幼なじみの脳外科医とお見合いしたら、溺愛が待っていました。
 足早な駅の利用客に追い抜かれた私に、微笑みながら駆け寄ってきたのは綾乃だった。

「昨日ね、織部店長にも例の写真を見せに行こうと思ったんだけど、定休日だったのね」

 前触れなしに会話が始まり、私は一瞬声の出し方を忘れる。

 例の写真を、織部店長に……?

「ど、どうして、そんなことを……」

 声を絞り出すと、綾乃は不思議そうに首を傾げた。

「だって、なかなかあなたから秀一郎さんと離婚したって連絡がこないから。織部店長からも説得してもらおうと思ってね」

 それが当然だと言わんばかりの自信のある態度で、綾乃は続けた。

「こうなったらやっぱり秀一郎さんに直接あの写真を見せたほうがいいかしら」

 挑発するように口角をつり上げる綾乃に対し、私は両手を強く握ってため息を吐く。

「その必要はないよ。秀一郎さんとはもう、別れたから」

 言葉にすると重みがあり、一気に立っていられなくなるほど影響力があった。

 体が暗い影に覆われ、黒い沼に沈んでいくような気分だ。

「え? 別れたの? 本当⁉ やったあ!」

 そんな私とは対照的に、綾乃の表情はみるみるうちに明るくなり、うれしそうに声を弾ませた。

 声だけではなく体までも、軽快に跳びはねそうな勢いだ。

 私は答える気力もなく、うなだれる。

 最初は結婚しろと脅されて、次は離婚しろ……?

 どうして私ばかり、彼女から理不尽な要求を突きつけられなくてはならないのだろう。

 頭は冷静になりながらも、我慢できずに唇を噛みしめる。

 ただ幸せになりたくて、家族がほしかった。

 大好きな秀一郎さんと本物の家族になりたかっただけなのに……。

 綾乃の顔を見ていたくない、早くこの場から立ち去りたいと強く望み、踵を返そうとしたそのとき。

「……愛未!」

 聞き慣れた低い声で名前を呼ばれた。

 けれど空耳かと見限った体は、すぐには動かなかった。

 だって秀一郎さんとは別れたのだ。ここにいるはずなんかない。きっと混雑した駅の雑踏が生み出した幻聴だ。
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