桜の樹の下
校舎二階の吹奏楽部室の窓を開けると校庭の向こうの川沿いの道に並ぶ桜が満開だった。奥の方の山々はまだ雪をかぶっている。橋本由美はその川沿いの道を歩いて登校するのだが、今朝も桜を間近に見ながら歩いたけれども、こうして遠くから眺める桜も格別だと思った。四月に入っても窓に入ってくる風は冷たい。空は鉛色。
 中学三年生になり吹奏楽部の副部長となった由美はコンクールに全力を尽くすつもりだった。目標は県大会で金賞をとり県代表として北陸大会出場。できれば全国大会まで行きたいと思った。
 窓際に立ったままフルートのリッププレートを下唇に当てロングトーンを始めた。音はB♭、合奏前に合わせる音だ。空の上に音が抜けてゆく。
 校庭を見下ろすと体操着で走る男子がこちらを向いた。明らかに目が合い、気まずくなった由美は窓を閉めた。たしか彼は同級生だ。名前は……そう、「高村」という名札だった。
 顧問の竹宮洋子が入ってきた。まだ三十歳前のように由美には思える。指揮台に立ってぐいぐい部員を言葉と指揮で指導する洋子に由美はあこがれを抱いていた。洋子が由美を見ると微笑んだ。
「橋本さん、来年三月にコンサートするよ。市民ホール予約したからね」
「えっ、本当ですか?」
 前年度県の吹奏楽コンクールで金賞をとり、北陸大会まで進めた吹奏楽部にぜひ演奏会をやらせてほしいと洋子は校長と掛け合い、本年度の開催が実現したのだった。
「九月の文化祭が終わったら三年生は引退だけど、年度末だから受験のあと練習すれば参加できるよね?」
「はい、もちろん」
「でも受験も頑張らないとね」
 次第に部員が増え、様々な楽器の音が鳴る。由美は課題曲をフルート・パートで合わせてみた。練習は十二時まで。明後日が始業式。受験も部活もがんばろうと思った。
 
 部活を終え校門を出た。川沿いに並ぶ桜を眺めながら由美はアパートへと歩く。
 ねえ、と後ろで声がした。振り返ると高村だった。
「朝、フルート吹いてたでしょ」
「ええ」
「どうして窓閉めたの?」
 由美は言葉に詰まった。なぜそんなことを訊くのだろうと思った。
「だって……寒かったから」
 もちろん寒かったから窓を閉めたのだが、高村と目が合ったのが気まずかったからでもある。
「ニニ・ロッソって知ってる?」
「?」
「トランペットを吹いている人さ。聴いたことある?」
 由美は首を振った。高村は由美と肩を並べて歩いた。由美は緊張した。異性の同級生と二人で歩くのは初めてだった。まして彼とは今まで一度も会話したことがない。
「俺の名前知ってる?」
「高村君でしょ」
「進也。高村進也」
「今日は部活だったの?」
「ああ、俺、陸上部」
 アイディー交換しよう、と進也が言った。アイディー?ああ、携帯電話のメッセージのことか。
「どうして交換するの?」
「おまえといろいろメッセージのやり取りがしたいから」
「私は橋本よ」
 おまえと呼ばれて由美は不愉快になった。
 由美はIDを口頭で伝えた。橋本由美の頭文字yhに4つの数字が並ぶ。
「数字は生まれた月日よ」
「じゃあもうすぐ誕生日だな」
 しまった、と由美は思った。だが誕生日がわかったところで、どういうこともないと思った。まさかプレゼントをくれるわけでもないだろう。だがもしもらったらどうしようとも思う。
 由美の住むアパートへ行く分かれ道で進也は由美に手を振った。進也の家はもっと先にあるようだった。由美は母と二人暮らしだ。父は由美が小学五年生の時にがんで亡くなった。
 アパートに入った由美は箪笥の上の父の位牌に手を合わせた。母は勤め先の会計事務所にいる。制服をジャージに着替えるとベッドに寝転んだ。着信音がした。机の上のスマートフォンを取った。LINEに進也からのメッセージが入っていた。
<明日部活が終わったら一緒に帰ろう>

 翌日由美が部活を終え生徒玄関を出ると校門に進也が立っていた。
「待ってたの?」 
 進也は頷いた。二人で歩き始めてから由美は気が付いた。練習を休んで廊下の窓からグラウンドを見た時、部活をやっている運動部はなかった。とすると彼はわざわざ自宅から学校まで来たのだろうか。自分に会うために?
「橋本はフルートうまいな」
「そうでもないよ」
「三学期の初めころだったかな、部活で、雪が積もってなかったからグラウンドを走ったんだけど、その時音楽室から聴こえてきたんだ。
 あれシューベルトだっけ、たーんたーかたかたか、たかたかたかたかた」
 由美はくすっと笑った。
「ビゼーの『アルルの女』のメヌエットよ」
「じゃあ、この曲知ってるか」 
 進也はスキャットを歌い始めた。か細いが意外ときれいな声だと由美は思った。
「ニニ・ロッソの『夜空のトランッペット』さ」
「音楽、好きなの?」
「オヤジの古いCDラジカセをもらってFMを聴き始めてから。
 俺、トランペットが吹きたくなったんだ」
「吹奏楽部、入る?」
「もう三年生だもんな。高校に入ってからにしようと思う。橋本はどこの高校に入るつもりだ」
 由美は志望校を告げるのを少しためらった。その高校は地元では進学校と評価されていた。その名を告げることは学校内でそこそこ成績がいいことを意味する。一応、と断ってから由美は高校の名を告げた。
「ふうん」
 進也は顔を上向けた。
「じゃあ、俺もその高校にしよう」
「どうして?」
「橋本と一緒に吹奏楽部に入りたいから」

 一学期が始まった。進也は隣のクラスだった。休み時間に由美がトイレに行くとき廊下でばったり進也に逢うと進也は由美に「よっ」と手を上げる。それを見たクラスの女子が
「由美、あなた高村君とつきあってるの?」
 と問いかけるので、由美は
「なんか、彼、音楽が好きみたいなの」
 と、答えにならないことを言うのだった。

 由美の学校は六月に最初の試験がある。
 その試験の終わった翌日に音楽の授業があった。音楽担任は竹宮洋子だった。最初に混声三部合唱を歌った後洋子は生徒たちを見まわして、にっこり笑った。
「今年の合唱コンクールですけど、ちょっと趣向を変えようと思います」
 一呼吸置いた。
「今年は各クラスがオリジナル曲を作詞作曲して歌うことにします」
 生徒達がどよめいた。由美も驚いた。合唱コンクールは九月の文化祭の行事の一つだ。
「作詞する人、作曲する人、伴奏をする人、指揮する人、それぞれ決めたいと思います。自薦他薦、どちらでもいいわよ」
 伴奏はすぐ決まった。吹奏楽部でクラリネットを吹いている吉沢真奈だった。五歳の時からピアノを習っている。作詞は合唱部の川瀬翔平に決まった。翔平は指揮もすることになった。
「作曲は誰がいいかしら?」
 翔平が手を挙げた。
「橋本さんがいいと思います」
 由美は驚いた。作曲などしたことがない。だがクラス全員(由美を除いて)が「異議なし!」と叫んだ。

 放課後部室でフルートを吹く由美に真奈が近づいた。
「由美、作曲大丈夫?」
「大丈夫じゃないよ。やったことないもん、作曲なんて」
「川瀬君、なんで由美を推薦したんだろう」
「わかんない」
「もしかして由美のこと、好きなのかな」
「まさか」
「でも川瀬君どんな詞を書くんだろうね」
 由美は窓に目をやった。短パンで進也がグラウンドを走っていた。
 洋子が部室に入って来た。
「合奏するよ。みんな呼んできて」
 由美と真奈は部室を出ると、廊下や教室で練習している部員たちに部室に入るよう声をかけた。

 部活を終え校門を出ると進也が立っていた。進也は由美と並んで歩いた。
「今年の合唱コンクールは、各クラスがオリジナル曲を歌うことになるそうだな」
「情報速いね」
「お前のクラスの柴山が言ってた」
 陸上部の柴山秀樹のことだ。
「誰が作曲するんだ?」
 由美は黙った。自分が作曲するとは恥ずかしくて言えない。
「俺のクラスは俺だ」
「もう決まってるの?」
「決まってない。だから、俺が作曲する」
「自薦ね」
「じせん?」
「自分で自分を推薦すること」

「作曲したことあるの?」
「ない」
「どうやって作曲するの?」
「ギターでコードを弾けば何とかなる」
「ギター弾けるの?」
 進也は頷いた。
「それで、おまえのクラスは誰が作曲するんだ」
「それは……わたし」
「へえ、そりゃいい」
「なんでいいのよ」
「いろんな曲を吹いてるから。すぐメロディが浮かぶだろ」
「盗作は出来ないでしょう?」
「オリジナルもすぐできるよ」
 由美はこうして進也と会話していること自体が不思議だった。言葉を交わすようになって二か月ちょっとしかたっていないのに会話が弾んでいるように思えたからだ。
(彼とは気が合うのかな)
 だが作曲のことを考えると気が重くなるのだった。

 由美の住むアパートにはピアノは置いてない。父が亡くなった時、六十坪の家を母と二人住まいではもったいないと人に貸し、二人はアパートに移った。家賃からアパート代を引き、さらに固定資産税を引くと大した金額にはならないのだが、母の恵子はそれを由美の大学の学費に貯金すると言った。ピアノはその家にある。今更その家に行ってピアノを弾こうとは思わない。中学に入り、吹奏楽部に入った時ピアノはやめた。もともとピアノはあまり好きではなかった。
 由美は進也にギターを教えてもらおうかと思った。ギターが弾ければメロディが浮かぶかもしれない。進也にLINEでギターを教えてほしいと送った。返信が来た。
<日曜朝九時に希望が丘の桜の木の下に来て>
「希望が丘」は校舎の前にある十メートル四方の芝生の丘で、中央に創立記念の桜の木が立っている。おかしなことを言うと由美は思った。
 日曜日、由美は学校へ行った。吹奏楽部は休みだが制服を着て行った。桜の木の下に立ち、制服で来たことを後悔した。芝生に座るとスカートが汚れる。立ったまま進也を待つのは間抜けな感じがする。
「うっす」
 声がした方を見ると二年時に同じクラスだった村瀬浩介だった。野球部のユニフォームを着ている。
「今日、練習なの?」
「夏の地区大会が近いじゃん、知ってるだろ」
 見るとサッカー部やテニス部の部員たちが続々校庭に出ている。吹奏楽部の由美がぽつんと丘に立っているのはなんとも気まずい。進也が来た。ギターのソフトケースを肩にかけている。
「ここで練習するの?」
「ああ」
 進也は腰を下ろすとケースからギターを出した。
「座りなよ」
「服が汚れる……」
「ケースの上に座ればいい」
 進也は芝生にギターケースを敷いた。
「前もってチューニングをしてきたけど6弦から1弦までミラレソシミと合わせるんだ」
 進也は弦をひとつずつ弾いた。
「ギターはコードを覚えなきゃいけないから、これでコードを覚えろよ」
 ギターケースから本を出すと由美に渡した。教則本だ。
「?とAmとFとG7、今日はこれだけ覚えて、あとは家で練習しろ」
「私ギター持ってないんだけど」
「リサイクルショップに安いの売ってるよ」
 リサイクルショップと言われて由美は気が滅入った。高いギターが弾きたいとは思わないが、どうせ買うなら新品がいい。由美の顔色に気づいた進也は
「廉価ブランドのサイズの小さいやつが売ってたりするから、最初はそれでいいと思う。なんなら一緒に店に行って選んでやろうか?」
 と言った。
「それはまだ先の話よ」
「じゃあまず聴いてろよ、さっき言ったコードだけで弾き歌いするから」
「弾き語りっていうんじゃないの?」
「どっちでもいいだろ」
 進也は制服のポケットからピックを出してギターを弾き、歌い始めた。英語の歌だった。語るような、叫ぶような、不思議な歌声だった。ギターも正直言ってあまり旨いとは思えない。だが由美は不思議と進也の歌声とギターに惹かれてゆくのだった。
「なんていう歌?」
 歌い終えた進也に訊いた。
「CCRの『雨を見たかい』さ」
 進也はギターを由美に渡した。
「さ、CとAmとFとG7を押さえてみろ。教則本にコードフォームが載っているから」

 月曜日、由美が教室に入ると真奈が由美!とさけんだ。
「どうしたの、大きな声出して」
 ちょっとちょっと、と真奈は由美の手を引き廊下に出た。
「あんた昨日、高村君とデートしたって本当?」
「でえと?」
「テニス部の杏里が言ってたよ。希望が丘で高村君と並んで座ってたって」
「ギターを教えてもらっていたのよ」
「なんで校舎前の丘で教わるの?」
「高村君がそこへ来てって言ったから」
「あんたバカじゃないの?なんでわざわざあんなところでギターを教わんなきゃならないの。仮に学校で教わるにしたって生徒玄関は開いているんだし、どこかの教室で教わればいいじゃない。もう大評判よ、あんたと高村君はできてるって」
 言われてみればそうなのだが、由美にとってみれば進也がそこへ来てくれと言ったから行ったまでのことだ。それにしても馬鹿正直に同級生や下級生の目につくところで教わらなくてもよかったと今更ながら思った。彼は「ぶっ飛んだ男子」だとも思った。あんなところを待ち合わせにするなんて。

 土曜日の午後、由美は商店街のリサイクルショップに行った。店の奥の壁に何本かギターが掛けられている。
「ギター探してるの?」
 エプロンをつけた若い男性店員が声をかけてきた。
(やばい、イケメンだ……)
 由美の顔が紅潮した。
「はい……」
「君なら、このギターがいいんじゃないかな」
 店員は壁からギターをとった。
「小ぶりだし女の子でも弾きやすいと思うよ。バックに傷があるから安いんだけど木は乾いていていい音するよ。ソフトケースもついているし。
 ほら、リュックみたいに背負えるようになっているんだ」
 値札を見ると由美でも買えそうな値段だった。
「なんならピックも弦もサービスするよ」
「いいんですか?」
「そのかわりまた買いに来てね」
 由美はそのギターを買った。ギターケースを背負うと世界が変わったような気がした。

 アパートに帰りギターを弾いてみたが、チューニングが合っていないし弦も古い。とりあえず進也に<ギターを買った>とLINEを送った。
 進也<弦は新しいの?>
 由美<リサイクルショップで買ったから古いまま。新しい弦はあるよ>
 進也<俺が張り替えてやる。チューニングもしてやるよ>
 由美<どこで?また学校の丘はイヤだよ>
 
 進也からのメッセージは夜入ってきた。
<アパートの前の川沿いの道を南へ五分ほど歩くと高村建設というビルがある。その裏に家があるから明日の午後来てくれ>
 翌日由美はギターケースを背負い進也の家に向かった。高村建設は二階建ての小さなビルだった。横に路地があり中へ入ると家があり「高村」の表札がかかっていた。インタフォンを押すと階段を降りる音がして玄関戸が開き進也がにっこり笑った。
「あがれよ」
 進也の部屋は二階の洋間だった。
「ギターと弦を出して」
 進也は由美のギターのペグを緩め弦を抜くと新しい弦を一本ずつ通していった。
「クリップチューナーが一般的だけど俺は音叉で音合わせをするんだ」
 進也は机の上の音叉を取ると軽く机をたたきギターのボディに当てた。キーンと金属音がした。
「裏ワザだけどさ、叩いてから歯に咥えてもいいんだぜ。骨が振動して音が伝わるんだ」
 そう言って音叉を咥えてペグを回していく。
「これが5弦のAの音だ。これを基準としてほかの弦を合わせていく」
 進也は弦を一本ずつ合わせていった。今まで見たことのない(といっても会話をするようになったのはほんの数か月前からなのだが)真剣な表情だった。
 由美にギターを渡し、コードを弾く練習が始まった。C、Am、F、G7。
「これだけ弾ければ『雨を見たかい』のほかに『花はどこへ行った』も歌えるんだ。聴いてくれ」
 進也が歌いだした。これも英語の歌だった。
「高村君、英語上手いのね」
 歌い終えた進也に言うと、聴き覚えのでたらめ英語さ、と言った。
「『雨を見たかい』と『花はどこへ行った』のレコード貸してやるよ。ドーナツ盤だけど」
「ドーナツ盤?」
「これさ」
 進也は本棚からレコードを出した。
「蓄音機持ってない」
「ずいぶん古い言い方するな」
「蓄音機っていうんじゃなかったの?」
「その言い方でもいいけど、まあ普通はレコードプレーヤーだな。ばあちゃんのポータブルを貸してやる」
 進也はベッドの下からポータブルレコードプレーヤーを出した。
「ばあちゃんが剣舞の練習で使ってたやつだ。剣舞って知ってるか。袴姿で剣を持って踊るんだ」
「おばあちゃんて、亡くなったの?」
「生きてる、ぴんぴんしてる」
「じゃあ借りられないじゃない」
「大丈夫だよ。俺の彼女に貸したって言っておく」
「私はあなたの彼女なの?」
「そういうことにしとけよ」
 そういうこととはどういうことだと由美は思った。
「なんで俺がこのレコードを持っているかわからないだろう。ショッピングセンターで質流れの即売会があったんだ。一枚五十円だったんだ」
 進也は階下から紙袋をとってくるとレコードを入れた。
「ジーパンを買ったときの袋だから大きいけど、これに入れて帰れよ」
「大きすぎる」
「文句言うな。プレーヤーは持ち手がついているから持って帰れるよ。音叉も持っていけばいい。俺は小学生の時使った鍵盤ハーモニカでチューニングできるから」
 由美はギターを背負い、右手にレコードの入った大きな紙袋、左手にプレーヤーを持った。アパートに帰ると由美を見た母の恵子が叫んだ。
「あなた大道芸人になったの?」
 部屋に入り音叉を歯に挟んだ。間接キスだと思った。

 夕食の後コードを弾く練習を始めた。C、Am、G7は何とか押さえられるがFが上手くいかない。だが弾いているうちにメロディが浮かび、由美はハミングした。これならメロディを作れるかもしれないと思った。進也からLINEが来た。
<来週の日曜日も練習しよう。リサイクルショップでカポタストも買うといい>
(また家に来いっていうの?)
 
 月曜日の放課後、教室を出ると後ろから橋本さん、と声がした。振り返ると川瀬翔平が立っていた。
「詞ができたんだ」
 翔平が渡した紙を開くとタイトルは「アンドロメダに向かって」と書かれていた。
「恥ずかしいから家に帰ってから読んで」
 そう言うと翔平は小走りで階段を降りていった。
 夜由美は詞を読んだ。
 
 さあ未来へ向かって進もう 
 僕等の心の宇宙の彼方 
 アンドロメダへ向かって
 
 由美はスマートフォンでアンドロメダを検索した。アンドロメダ銀河は地球から二十五万光年の距離にある天体で一兆個の恒星からなる渦巻銀河―一光年は約九・五兆キロメートル。
 距離も数も想像もつかない大きさだと思った。川瀬君は天文ファンなのだろうか、こういう詞に自分はメロディをつけられるだろうかと思った。
 
 日曜日に進也の家に行った。
「カポは買ったか」
「カポタスト?お小遣い余裕ない」
「まあ、慌てて買わなくてもいいさ。『雨を見たかい』と『花はどこへ行った』はカポがなくても歌えるからな」
「どういう意味?」
「文化祭の芸能発表に二人で出ないか。生徒会がいま出演者を募集しているんだ」
「無理でしょ?」
「今から練習すれば大丈夫だ」
「だって私、吹奏楽のコンクールもあるし作曲もしなきゃいけないし、あっそうだ、文化祭だって吹部のステージがあるし」
「お前が歌うのは『花はどこへ行った』だけでいい。『雨を見たかい』は俺が歌う。ギターは俺も弾く」
「それで?」
「だから大丈夫」
 帰り際に進也は、また来週練習に来いよと由美に言った。

 夏休みに入ってすぐ県の吹奏楽コンクールがあった。金賞をとり県代表として二週間後の北陸大会に出たが、全国大会出場はかなわなかった。涙ぐむ二年生たちに由美は
「来年は絶対全国大会まで行ってね」
 と言った。
 中学生最後のコンクールは終わった。だが由美はやることがいっぱいある。クラス合唱の作曲、芸能発表の練習。吹奏楽だって文化祭の発表がある。年度末は定期演奏会だ。
 
 吹奏楽部は八月下旬から文化祭の練習となり、それまでは休みとなった。
 由美は二学期までに翔平の詞にメロディをつけようとするのだが、なかなかいいフレーズが浮かばないので真奈にLINEを送った。
<曲作りで協力してほしいんだけど真奈の家に行っていい?>
<午後ならいいよ>
<じゃあ明日行く>
 
 翌日真奈はギターケースを背負った由美を見て驚いた。
「あんたギター弾けるの?」
「高村君に教わってるの」
「また高村君か、仲が良いのね。将来結婚する気?」
「そこまで考えてない」
「じゃあ気があるのね。気が無かったら、全く考えていないって言うものよ」
 由美はギターを出すと?コードを弾き、メロディの出来ている冒頭部を歌った。
「もう一回歌うね」
 由美が?コードを弾いた。すかさず真奈がピアノでCコードを弾いた。驚いた由美はギターを止め真奈を見た。
「コードがわかるなんて音感いいね」
「バカにしないで。ハ長調くらいわかるよ」
 由美は途中で歌い終えると、ここまでしかできていないの、と言った。真奈は
「そこでマイナーに転調したら?」
 と言った。
「転調ってどうするの?」
「えっとね、多分E7からAmに行くの」
「E7?コード知ってるの?」
「ピアノのポピュラー曲集の楽譜にはコードネームも付いてるの。それで覚えたんだ」
 由美はギターケースから教則本を出し、巻末のコード表を見た。
「E7のコードは知らないの?」
「まだ教わってなかった。でも大丈夫」
「いい?そこから、こう歌ったら?」
 真奈はピアノを弾いて口ずさんだ。
「AmからEmにいくのよ」
「Em?待って」
 由美はまたコード表を見る。
「そこからFへ行く」
「Fが難しいんだ」
 ふたりで歌詞を読み、各々が思いついたフレーズをつなぎ合わせ、何とか歌の形になった。
「あのさぁ、由美」
「なに?」
「あんたのギターも伴奏に入れたらどうかしら」
「ええ?まだ弾けてないよ」
「練習すれば弾けるようになるんじゃない?」
「あのねえ、私やることいっぱいあるんだよ。『星条旗よ永遠なれ』でピッコロのオブリ吹くんだよ。それまだ楽譜もらってないじゃん。文化祭までに吹けるかわからないんだよ。それに……」
「それに?」
「高村君と芸能発表に出るんだ」
「げーのーはっぴょー?何すんの」
「二人でギターの弾き歌い、じゃない弾き語り」
 真奈はまじまじと由美を見た。
「やっぱり、あんたら、できてるんだ」
 
 日曜日に進也の家へ行くとA4の紙を渡された。「雨を見たかい」と「花はどこへ行った」のコードのついた歌詞だった。
「クリアファイルに入れると便利だぜ」
 由美は以前から気にかけていたことを尋ねた。
「高村君の家族に逢ったことないんだけど?」
「親父は平日は仕事。休みの日はゴルフかパチンコ。ばあちゃんは喫茶店でバイト」
「働いてるの?」
「家にいても退屈だってさ。年寄りの憩いの場みたいな喫茶店だけど」
「お母さんは?」
「俺が小学生の時に亡くなった。脳出血さ」
「じゃあ、うちと似た境遇ね。私はお父さんを亡くしたから」
「ふうん」
 
「あのさ、もし俺の親父とおまえの母さんが再婚したら、俺達きょうだいになるのかな」
「その可能性は限りなく低いと思うけど」
「じゃあおまえの母さんはどこに勤めてるんだ」
 由美は母の勤める会計事務所の名を告げた。
「そこはうちの会社が経理を頼んでいるところだ。親父と会っているかもしれないな」
 
 その翌日真奈の家に行くと楽譜を渡された。
「このあいだの歌、何とか譜面にしてみたの」
「すごいね」
「でもまだ伴奏を考えてないんだ。コードは書いといたからギター練習して」
 進也の家と真奈の家に行く日が続いた。進也のリズムに合わせてギターを弾くのはまだ難しい。だがクラス合唱の方は何度か真奈とピアノやギターで合わせているうちに前奏、間奏、後奏が出来上がってきた。
「どうやってみんなに歌を覚えてもらおうか」
「とりあえずスマホに歌ってるところを録画してみんなに転送しようか」
「なんか恥ずかしいね」
 由美は二人の演奏を録画した。あとで聴いてみると結構いい歌のように思えた。
 
 吹奏楽部の練習が再開した。洋子からパート譜を渡された。「星条旗よ永遠なれ」、「宝島」、「ポップス描写曲メインストリートで」。これにコンクールの課題曲と自由曲が加わる。由美はフルートなのだが「星条旗よ永遠なれ」ではピッコロと一緒にオブリガートを吹く。だから自分用のパート譜を書かなければならない。
 
 始業式の放課後、由美はクラスの生徒の前で言った。
「みんな、歌ができたから聴いてください」
 由美と真奈は黒板の前に立った。スマホの動画を見てもらうのでなく、無伴奏で歌うことにしたのだ。
 クラスメイト達は二人を囲うように立った。由美は真奈に目で合図を送ると歌い始めた。

 青春の輝く日々 僕らは心に刻んだ
 あの宇宙の彼方へ 思い とどけたい
 さあ未来へ向かって進もう 僕らの心の宇宙の彼方 アンドロメダへ向かって
 夢を届けよう

 歌い終えると周りから拍手が起こった。真奈が言った。
「これから文化祭まで毎日放課後は歌の練習をしたいんだけど、音楽室と講堂のピアノの使用時間は各クラス割り当てだから、ピアノが使えない時間帯はこの教室で練習することにします」
「伴奏はないの?」
「由美がギターを弾くから、それで歌ってほしいの」
 皆が驚きの声を上げた。由美がギターを弾けるとは思っていなかったからだ。
「すごいぞ橋本!」
「やったね由美!」
 ちょっと意見があるんだけど、と翔平が言った。
「いい歌だけど、ていうか、いい歌だからこそハモった方がいいと思う。男声と女声で二部合唱の部分があってもいい」
「ごめん。二部合唱まで考えていなかった」
 由美が言うと翔平が笑った。
「僕が男声パートを考えるよ。譜面貸してくれる?」

 だが由美は大変だった。ギターを持って登校しなければならないからだ。いつもはリュックを担いで登校するのでギターは手に持たなければならない。ソフトケースでもリュックを担いでだときつい。
 翌日の放課後、音楽室での練習の時、真奈がピアノを弾くので合唱の練習を任せて由美は吹奏楽部室に入り、ピッコロの長谷川真由と一緒に「星条旗よ永遠なれ」のオブリガートを吹いてみた。
「橋本さん、ここは二人立って前に出て吹けって先生言ってたよ」
「じゃあ暗譜ね。そうだろうとは思ってたけど」
 二人でもう一度合わせてみる。
「やばい。『宝島』のソロ、息が続かない」
 アルトサックスの山崎美咲が叫んだ。「宝島」のソロはかなり長く難しい。
 部活を終え校門を出ると進也はいなかった。陸上部か合唱の練習で忙しいのだろうと思い一人で帰った。一人で帰るのはなぜか寂しかった。今日は進也と言葉を交わしていないと思った。
(私は高村君に恋しているんだろうか)
 
 夕食時、由美は恵子に訊いた。
「お母さんの事務所は高村建設の経理も担当しているの?」
「よく知ってるわね。お母さんが担当なの。でも、なんで?」
「同級生に高村建設の息子さんがいるのよ」
「あらそう、社長さんわりとイケメンだから息子さんもそうかしら」
 由美は進也がイケメンかそうでないかわからない。ただ自分のギターをチューニングしているときの真剣な顔は印象に残っている。由美は、彼は私よりも音楽が好きなのかもしれないと思った。
 
 部屋に入りギターを持ち椅子に腰かけた。机に進也からもらった歌詞を置きギターを弾く。まだダウンストロークしかできないが「花はどこへ行った」を歌ってみた。花は少女に摘まれ、少女は青年のところへ行く。青年は戦場へ、そして墓場へ行く。その墓場の周りに再び花が咲くという意味の歌だ。
 続いてクラスの合唱曲。「未来に向かって」と翔平はタイトルをつけている。ギターを弾いて歌った。
 唐突に亡くなった父が思い浮かんだ。まだ保育園児のころ浴衣を着て父と夏祭りの花火大会を見に行ったことがある。花火のあと手をつないで帰るとき夜空を見上げた。星が見えないと言ったら翌年プラネタリウムに連れて行ってくれた。そんな父はスキルス胃がんで亡くなった。
(せめてもう一度、お父さんと花火が見たかった)
 由美の目から涙が出た。
 
 翌朝校舎に入ると進也の教室からギターと合唱が聴こえてきた。由美は足を止めその旋律に聴き入った。誰かが肩を叩いたので振り向くと真奈だった。
「あなたの彼氏が作曲したらしいよ。伴奏もギター一本だって」
「高村君は彼氏じゃないよ」
「すっとぼけないで」
 教室に入ると翔平が橋本さん!と声を上げた。
「男声パート書いてみたよ。ただそれだと女声ばかりが主旋律になってしまうけど」
 ありがとうと言って由美は翔平の譜面を受け取った。真奈がものすごい形相で由美を睨みつけた。
「あんたの彼氏って、川瀬君だったの?」
「もう彼氏彼氏って言わないで」

 音楽の授業でクラス合唱を練習することになり翔平が男声パートを歌った。真奈がピアノでサポートしたので男子たちは理解が速いようだった。女声と合わせてみる。
「橋本さん、ギター、もうちょっとリズムが欲しいな」
 洋子が言った。由美はまだオルタネイトピッキングに慣れていないのでエイトビートで上手く刻めない。まだまだ練習が必要だなと思った。

 文化祭の日、配布された合唱コンクールのプログラムを見て由美は驚いた。進也のクラスは作詞作曲とも彼だった。午前中弁論大会があり午後からが合唱コンクールだ。一年生からひとクラスずつ発表する。一年生もいい歌を作るなと由美は思った。二年生になると吹奏楽部員が間奏でトランペットやフルートを吹く。由美はクラス合唱でフルートを吹くなど考えもしなかった。各クラス工夫を凝らしていると思った。

 三年生の番になった。最初は進也のクラスだ。ギターにストラップをつけた進也がステージ下手に立った。指揮者はいない。いきなり激しくストロークを弾き始めた。
 
 僕たちが望むもの それは希望
 僕たちが望むもの それは愛
 だけど大人たちは僕らを しばり付ける
 僕たちに何を 望んでいるんだろう
 
 歌が終わると生徒達から大きな拍手が起こった。由美もすごいと思った。
(迫力ある合唱だった。私のクラスは、あそこまで歌えるだろうか……)

 由美のクラスの出番になった。ギターのストラップを肩にかける。ストラップはリサイクルショップで買ってきたものだ。翔平が真奈と由美に指揮で合図をし、前奏に続き合唱が始まった。

 僕はいつも夢見ていた
 あの宇宙の彼方へ 飛んでいけたらと
 大人たちは笑うけれど 想像の翼広げ 飛んでいきたい

 男声女声、うまくハモっているなと由美は思い、少し安心した。
(川瀬君、いい男声パートを書いたな)
 コンクールは各クラス代表が点数をつけ金賞銀賞銅賞に振り分けられる。由美のクラスも進也のクラスも金賞だった。

 文化祭二日目は合唱部と吹奏楽部の発表。由美は何とかフルートを吹きこなした。
 昼食後は自由となる。生徒たちはクラス展(例年どこかのクラスがお化け屋敷を作った)を見たり父兄の模擬店でジュースを飲んだりする。だから講堂での芸能発表を聴くのは強制ではない。だが進也と由美が出るという噂は三年生中に広まり、とくに役割のない生徒たちは早々と講堂に陣取っていた。
 歌う前に喉を潤したいと由美は模擬店に入った。エプロンをした恵子を見て叫び声をあげた。
「お母さん!何でここにいるの?」
 トレイを持った恵子は、はにかんだように笑った。
「PTAの役員の仕事で模擬店を頼まれたのよ。あなたには黙っていたけど。
 ほら、向こうにいるのがあなたの友達のお父さん」
 手が向けられた方を見ると長身の四十代後半の男が会釈した。
「どうも、進也の父です。息子からあなたのことはいろいろ聞いてますよ」
「二人で弾き語りするんでしょ?お母さん模擬店抜けさせてもらって聴きに行くからね」
 ジュースを飲んだ由美は模擬店を出ると最悪、とつぶやいた。
 
 芸能発表の最初は二年生のコント。名物教師の物まねに皆大笑いした。三年生女子のグループがバブリーダンスを踊った。手品をする一年生男子がいた。
 進也と由美の出番になった。ステージにはスタンドマイクが二本立っている。口元までマイクを上げるとギターの音が拾えないと思ったが由美はもうどうでもよかった。
「えっと、高村進也と橋本由美です」
 進也がしゃべると拍手が起こった。進也が由美に目で合図した。
「橋本由美です。『花はどこへ行った』を歌います」
 ユミ―?とクラスの女子たちが声援を送った。おまえら早く結婚しろ!と男子も叫んだ。
由美が歌い始めた。しばらくすると進也の声が重なった。ハモっているのだ。
(二人でいるときは歌わなかったのに。こっそり練習していたんだ)
 歌い終えると盛大な拍手が起こった。
「次はCCRの『雨を見たかい』を歌います。その前に……」
 しんと講堂が静まった。
「今回こうやって橋本とギターを弾いて歌うことになったんだけど、橋本って俺にとってすっげぇ刺激になる存在だったんです。陸上部の練習で校庭を走ると、いつも橋本のフルートが聴こえてきて、すっげぇきれいな音で、俺にとって励みになったっていうか。
 だから俺、橋本と歌いたいなって思ってたんです。今日、俺、すごく幸せです」
 拍手が起こった。進也はいきなりギターを弾いた。慌てて由美も弾く。進也は歌い始めた。激しい歌い方だった。生徒達から手拍子が起こった。
 
 夏休みに練習しているとき進也が言った。
「『晴れた日に降る雨』ってどういう意味だと思う?」
「狐の嫁入り?」
「ばか」
「じゃどういう意味よ」
「謎かけなんだよ、つまりそれがロックンロールってことだ。意味なんて考えないことさ。ジョン・レノンの『カム・トゥゲザー』なんて対訳不可能だっていう翻訳者がいたんだぜ」
 由美はそんな会話を思い出していた。
 
 歌い終えた由美はひとり教室でぼうっとしていた。ひどく疲れていた。他のクラスメイトはクラス展や模擬店を回っているのだろう。
「由美!」
 クラスの女子たちが入って来た。
「すっごく良かったよ!感動した!」
 川崎暁美が由美に抱きついた。
「ねぇ、私もギターやりたいんだけど。教えてよ」
「私もベースやるわ」
 吹奏楽部でコントラバスを弾いている相本聖奈が言った。聖奈はポピュラー曲でエレキベースを弾いている。
「どうせならパーカッションの谷村優里にドラムを叩かせて、バンドやろう!」
「何言ってるの、受験は目の前だよ。高校に入ってからでないとバンドなんてできないよ」
 由美の言葉に暁美と聖奈が黙った。各々進む高校が違っているのは言葉に出さなくてもなんとなくわかっていたからだ。
「予餞会でやるのはどうかな」
 暁美が言った。
「予餞会は下級生が卒業生のためやるものでしょう?主客転倒よ」
 由美が言うと聖奈が手を叩いた。
「じゃあ、卒業式の前日にやろう!」
「どこで?」
「講堂よ」
「前日は先生たちが卒業式の準備をしてるでしょ?」
「そこで、ゲリラ的にライブやるってのはどう?」
「でも何をやるの?」
 由美の言葉に暁美と聖奈が同時に叫んだ。
「『雨を見たかい』!」
「それじゃ、高村君にヴォーカルをしてもらわないと」

 そんなことを由美は学校から帰る時進也に話した。
「じゃあ俺が譜割を書いてやるよ」
「フワリ?」
「楽譜さ、小節とコードが書いてあるだけなんだけど、それだけでも随分練習は効率的になると思うよ」
「バンドやるならエレキギターがいるよね。暁美がギターやりたいって言ってるの」
「オヤジのエレキを貸してやるよ。オヤジは昔バンドをやっていたんだ」
「だから高村君は古い音楽に詳しいんだ」
「古いなんて言うなよ。ところで橋本は何やるんだ」
「アコースティックギターかなあ。マイクを当てないとだめだよね。スタンドマイクじゃカッコ悪いけど」
「それもいいけど一緒に歌わないか」
「『雨を見たかい』を?あんな難しい歌を?」
「弾き歌い、じゃない、弾き語りでね」
「練習はどこでやろう」」
「うちの会社の倉庫でやればいい」

 エレキギターの練習は土曜日。暁美が自転車で由美のアパートまで来ると二人で進也の家に行く。由美はギターを背中に担いで自転車に乗る。暁美は進也の部屋でエレキギターをアンプを通さずに練習する。
 ある程度弾けるようになったら倉庫でアンプを通して練習した。ベースの聖奈は見学だけだがドラムの優里はスティックで適当に周囲にあるバリケードや鋼管足場を叩いてエイトビートを刻んだ。
「聖奈、ベースの練習はどうする?」
「ルート音だけ弾けばいいなら何とかなるよ」
「それにしても音を出して聴いてみたいな」
「じゃ、土曜日の吹部の練習の後に部室でやってみようか」
 吹奏楽部には備品としてエレキベースとベースアンプがあった。だが文化祭が終わり三年生部員は引退したので、土曜日午前の部活に出るわけにはいかない。なので午後練習することにした。もちろん新部長に了解を得てからだが。
 冬休みに入り、さすがに受験が済むまで練習は休むことにした。だが年末年始を除き学校で補習授業がある。クラスの雰囲気もぴりぴりしてきた。

 大晦日の夜、蕎麦を食べる由美の前で恵子はおもむろに言った。
「由美……お母さん、再婚しようと思うの」
「さいこん?誰と?」
「高村さんよ」
「高村さんて、高村君のお父さん?」
 恵子は頷いた。
「三年前から高村建設さんの経理を任されて、社長である高村さんと毎月会って来たの。経理の報告は月一回なのよ。
 それでだんだん高村さんに惹かれてきたんだけど、文化祭で模擬店やった後プロポーズされたのよ。
 お母さん、結婚してもいいかしら」
「いいも悪いも、お母さんが決めることだから……
 それで、結婚したら私はどこに住めばいいの?」
「来年高村さんは家を建て替えるそうなの。新築が出来たらそこに住もうってことになっているのよ」
「じゃあ、私と高村君は……」
「一緒に暮らすのよ。そして由美が高村さんと養子縁組したら、進也君ときょうだいってことになるわね。それでいいかしら」
「お母さんが結婚するのは構わない。だけど、養子の話は、ちょっと考えさせてほしい。せめて入試が済むまで。
 そうだ、お母さんいつ婚姻届け出すの?」
「由美の入試の後にしようと思うの。だからゆっくり考えて」

 由美は進也にLINEを送った。
<お互いの親の再婚の話、聞いた?>
<ああ、オヤジが文化祭の慰労会のあとでプロポーズしたらしい>
<慰労会?>
<先生たちが文化祭で働いてくれたPTA役員をねぎらう会さ。オヤジは酒を飲むから橋本のお母さんに車で送迎してもらったそうだ。その車の中でプロポーズしたってさ>
 そういえばと由美は思った。文化祭が終わった週末の夜、PTAの会合があると母は家を出たっけ。先生たちは親を酒で接待したんだ。由美は教職に幻滅を感じた。いや、そんなことはどうでもいい。
<そんな大事なこと今まで私に言わなかったってわけ?>
<いや、お母さんから聞いてると思ったのさ>
 それもそうだと思った。母は私に言うべきかどうか、ためらっていたのだろうか。だが結婚すると決めたからこそ言ったのだろう。
<結婚したら私と高村君はきょうだいになっちゃうけど?>
<橋本がオヤジと養子縁組すればな。苗字も高村になる>
<それってかまわないの?>
<姉ができるのは賛成さ>
<姉?>
<橋本は俺より先に生まれているから。俺は早生まれなんだ>
 そうだ。誕生日をIDにしたと言った。
(じゃ、高村君は私の弟?)
<それより明日一緒に初詣行かないか>
<ごめん、パス。私頭が痛くなってきた >
 由美はLINEをOFFにした。

 ベッドに入った由美は思った。
(養子縁組すれば私に新しいお父さんができるってことだ、弟も)

 入試が終わった。三年生全員合格だった。だが喜んでばかりいられない。すぐ卒業式だ。直前の日曜日一日使って進也の倉庫で練習した。聖奈は由美のギターをベースに見立てて弾いた。

「卒業式の前の日にライブすることは、みんなに報せとけよ」
「わかった、LINEで報せる」
「ドラムやベースアンプも運ばないといけないぞ」
「それは吹部の後輩たちに頼む」

 卒業式の前日の放課後、由美、暁美、聖奈、優里、進也が吹奏楽部室に集まった。吹奏楽部の後輩部員たちもいる。
 由美は後輩たちに言った。
「いい?ドラムセットを講堂のステージまで運んでほしいの。ベースとベースアンプは私たちで運ぶわ」
「川崎、エレキとアンプだ」
 進也は楽器庫からエレキギターとアンプを出した。父に頼んで朝早く軽トラックに積んでもらい学校まで来たのだった。
 講堂は教師たちが式の準備をしていた。壁に紅白の幕をつるしたり、来賓用のテーブルを運んでいた。
「なんだ、おまえらは」
 由美の担任の赤沢将司が叫んだ。進也が言った。
「先生、ゲリラライブです」
「ライブだと?冗談言うな、邪魔だ邪魔。今卒業式の準備中だぞ。周りを見ろ、先生たちが準備しているだろ」
 振り返った赤沢があっと叫んだ。ライブの情報を聞きつけた生徒たちが続々と講堂に入って来たからだ。
「先生、少しだけ時間をお借りします」
 由美が言うと後輩部員たちがドラムをステージに上げた。ギターアンプとベースアンプのプラグをコンセントに入れる。スタンドマイクも二本立てた。由美は進也の横に立った。二人ともアコースティックギターを持っている。文化祭と同じでマイクが音を拾わなくても構わないと由美は思った。進也が生徒たちを見まわした。
「えっと、卒業記念に、俺と橋本で『雨を見たかい』を歌います。文化祭の出演がきっかけで、こうやってバンドが出来ました。やっぱりバンドで音楽ができるって最高です。俺たち行く高校は別々なんだけど、あっ、でも俺と橋本は同じ高校です」
 生徒達から、えーっと声が上がった。進也が由美と同じ進学校に進むことが意外だったようだ。
「俺、勉強は得意じゃなかったんだけど、高校でも橋本と音楽がやりたくて、橋本と同じ高校へ行きたくて、勉強して合格しました。まっそんなことはどうでもいいです」
 進也が由美を横目で見た。由美は頷いた。
「ワン、トゥー、スリー、フォー!」
「雨を見たかい」が始まった。あきれ返った教師たちは用意した椅子に座って聴くしかなかった。

 卒業の日はとても寒かった。三年生たちは授与式の後教室に入り担任から一人ずつ卒業証書を渡された。
「橋本」
 赤沢が呼ぶと由美は返事をして前へ進んだ。
「お前があんなに芸達者だったとは思わなかったよ。歌手になるつもりか?」
「いえ、教師になるつもりです」
「音楽の教師か」
「いえ、国語の教師……」
 赤沢がまじまじと由美を見た。
「お前、俺が国語の教師だと知って言ってるのか?」
「ライバルが増える?」
「ばか!」
 赤沢が叫んだ。クラスの生徒たちが爆笑した。

 アパートに帰ると恵子が声をかけてきた。キッチンの食卓の椅子に向かい合って座った。
 恵子は食卓に紙、ボールペン、印鑑、朱肉を置いた。紙は養子縁組届だった。養父の欄は高村伸司と書かれていた。進也の父の名であることくらいわかる。養女の欄も母の字で橋本由美と書かれている。恵子は伸司との婚姻届けを昨日出したと言った。
「高村さんの養女になるのなら届出人の欄に署名押印しなさい」
「私が決めるの?」
 恵子は黙っていた。由美は、お母さんは卑怯だと思った。自分に相談もせず結婚して、そのくせ養女になるかどうかはこっちで決めろだなんて。高村さんや進也君と一緒に暮らして、私だけ橋本姓でいられるわけがない……
 由美はボールペンを持った。震える字で養女の届出人欄に橋本由美と書いた。印鑑を押した瞬間大声で泣いた。父や弟、新しい家族ができる喜び。橋本姓と別れる悲しさー

 三月の最後の日曜日が吹奏楽部の定期演奏会だった。文化祭で演奏した曲のほか「エルザの大聖堂への行列」、「風になりたい」等を演奏した。「大空と大地の中で」は合唱部も参加し歌った。プログラムの出演者の欄は「橋本由美」で出ている。由美は心の中で、橋本由美さんさようならと言った。進也からLINEが来た。
 <今日の橋本、最高にかっこよかった>
 由美は思った。もう橋本由美じゃない、高村由美よ。あなたのお姉ちゃんよ。

 高校の入学式の日。
 校門を入ると多くの上級生が入部の勧誘をしていた。
「橋本さん!」
 由美の中学校の吹奏楽部の先輩女子が声をかけてきた。
「あなた吹奏楽部入るよね?」
「はい、そのつもりでいるんです」
「じゃあ入学式が終わったら部室においで。ところで、うしろの男子はあなたの彼氏?」
 振り返ると進也が立っていた。
「いえ、彼氏っていうんじゃなくって……弟」
「弟?」
 進也は、にやっと笑った。
「高村由美の弟です。僕も入部します」

 入学式のあと二人は吹奏楽部室に入った。進也は、未経験だがトランペットをやりたいと二年生に言った。窓から桜の木が見えた。由美が言った。
「今度はあの桜の木の下で二重奏するつもり?フルートとトランペットの」
 進也は笑った。
「いや、姉さんのギターと俺のトランぺットさ。ニニ・ロッソの『夜空のトランペット』」
                                      


 

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