幼なじみの脳外科医とお見合いしたら、溺愛が待っていました。
 そう思いながらも振り返った私は、目の前に現れた人物を見て、夢かと思って目を疑う。

「秀一郎さん……」

 肩で息をし、額には汗が滲むその姿があまりにもリアルだったので、私はようやく我に返った。

 本物だ……。

「ど、どうして?」
「俺は離婚なんてしない」

 呆然とする私の質問を一蹴し、秀一郎さんは離婚届を乱暴に突き返した。
 
 渡されるがまま受け取った私は、握りしめられた皺くちゃの離婚届の熱さに驚いた。

 秀一郎さんは強い眼力で私を見据え、息を整えている。

 それから私と同様、突然の登場に驚きを隠せず、言葉を失っている綾乃の前に立ちはだかった。

「脅迫は今すぐに止めていただきたい」

 毅然とした態度で警告する秀一郎さんに、私はただただ目を見開く。

「脅迫? なんのことですか?」

 一瞬明らかに目を泳がせた綾乃は、飄々ととぼけた。

「脅すのがお得意のようですから、あなたが愛未に迫ったんじゃないですか? 弱みを握って、俺と離婚しろと」
「はあ?」

 すべてを把握しているとも思える秀一郎さんの言葉に、綾乃は半笑いになる。

 その顔つきには焦りが滲んでいるように見え、彼女はそれを隠すためにか両腕を組む傲慢なポーズをとった。

「なんの話です? それ」

 この期に及んでまだ秀一郎さんにかわいく見られたいのか、上目遣いの綾乃は甘えた声で聞く。

 表情を曇らせた秀一郎さんは、この状況が未だ理解できず、不安を抱いて顔を見上げた私の肩を抱いた。 

「きみが最近元気がないのは気づいていた」

 いとおしげに見つめられ、私は息を呑む。

「仕事に忙殺されて、じゅうぶんに気遣えず申し訳ない」

 ここが公衆の面前だというのを忘れ、秀一郎さんの胸に飛び込みたい気持ちを抑えて私は必死に首を振った。

 胸が苦しくて、呼吸もままならない。

< 74 / 83 >

この作品をシェア

pagetop