お相手の一般女性

お相手の一般女性

 高田馬場駅徒歩十五分。一軒家。2DK。二階。一階は大家さん。周りは小さなオフィスビル。日当たり最悪。でも、電車の線路沿いだから本気で歌ったりしても大丈夫。私は歌ったことはないけど。
「私、この部屋出てくことにした」
「引っ越すってこと?どこらへん?もう物件調べたりしてる?」
「物件はこれから。忙しいからまだ決めてないけど、絶対引っ越す。とにかく会社に近いところにするから」
 これは引っ越しの相談ではない。私にとっては別れ話の始まりのつもりだった。
「じゃあ市川周辺?」
「多分」
「わかったぁ。俺も準備しておく」
「いや、引っ越しするのは私だけだから」
 私はキッチンでメイク落としのオイルを手に取って、顔の表面を撫でた。
「え?じゃあ俺どうするの?」
 体をねじってソファーから私を覗き込み、問いかけてくる彼の危機感のなさに、溜息をつきたかったけど、私はファンデーションの上にたくさん付いてるであろう、石膏や金属の削りカスを必死にメイク落としと水でバシャバシャと、ぬめり感が消えるまで洗い流した。
 私は二年目の歯科技工士。まだ二十二歳。結婚に焦るような歳でもないし、憧れてもいない。それでもいつか、コイツと結婚するものだと思ってきた。
十二歳の時、中学校で私と文哉は付き合いだした。地味でオタク。女子で一番目立たない私と、男子で一番物静かだったわりには背も高くて顔も整った彼は、アニメが好きという共通点だけで、驚く程、仲良しになった。
中学入学と同時のあの時、強制的に入れられたクラスのライングループで、私、大島羽根(おおしまはね)と、千代文哉(せんだいふみや)は気が付いてしまった。お互いのアイコンが全く一緒だということに。
気がついた時は無性に恥ずかしくなって、すぐに違うアイコンになるようなものを画像ファイルから探していた。でも、すぐに同じアイコンだった文哉から個人ラインが届いた。
『今季のアニメ何見てる?』
 ラノベがアニメ化した作品の主人公の男の子のイラストを公式がアイコン用に配布した画像を、お互いアイコンにしている。ただそれだけの接点だった。メッセージをやりとりするようになっても、学校で一言もしゃべらない日の方が多かった。でも、それでもいいという距離感をお互い気に入って、すぐに付き合おうってことになった。だから初めてメッセージをもらったあの時から、毎日ラインのラリーが続いる。一日も途切れることなく。今日まで十年間ずっと。
 だから世の恋人たちが『忙しい』を理由で返信が来ないのが不満なら、すぐに別れた方がいいと私は思っている。実際、私と彼は滅茶苦茶忙しい。だけど、返事は出来るのだ。すぐに返事が出来なくても、必ず時間を作って返事をするのだ。トイレにスマホを持って行って、うんこしながらでも返事を送ればいい。
 束縛なんてしなくても、ヤキモチなんか焼かなくても私と彼は上手くやってきたと思う。
 顔をタオルで拭いて、一つにまとめていた髪を解いた。
 就職してから毎日終電。なのに残業代は一円も出ない。週六日働いているのも納得できない。手取りが二十二万円ぽっちなのも頭にくる。それでも、私は歯科技工士になってしまった。別にすぐに辞めてやったっていいくらいには会社が憎い。
けど、私には呪いがかかっている。専門学校で先生たちに何度も言われた『五年は同じところで働かないと、次の技工所は雇ってくれない』と。
そして会社でも呪いの言葉をかけられている。『ココでやっていけないようじゃ、他の技工所では通用しない』と。
この呪いが解けないくらいには、私は歯科技工士という国家資格の職業に誇りを持っていた。歯科医師でもなく歯科衛生士でもなく歯科助手でもなく、完全受注オーダーメードの医療器具である入れ歯を作る自分に酔っているのかもしれない。
「文哉は、もっといいところ住なよ。芸能人が住んでるようなとこ」
「そりゃ、俺だってスタジオ多いところ住みたいなぁとか思うけど、近すぎるのも大変じゃない?身バレも怖いし。あと、お隣が業界の人って気ぃ使うから、いいよ市川で」
 仕事と恋人どっちが大事とか、考える日が来るなんて思ってなかった。別に仕事が大事ってわけじゃない。むしろ文哉のことをとても大切に思ってる。
 でも、私はプロカノジョにはなれない。
 人気声優のカノジョではいられない。
 世間で言う、お相手の一般女性にはなれない。
「別れたい」
「ん?」
「別れよう」
「ん?」
「終わりにしよ」
「ん?」
「恋人やめる」
「誰の?」
「文哉の」
「なんで?」
「ごめん」
 文哉はソファーから立ち上がり、私を後ろから抱きしめてきた。
「ハネちゃんまた痩せた」
「最近忙しいの」
「就職してから毎日言ってるじゃん。いつ忙しくなくなるの?」
「わかんないよ」
「ラーメン作ってあげる」
「深夜にラーメンとか無理」
「じゃあ別れない」
「じゃあ食べる」
「本当?」
「うん」
 ラーメンを食べたら別れられる。
 シャワーを浴びて、髪の毛を一生懸命洗った。髪にも石膏や金属の削りカスがいっぱい溜まっているのだろう。濡れた髪が重くて仕方がない。美容院に行きたい。でも休日は家でゆっくりしたい。予定が合えば文哉の出演するイベントや舞台挨拶にも行きたい。けど、最近は行くのが怖い。
 文哉の顔の缶バッチを三十個くらいバックにつけている子がいる。文哉の好きな緑で全身コーデした、とびっきりお洒落な子もいる。文哉の写真を可愛くリボンやシールでデコレーションしたオリジナルのグッズを作って鞄にぶら下げてる子だっている。
 文哉はそんな女性をファンと呼んでいるけど、私は彼女たちをただのファンとは思えない。恋敵とは言いたくないと思っても、彼女たちが私のことを文哉の恋人だと知ったらどう思うだろう。
「はい、たらこパスタ」
「ラーメンは?」
「だってラーメン食べたら別れるんでしょ?」
「そういう話だったじゃん」
「うん。だから二度と俺ラーメン作んない」
「そういうことじゃないんだって」
 出来ることなら、ふんわりと別れたいと思っていた。急に出て行ったら心配かけるし、急に会わないようにしたら、文哉はきっと会社に来るだろう。ふんわり、やわらかく、そっと壊れかけのモノが机に着地した瞬間に壊れるくらいの力加減で別れたかった。
「いいから食べてよ。お腹が空いてるから変なこと言うんだよ。最近寝れてないでしょ?目覚まし鳴る前に起きてるの、俺気が付いてるからね?それって鬱病一歩手前の症状だからね?食べて寝る。それが出来なくなったら人間終わりだよ?そんな状態でハネちゃん一人暮らしするとか無理でしょ」
 無理じゃない。そう言い返したかったけど、一人になる不安がないわけでもなかった。高校卒業後、新潟から二人で上京して、今までこの部屋でずっと二人で暮らしてきた。
 でも、もう大人になった。私は歯科技工士、彼は飛ぶ鳥を落とす勢いの若手人気声優。
 お互いなりたいものにはなれた。夢は叶っている。だから住む世界が違うのに帰る居場所が一緒なんて変だ。もとからおかしな組み合わせすぎたんだ。
「もう無理だって」
 そう口に出したら、ギターの一番太い弦が切れたような、頭の中で変な音が聞こえるくらい、私の中でキレちゃいけないものが切れた。
「別れたいって言ってるの!」
「嫌だって」
「知らない!」
「じゃあハネちゃんは誰と結婚するの?俺以外と結婚するの?」
 まるで幼稚園児の会話みたい。
「そうだよ!私は普通の一般男性と結婚するの!」
「俺が普通の人間じゃないみたいじゃん!」
「普通じゃない!全然普通じゃない!声優なんて全然普通じゃない!」
「普通だよ!」
「声優になりたい人間がこの国に何万人いると思ってるの?何万人が諦めなくちゃいけない夢のような仕事で成功する普通の人なんていない!」
 ああ、疲れてる。明日も仕事。歯科医院への配達もあるから二時間前には出勤しないといけない。でも早く出勤したってお給料は変わらない。
何も変わらない。私がこの仕事を続ける限り、彼が声優を続ける限り、もう何も変えられない。
「普通じゃないのハネちゃんの方だよ」
「どこがよ!」
「歯科技工士になってから何キロ痩せた?タバコ休憩取る人が羨ましいからってタバコ吸うようになったり、俺が無理やり食わさないと朝飯も食わないし、昼休みがたったの五分とかカップ麺も食う暇ないじゃん。それで夜ご飯も食わないなんて、普通じゃない。今すぐ仕事辞めて来てよ!」
 私が普通じゃないのだってわかってる。でも、コレが普通で日常。こんな私が人気声優の恋人もなんて、このプレッシャーに日々心が擦り切れていく。
 これ以上、今日は話し合うのはやめよう。
 もう壊れそう。
「ごめん。本当に疲れてるみた……い」
 あー。きっと倒れた。一気に色々吐き出したせいだ。
床に体が押し付けられてるみたいに、地球の重力を感じた。
きっとこのまま死ぬ。過労死するくらいなら、別れ話なんてしなくてもよかったのに、最悪。
 別れようって決意したのは、二一連勤してやっと手に入れた二日前の休日の夜。最後にしたセックスの最中だった。
エッチしてる時、文哉がでたBLのCD聴いてるみたいだったのが、嫌だったんだよね。
 文哉はずっと優しかった。傷つけたかったわけじゃない。
でも、一緒に暮らしてたらいつか『人気声優 千代文哉 一般女性と同棲発覚』とかニュースになっちゃう。そうなったら、文哉のファンが傷つく。ファンが納得するようなお嫁さんじゃないと、今度は文哉が攻撃されるかもしれない。
そんなの嫌だって、ちゃんと言えばよかった。
私は、てっきり自分は死んだと思っていたけど、次の日の昼、病院のベッドの上で目が覚めた。だけど意識が朦朧としていて、ベッドの上から動けなかった。
 声も出せなかった。ただ眠くて、疲れていて、それから、寂しかった。
 死んでもよかった。そう思った時、鬱の一歩手前ではなく、踏み込んでしまったと気が付いた。
 そのまた次の日は、新潟から両親が来てくれたし、歯科技工士の専門時代の友達のスズッキーさんも茨城からお見舞いに来てくれて、みんな手を握ってくれたけど、握り返せないほど握力もなかった。申し訳なかったけど、喋ることも謝ることも出来なかった。
 なにより、文哉がお見舞いに来てくれなかったのが寂しかった。
 うまく別れられたのかもしれない。自分から願ったことなのに、寂しくてたまらなかった。
 眠ると、過去のことをいっぱい思い出していた。
 どの思い出も、愛おしく思った。
 文哉はいくつ覚えているだろう。
 微睡の中、私の思考は過去に戻った。まるで走馬灯のようだった。やっぱり死んじゃうのかなって弱気になるくらい。過去が美しいものに思えた。
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