未定
半同棲状態だったので、自宅には草尾の衣類や洗面道具などの私物がたくさん置いてある。

彼の痕跡を感じればますますつらくなりそうで、心が帰宅を拒否していた。

「家には帰りたくないんです。ええと、その、彼の私物があるので……」

「まいったな」

発車せずに待ってくれていたタクシーの運転手が、しびれを切らしたように声をかけてくる。

「お客さん、どうします? 降ります?」

「すみませんが、三分だけ待ってください」

広瀬が運転手にチップを渡し、明日香の顔を覗き込む。

「俺の家に来るか?」

「泊めていただけるんですか?」

「ああ。ひとり暮らしだから遠慮はいらないが、覚悟はしてほしい。今の俺は上司ではなく、ひとりの男だ」

形のいい唇が挑戦的に弧を描いている。

紳士的ではない顔をする彼を初めて見た。

まさか地味な自分が口説かれると思わず、驚いて言葉が出ない。

「二分以内に決めてくれ。自宅に帰るか、俺の家に来るか」

酔っていなければ、どんなにつらくても自宅に帰る選択をしただろう。

一夜限りの関係を築ける性分ではないのだから。

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