忘れられるはずがない〜ドクターに恋して〜
夕方近くになって、山本さんは岩の上で乾かしていた洋服を、持ってきてくれた。

「まだ湿っているけど、無いよりましだろう」

「ありがとうございます」

葵は洋服を受け取るとすぐさま身に着けた。シャツは湿っていたが、そのうち体の体温で少しは温かくなるだろう。
こういう場所にはかなり適さないスーツの上下は、よりによってタイトスカートだった。せめてパンツスーツにしておけば動きやすかっただろうに。

彼は長袖のTシャツにフリースのパーカーその上からナイロン素材のジャケットを羽織った。横目で葵の方を見ると、自分のジャケットを脱いで葵に手渡した。

「シャツの上から着たらいい。完全に乾いてはいないが君のコートはびしょ濡れで着られないだろう」

葵のカシミヤのコートは、着ることができないほどずぶ濡れだった。絞ったところで乾かないだろう。彼の物はフリース素材にナイロンジャケット。耐水性に優れているので比較的乾いていた。

遠慮するのが筋だろうが、シャツ一枚しか来ていない自分は、そう言っていられないほど寒かった。

「ありがとうございます」
彼からジャケットを受け取るとすぐに袖を通した。

「むやみにこの場所から動かない方が助けられる可能性は高い」

急に彼が話し出した。

「何度か付近を歩き回ってみたが、ここは山の中で建物が見当たらなかった。夜に明かりも見えなかった。街頭らしきものも見当たらない」

「道路は?道路はなかったんですか?」

必死になって彼に尋ねる。

「舗装されてない道が一本あった。だけど雑草が凄かったから、最近は誰も通ってないだろう」

絶望感に涙が出てくる。だけど耐えた。

女はすぐ泣くだろ?職場の上司が言いそうな言葉が脳裏をよぎったからだ。

今後、会社の経営を任され、継がなければいけない立場で涙なんて見せてはいけなかった。男性と一緒になって、いやそれ以上に働かなければ、強くならなければ認められないだろうと一生懸命仕事を頑張った。結果がこれだ。

泣かない女が良いわけでは決してない。それを武器にうまく立ち回れる女こそが勝者となる。
そんなことに今更気づいても遅すぎる。

深く深呼吸のようなため息をついた。

彼は、『道路が使われていない』と聞いて落胆した様子の葵に、慰めの言葉をかけてくれるわけでもなかった。
根拠のない慰めは、ときに人を苛立たせる事を知っているのだろう。
ただ黙ってそばに座っていた。

行き詰った状況は、残酷だ。神様がいるのならとても意地が悪い。この不満を何処にぶつけたらいいのかせめて教えてほしい。葵は膝を抱えた。
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