の私の思いを、未来の私が代弁してくれたような気がした。

「でも、母が知っていたって…なんでそんなこと…」

未来の私は、フッと笑みを浮かべるとこう言った。「だって、あんなに準備万端な母よ?告別式だって、自分である程度、段取りしてあったじゃない。そんな母が、私の…私達の戸惑いに気が付かないはずがない。」

「あ…」

「それにね。最後の言葉を思い出して。私がついた…あなたがついた嘘が、優しさだってわかってたから、あの言葉が最後の言葉だったんじゃない?」

それを聞いて、私は気づいた。私の演技なんかより、ずっと優しい嘘を母はついていてくれたのだと。

未来の私は続けた。

「母はね、未来の私に、過去の私を助けて欲しいと頼んだの。それは、自分自身からの言葉でしか、私を救えないってわかっていたからだと思うわ。母はすべてを見通していたのね。」

その言葉に、私は深く頷いた。母が私のために未来の自分に託した理由が、ようやく心に落ちた。母は、そうすれば私が自らの力で立ち直ることができると信じていたのだと。

「でも、あなたは…どうやって未来からここに?」

彼女は少し考えるように空を見上げた後、柔らかく微笑んだ。

「私も昔、未来の私に助けてもらったのよ」

「未来の私?」私は驚きと共に再度彼女を見つめた。彼女は頷き、続けた。

「私もね、今のあなたと同じように辛かった。母が亡くなって、心が折れそうだった。でも、その時に未来の私が現れて、優しい言葉で包み込んでくれたの。それで、私は救われたのよ」

その言葉を聞いて、私は何かが腑に落ちたような気がした。時間を超えて、未来の自分が過去の自分を救うなんて、信じがたいことだったけれど、今ここにいる自分がその証拠だった。

「でも、ずっとそのことを忘れていたの。不思議なんだけど、未来の自分に会ったことなんて、まるで夢のように消えてしまっていたの」

「忘れていた?」

私は少し混乱したように訊ねた。

彼女は小さく頷いた。「そう。まるで誰かがその記憶を私からそっと取り去ったように。きっと、前を向いて生きていくためには、いつまでも周りに救いを求めていては、本当の意味で立ち直ることはできないっていうことなのかもしれないわね。
今になって思うのよ、もしかしたらそれも母がしてくれたことだったのかもしれないって」

「母が?」

私はその言葉にさらに驚いた。

「ええ。」

未来の私は続けた。

「母がね、ある日私の夢に出てきてね。『あの子を助けてあげて』って、言ったのよ。その言葉が目を覚ました後も、ずっと心に残っていた。だから、こうして今、あなたに会いに来たの」

その言葉を聞いて、私は胸が熱くなった。母は亡くなってもなお、私を気にかけてくれていたのだと思うと、涙が止まらなかった。

「88歳。母よりも長く生きたわ。私だって後何年生きられるかわからない。でも、確かに幸せな時間を過ごせてこれた。未来の私もきっと同じことを思ったんだと思うの。だから、私が今ここにいるのも、そういう運命だったのかもしれない」

「運命…」私はその言葉を反芻しながら、心の中に何かが温かく広がっていくのを感じた。

すると、未来の私が、カバンの中からそっとあるものを見せてくれた。

色が褪せて角に綻びがあるけれど、それは…紛れもなく、母からもらった赤いマフラーだった。

その瞬間、私は目を見開き、未来の自分が、40年以上経ってもなお、母の愛を感じながら生きていることを実感した。マフラーは単なる防寒具ではなく、母からの贈り物として、私たちを繋ぐ象徴だった。


未来の私は、赤いマフラーを指で軽く撫でながらこう言った。「母の温もりを感じるたびに、私はどんなに辛い時でも、母がそばにいてくれるような気がしてね。それが私の心の支えになっていたのよ。」

その言葉に、私は深く頷いた。母の愛は時を超え、未来の私をも包んでいたのだ。この赤いマフラーは、母が私に託した強さと優しさの象徴だった。

そして未来の私は、私が疑問に思ったことに答えてくれた。

「母があなたを守り、そして未来の私が私を守ったように、私は今、あなたを守るためにここにいるのよ」

「どうやってここに来たのかは、私にも正直わからない。あなたに必要な時に、気がつくとここにいるんだもの。もしかしたら、母が私を呼び寄せているのかもしれないわね」

私はその言葉に深く頷き、未来の自分に感謝の気持ちを伝えた。「ありがとう…本当にありがとう」

彼女は微笑みながら私の手を握りしめた。「これからも、自分を信じて進んでいって。母の愛は、いつまでもあなたの心の中にあるわ。そして私の中にも」

その言葉に、私は初めて心の中に温かな光を感じた。

あれから、私は母のことを思い出すたびに、あの女性の言葉を胸に刻みつけた。母がいなくても、私は前に進んでいける。未来の自分がそう言ってくれたのだから。

辛い時にずっと私を温めてくれた、赤いマフラーを今日も巻いて、母の「頑張るよ」を思い出しながら、私は再び一歩を踏み出す。

私が歩き始めた道は、母が優しく後押ししてくれた道。未来の私が教えてくれたように、母はすべてを見通していて、私のためにその道を開いてくれていた。

未来の私が、そして母が、いつも私を見守っていてくれる。そんな確信が私の心を支えている。

私もいつか、未来の私との大切な出会いを忘れてしまうのかもしれない。それでも、これからの人生、前を向いて進んでいけば、未来の私がしてくれたように、今度は私が、過去の私を救うことができると、思いを馳せた。

赤いマフラーを風に揺らしながら、私は空を見上げた。そこには、こぶしの花が咲き誇っているような、優しい光が広がっていた。母が教えてくれた強さと、未来の自分が教えてくれた優しさを胸に、私は新たな一歩を踏み出しすのだった。
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