忘れられるはずがない〜ドクターに恋して〜
彼は落ちていたペットボトルを拾って、川の水を汲んできてくれたそれは濁っていて、どう考えても人の飲み物には見えない。しかし気にせず彼はそれを口にする。

「海じゃなかっただけマシだ。飲みたくなければ飲まなくてもいい」
そう言ってペットボトルを私に手渡した。
無理だと思った。絶対に飲みたくない。

喉は乾いていなかったのでそれとなく飲んだふりをした。

「川で泳いでるときに、水飲んじまったってことあるだろ、そう考えれば特に問題ない」

嫌味を言われた。飲まなかったのがバレていたようだ。

「私は久徳葵です。リゾート開発を手掛けている企業に勤めています。昨日は仕事でホテルに宿泊していました。帰りにあの事故に遭いました」

話題を変えたくて簡単に自己紹介する。

「まぁ、スーツだったから仕事だろうなとは思ったけど。お互い災難だったな」

彼はバスに乗車する私を見ていたようだった。乗客の中で、スーツ姿の人はいなかったので目立ったのかもしれない。
そうですねと相槌を打つ。

「橋から落ちそうになった時助けて下さってありがとうございました」

自分の命も顧みず手を差し伸べてくれた。誰にでもできることじゃない。巻き込んでしまって本当に申し訳なかった。

「結果的には川に落ちた事がよかったのかもしれない。今のバスの状況がどうなっているのか分からないが、あのまま車内に居たら最悪の事態になっていたかもしれない」

彼は考え込むようにあごの下に手を置いた。端正な顔立ちの男性だった。

あのバスに何人乗車していたか思い出せない。多くはなかったと思うけど運転手を含めて8人くらいはいた。その人たちは助かったのだろうか。最後に見た光景は彼の後ろに大きな岩が迫っていて土砂とともに流されてきたところだった。

昨日はよく見なかったけど、彼の体は鍛えられていて肉体労働者のように見える。多分、着ている物が泥だらけで顔や手も傷だらけで汚れているからなのかもしれないが日焼けした肌と筋肉量から会社勤めで内勤って感じではないだろうと思った。
切りそろえられた短めの髪形やTシャツからのぞくたくましい腕は自衛官、消防隊員のようにも見える。
葵は自己紹介したが、彼は自分の事を何も言ってくれなかった。わざわざ聞くのもなんだか気が引けた。彼は葵と特に仲よくしようとは思っていないようだった。

「足はどう?」

「痛みはありますけど、歩こうと思えばゆっくりなら何とかなりそうです」

「そうか、ならよかった」

葵はブルーシートを体に巻き付けてはいるが、下はパンティーだけという恥ずかしいかっこをしている。せめて髪の毛だけでもまともに整えようと手ぐしで何度も髪を梳き、頭上で一纏めにした。

「ブルーシートがあったから、生きてる。これがなかったら多分凍死してただろうな」

そういうと彼は立ち上がった。

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