忘れられるはずがない〜ドクターに恋して〜
怒っているのだろうか。

彼は無言のまま身体を拭き新しいシャツに着替えた。
葵にタオルを渡すと、体を拭くように促す。

売店で売っていた商品であろう T シャツを開け、下着は売っていなかったからと、男性用のトランス型の水着のタグを引きちぎって、葵に渡した。

葵はノロノロと新しい服に着替えた。

自分がしてしまった行為に、彼が腹を立てている事は間違いないだろう。
まるで、そういうことに慣れている女の人みたいな真似をしてしまった。

自分からすすんでするなんて、女性としてはしたない。
山本さんはもしかしたら結婚しているかもしれない。恋人がいるかもしれない。
せめて確認してからすればよかった。
後悔が襲ってくる。

顔を合わせづらいと思い、ひたすら髪を乾かした。ドライヤーは使えないだろうからできるだけ、髪の水分を拭き取った。

洗面台に使い捨ての歯ブラシとヘアブラシがあったので、丹念に髪をとかし何日かぶりに歯を磨いた。

のろのろと時間をかけた。

部屋に戻ると彼はペットボトルの水を渡してくれた。

葵を椅子に座らせると救急箱を持ってきて足首のテーピングを巻き直す。

「痛くないか?」

「……はい。大丈夫です」


言葉が続かない。嫌な空気が流れた。

「あの……勝手なことをしてしまってすみませんでした」

「そうだな……」

「吊り橋効果的な……何かが起こったと思って下さい。もう、しませんので」

「恐怖や不安を感じる状況を、一緒に体験した相手に好意や恋愛感情を持ちやすくなる という心理的効果を意味する。吊り橋効果はそういう事を指す。君は俺に恋愛感情を抱いているの?」

「……そう聞かれると、それほどでもない……かもしれない」

「……いや、は?」

「その、えっとですね……すごくお世話になって、命の恩人じゃないですか山本さん。でも私は何も返せないし、お金を払うとかってここでは無意味ですし。掃除や料理とか、そういう事も何もできないで、介護してもらっている状態でしたし。せめてできることをと考えたら、目の前に山があった。みたいな?山があったら登りたいと言いますし」

「なんなの?君、アルピニストなの?」

「もういいじゃないですか!結果的に達したわけですから。も、文句言わないでください」

「何なの?あんた信じられない。どんだけゆるいんだよ。そもそも最初からおかしいんだよ。あんな山の中にくるのに、ハイヒールにスカート?あり得ないだろ」

「そう会社から言われたので、そうしたまでです。服装は仕事用のスーツでした」

「カシミヤのコート?なんなの?バカなの?」

さっきまでの優しかった彼はどこへやら、売り言葉に買い言葉で葵も応戦する。

「はい?暖かいんです。カシミヤのコートを着たことがない人には分からないでしょうけど」

「なにそれ?命の恩人に向かって言う言葉?」

「……すぐイッタくせに」

「お、おま……」

彼の整った顔が一瞬で般若のように鋭くとがった。



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