天使魔女
1

 生暖かい強風が、樫材のドアを叩いた。
大手不動産会社、川勝ハウスの専務、恩田大作の妻、里子は樫のドアを力一杯閉めた。手早く施錠し、掛け金まで怠りなく掛けた。里子は更に入念にドアノブを回し、完璧な施錠を確認した。
 勝手口の方も同様に厳重に扉を閉めた。二階建ての各階の窓も、一つ一つ先程から閉めて回った。この家は恩田大作の霧島市の別荘だ。真夏の夜、この別荘に4人の男女が集まった。
 先の二人に加えて、矢張り川勝ハウス社員の照家和夫、塚田陽子が既に二階の一室のマホガニーテーブルに着席していた。
 大作はエアコンのリモコンを操作しながら、テーブルに着いた。続けて里子も、足早に入室し、着席した。
 白いマホガニーテーブルの上には、円状にアルファベットを書いた紙が配置されていた。数字を書いた紙も同じく、置いてあった。そしてyesとnoと書かれた紙片も配置されていた。
 テーブル中央には一個のグラスが逆様に置いてあり、テーブルの周囲に集まった4人が、夫れ夫れ指先をグラスの底に乗せる形になった。
「これから、霊との交信を始めます」
 恩田大作は言った。威厳に満ちた低音だ。
「これで交信は幾度目になるのかな」
「私はこれで三回目の参加です」
 塚田陽子は言った。
「成る程、回を重ねている訳だな」
「今夜はどんな霊を呼び出すんですか」
 照家和夫が訊いた。
「特に決めていない。いつものポルターガイストだろう」 
「貴方、録音を回します?」
 里子が訊いた。
「忘れていた。録音を頼む」
 里子は小型のカセットテープの録音ボタンを押した。録音機は傍らの食器棚の上に置かれていた。里子は再度席に座り、グラスの底に指先を乗せた。
「熱帯夜の今宵……」大作は唱え始めた。「汝を粛々と召喚する。来たまえ、我が友、この部屋に入り込んで来たまえ。我々は皆其方を歓迎する」
 暫く沈黙が支配した。
 重苦しい空気が室内に立ち込めた。
「其処に居るか。居るならば、yesと答えよ」
 グラスは動かない。
「此処に居るか、居るならば、yesと答えよ」 
 突如、テーブルを叩くラップが鳴り響いた。
 里子と陽子は、短い悲鳴を上げた。
「確かに居るな。それでは答えよ」
 グラスがゆっくりと動き始めた。
 グラスは、yesの紙片の上に移動した。
「其方は何者か。名前を答えよ」
 グラスが、アルファベットの方向に滑る。
「誰だ、其方は何者か」
 最初に、Yに止まった。続けて、Hに滑る。更に、Vに。そして、Hに動いた。
「何だと」大作は驚嘆した。「YHVHだと言うのか」
 一同に戦慄が走った。
「ヤーウェーだ。神の御名……」
 照家が言った。
「莫迦な、其方が神である筈はない。唯のポルターガイストだ」
 恩田大作は吐き捨てた。 
 再び、テーブル上のラップが室内に響いた。
「冗談はもう止めろ。貴様の本当の名を教えよ」
 恩田の声は震えていた。
「答えなさい。君は誰なんだ」
 照家は冷静に訊ねた。
 グラスが動き始めた。
 次々とアルファベットに止まり、次へと移動する。一文章を形成した。
 I will kill you.
「何だと……」恩田は絶叫した。「悪ふざけもいい加減にしろ」
 その折り、不意に生暖かい風が室内に吹いた。
 と同時に、何かしら腐敗した臭気が一同の鼻腔を刺激した。
 次の刹那、室内のテーブル脇に、どす黒い影が佇んでいた。
 女達は一斉に悲鳴を挙げた。
 一塊の影の突端が伸び出て、黒の革手袋となった。革手袋の手は、刃渡りの長いナイフを掴んでいた。大型ナイフの刃はギラギラと閃いた。影は高く、ナイフを振り翳した。
「何をする」
 大作は叫んだが、次の言葉は遮られた。
 背後から素速く、頸の後ろにナイフの刃を突き立てられた。大作は口から血反吐を吐いた。
 ナイフは一旦引き抜かれた。次に、直ぐさま恩田の喉を掻き切った。恩田の頭部はテーブル上に倒れた。鮮血が飛沫を上げた。
「貴方……」
 続けて、里子の背中にナイフが突き刺さった。即座に引き抜かれた。骨肉の切れる鈍い音が響く。
 塚田陽子は、絶叫しながら、テーブルを飛び退いた。陽子は窓辺に駆け寄った。窓は厳重に施錠されている。陽子の後方から、正確に肩甲骨の横、心臓の部位にナイフが突き立てられた。
「この化け物……」
 照家は、影の背後から影を羽交い締めにした。
 しかし、影は凄まじい力で、照家を振り払う。
 ナイフが、頭上高く振り翳された。
 照家は逃げる暇がなかった。
 ナイフは、照家の胸部に突き刺さった。鈍く引き抜かれた。鮮血が散った。
 照家は窓辺の床にゆっくりと倒れ臥した。
 その上から、幾度もナイフが突き立てられた。
 室内は正に阿鼻叫喚の地獄と成り変わった。
 ナイフが金属製の音をたてて、床に投げ捨てられた。 
 
     2

 1台の覆面パトカーが、サイレンを鳴らして、霧島市の山荘に向かっていた。ハンドルを握っていたのは、古参の警部補、山形誠二だった。
 既に別荘には、パトカーが数台停車している。
 山形は路肩の一隅に車を停めた。
 事前に得ている情報から、相当厄介な事件であることは分かっていた。4人の男女が同時に、殺害された。
 山形は車を降りた。部下の小角刑事が近寄ってきた。
「警部補、お疲れさまです」
「えらく大変な事件らしいな」
「ええ、4人の同時殺害です」
「凶器は」
「刃渡り30センチのナイフ、これは室内の床に投げ捨てられていました」
 山形は嘆息して、手早く白手袋を着けた。
「特別に異常な状況下だと聞いているが、どういうことだね」
「それが大変なんです」
「と言うと」
「隣の山荘の住人が、多くの悲鳴を聞いて、警察に通報したのですが、巡査達が駆け付けたとき、玄関のドアは施錠されていました」
「裏口は」
「同様です。で、巡査は斧で樫材のドアを破りました。ドアは施錠されていた上に、内側から掛け金まで掛かっていたんです。それに……」
「それに?」
「驚いたことに、この山荘の全ての窓と裏口は鍵が掛かっていました」
「裏口も掛け金か」
「ええ」
 山形は再度嘆息した。
「つまり、密室状況下だった訳か」
 二人は暗澹たる表情で向き合った。
 二人は山荘に入った。
 足早に二階に上がった。
 現場の部屋は、一面血塗れだった。
 4人の遺体は未だ其の侭、各々の苦悶を留めて床に倒れ臥していた。
「こういうことは考えられないか」
「何でしょう」
「4人の裡の一人が3人を刺した後、自殺した」
 小角は首を振った。
「3人は背後から刺されています。もう一人は倒れたところを、上から滅多刺しです。それは考えられません」
「成る程な」
「もう一つ、厄介なことが」
「何かね」
「完全なオカルトなんです」
「オカルト?」
 小角は頷いた。
「被害者の一人、この別荘の主、恩田大作は心霊に凝っていたようです。この部屋も、テーブル上を見る限り、降霊会の最中だったらしい」
「降霊会か」
「いや、違いますね」小角刑事は首を振った。「降霊会というのは、霊媒師が霊を呼び込む会ですかね。此処には霊媒はいない」
「つまり、霊との交信を試みていた訳だな。こういう形の降霊会もある」
「そうなんですね」
 二人はマホガニーテーブル上のアルファベットの紙やグラスを眺めた。 
「ところで、小角君、霊の存在を信じるかね」
「いきなり何ですか。勿論信じませんよ」
「私も信じない。だがな、この種の降霊会では実際にグラスが動くらしい」
「矢張り誰かが動かしているのだと思いますよ」
「ならば、この惨劇は何だ」
「何でしょうね、全く」
「その上、この密室状況をどう説明する」
「呼び出した霊が犯人だとでも仰有るつもりですか」
「あり得ないな」
 山形は傍らの食器棚に視線を転じた。
 棚には、小型のカセットレコーダーが乗っていた。
「あれには、指紋検査はもう済んでいるのか」
「カセットレコーダーですね。先程済ませました」
「そうか」
 山形は白手袋の手で、レコーダーを取った。
「この録音は聴いたのか」
「未だです」
 山形はテープを巻き戻した。暫くして、停止すると、再生ボタンを押した。
 恩田大作らしい声が、霊の召喚を行っていた。
 その次の録音の展開に、二人は息を呑んだ。
 驚くべきことに、事件の一部始終の音声が余すところなく収録されていた。
「ううむ……」
 聴き終わり、山形警部補は唸った。
「どういうことだろう。矢張り霊が殺したとしか、思われないが」
「別荘内に、第三者が潜んでいたことは間違いないですね」
 小角刑事は断定した。
「内側から掛かった鍵はどう説明する」
「旧い扉や窓です。アルミサッシではない」
「だから?」
「隙間がある筈です。外側から、糸と針でも使って、掛け金を掛けたかもしれない」
「そうなると、まるで大正時代の探偵小説だな」
「そうですね、正にクラシックとすると、秘密の脱出経路がないとは限りません」
「建設会社を調べねばならんな。この別荘の設計図が必要だ」
「そうですね」
 山形警部補はテープを再度巻き戻した。
「この霊らしきものは、神を名乗ったらしい」
「全く恐れ多い。此処の人々は皆、オカルトに堕落している」
「全く、厄介な事件だな」


     3
 
 酷暑の午後、街路樹に蝉時雨が染み渡る頃、鹿児島大学郡元キャンパス正門前。講義が終わって、多数の学生達が正門から出て来た。
 学生達は皆明るい。丁度法文学部の教養、文化人類学の講義が終わって、少数民族に関心の高い学生達が出て来るところだった。
 照家梢は、恋人の酒井康彦と連れ立って歩いていた。梢と酒井は恋愛成就しそうで、その実中々上手くいかない微妙な時期にあった。
「酒井さん、今の呪術の講義、どう思った?」
 梢が訊ねた。
「呪術か、そういうオカルトも、現実に存在するんだね」
「ええ、例えば攻撃したい相手の直ぐ傍に、非常に相手と良く似た人物を配置するとか」
「嗚呼、そういう呪術があったね」
「自分と酷似した人物が直ぐ隣に居るから、相手は心理的に弱体化してゆく」
「全く、恐ろしい話だね」
「酒井さん、今度の連休に……」梢は誘いを掛けた。「奄美にフィールドワークに行きません?」
「フィールドワーク、奄美のユタのことかな」
「ええ、小早川教授に連絡を付けて貰って、奄美のシャーマニズムについて勉強してくるの」
「それも楽しいかもしれないな、ユタに霊を呼び出して貰ったりして」
「実はね、私の父も降霊会に凝っているんです」
「降霊会、本当に」
「本当です。昨晩も、会社の上司の恩田大作という方、主催の降霊会に参加してたのよ」
「そうなんだ」
 その折り、後方から、軽の乗用車が停車した。
 車には、二人の同級生の八田そら、と島本久美が乗っていた。
「酒井さん、車に乗っていかない?」運転席の八田が呼びかけた。「自宅マンションまで送りますわよ」
「酒井さん、一緒に行きましょうよ」
 島本久美も助手席から呼びかけた。
「いや、照家さんと一緒に帰るところなんだけど」
「そんな人と付き合わないで」八田は意地悪く言った。
「そんな気味の悪い人と付き合わないで」
 島本も梢を罵った。
「酒井さん……」八田が言った。「キャンドルマスのコピーバンド、キャンドルミサの自主製作CDをお貸ししますわ」
「えっ、それは有難いな」
「でしょ?だから早く乗って」
「梢さん、今度、キャンドルミサのライブに行くんだ。誠に済まないけど……」
「そんな、酒井さん」
「ごめんなさい、梢さん」
 酒井は、後部座席に乗り込んだ。
「さよなら、照家さん」
 八田が冷たく言い放ち、車はスタートした。
 独り取り残された梢は、暗い表情で帰路に着いた。
 八田と島本には毎度ながら頭に来る。しかし、何一つ言い返せない梢なのだった。
 梢は独り、郡元の歩道を、付属小学校の方向に歩いて行った。
 その時、後方から1台のパトカーが来た。
 驚いたことに、パトカーは梢の横で止まった。
 制服警官が降りて来た。
「失礼致します。照家梢さんですね」
「はい……」
 梢は振り向いた。
「梢さん、携帯が故障しているんですね」
「そうなんです、昨夜から」
「中々連絡が付かなかった。昨晩は?」
「友達の家に外泊しました」
「そのせいですね。私共は連絡が取れなかった」
「一体どうしたんですの?」
「どうしたって、ニュースをご覧になってはいないんですか」
「はい、テレビは観ないので」
「そうですか、誠にお気の毒ながら、お父様が亡くなられました」
「何ですって」
 梢は、顔色を失い、狼狽した。
「何か事故ですの?」
「いいえ、殺人事件です」
「そんな、まさか……」
「事実なんです。遺体確認もして頂きたいので、ご同行願えますか」
「はい」
 梢を乗せたパトカーは陽炎の中、発進した。


     4
 二中通り近くの高層マンション。
 夕暮れが辺りを真紅に覆い尽くした。
 このマンションの17階の一室は、八田そら、と島本久美が二人で借りている。
 灼熱の西日が窓から差し込んでいた。
「久美、キャンドルマスのCDを掛けて」
 そら、が言った。
「分かったわ。貴方もキャンドルミサのライブ、観に行くの」
「勿論よ。何と言っても、酒井さんに誘われたんですもの」
「酒井さん、酒井さんって、煩いわね」
 久美はCDを再生した。
 途端に、well of soulsが始まった。
 キャンドルマスの重苦しいドゥームメタルが、室内を満たした。
「そら、私達はバイセクシャルよね」
「今更何よ、当然だわ」
「当然だわよね」
「ええ」
「だったら、男性ばかりを追いかけること、しないわよね」
「分からないわ」
「何よ、それ」
「酒井さんは魅力的な人だから」
「酒井さんには、梢という恋人がいるじゃない?」
「だから、悔しいのよ」
「悔しいって、私達の仲はどうなるの」
「どうにもならない」
「何故?」
「煩いわね、バイセクシャルだからよ」
 そらと久美は接吻した。
 キャンドルマスの音楽は、黒魔術の表現らしかった。恋人同士の女二人の中枢神経を刺激した。
 しかし、他にもう一人、刺激を受けた人物が、室内に存在した。
 キャンドルマスの闇を引き摺る音楽に完璧に陶酔する人物が、成りを潜めていたのだった。
 狂おしく抱擁、接吻する、若い二人の女性の背後から、黒い革手袋の手が伸び出た。
 愛の行為に没頭する二人は、全く気付かなかった。
 革手袋の手は、刃渡りの長いナイフを掴んでいた。
 ナイフが、接吻する二人の頸に刺さった。そらの頸を貫通して、久美の喉まで、刃が突き刺さった。二人の合わさった唇から、どす黒い血液が漏れ零れた。
 ナイフが素速く引き抜かれた。
 二人の女は宛もスローモーションで、床に倒れ臥した。その上部から、革手袋の手は、ナイフを幾度も突き下ろした。
 鮮血が床面に溢れた。
 

     5

父の遺体確認を涙の裡に終えた、照家梢は、タクシーで帰路に着いた。
 今後どうすれば良いのか、梢は懸命に考えた。
 警察に事件の捜査を任せておいて、大丈夫だとは思えなかった。事情を聞くと、密室状況等、捜査困難な状況が目白押しの様子だ。
 と言って、女独りの身で単身調査も出来るとは思えなかった。
 不意に、梢は思い出した。
 彼女の幼少期から照家家と付き合いの深い知人、宮里満治の存在を。
 長い間、宮里には逢っていない。彼はもう80を越している筈だが、未だ健在なのだろうか。
 タクシーを宮里の自宅の上町に回した。
 どうした訳か、昨夜から携帯が故障していた。
 連絡が事前に取れないことが悔しかった。
 宮里は在宅だろうか。

 もう忘れかけた道のり、宮里の自宅前で、タクシーを降りた。
 玄関のブザーを押した。
 幸い、直ぐに、年老いた宮里満治が、玄関先に現れた。
「梢さんじゃないか。随分久しぶりだな」
「宮里さん……」
 梢は堪えきれず、泣き崩れた。
「梢さん、事情は分かっている。中に入りなさい」
 応接室に通された。宮里は珈琲を淹れてくれた。
「梢さん、泣くのはおよし。貴女は本当は強い女性だ。私は知っているんだ。全ての事情をね」
「全ての事情?」
「嗚呼、私に全て任せたまえ。君の本当の力を開眼させてあげよう」
 梢は、不思議そうに宮里を見詰めた。
「私の本当の力とは、どういう意味ですか」
「意味か。それを教えてあげよう」
「どんなことですか」
「ちょっと待ちたまえ」
 老人は一枚の紙を持ってきた。紙片には何か図が記されていた。
「これは何ですの」
「カバラの生命の樹だ」
「カバラ……」
「これは、西洋魔術にとって重要なものだ」
「これが、私と関係があるんですか」
「大有りなんだよ。この一番上の円を見てご覧」
「これは樹なんですか」
「そうだ」
「一番上は、Ⅰ、ケテル、王冠」
 宮里は頷いた。
「樹の一番上を何と呼ぶかね」
「梢……」
「ケテルのアナグラムは何だろう?」
「テルケ、詰まり、照家ですか。まさか」
「分かっただろう。この一番上の頂点は、神の自意識を意味する」
「私がケテルなんですか」
「そうだ、即ち、梢、君は本当は魔女なんだ」
 梢は驚愕した。
「私が魔女ですって」
「そうだ、君は本来、魔女として生まれ、育てられた」
「信じられません」
「そうかね。では君の亡くなられた母親の名前は?」
「翡翠」 
「お母さんの旧姓は何だった?」
「風地、風地翡翠」
「錬金術の四元素は、風地火水。つまり、お母さんも魔女なんだ」
 梢は宮里に向き直った。
「私はどうすれば良いんですか」
「翡翠と戦うんだ」
「お母さんが犯人なんですか。何故お父様を殺したの」
「被害妄想からの逆恨みだろう」
「戦うって、私にはそんな力は」
「あるさ。君も魔女だ。地獄から甦った翡翠は、どうやら血に飢えているらしいが」
「私は戦えるんですか」
「嗚呼、さあ、カバラ十字を……」
 梢は教えられもしないのに、独りで光を集めた。
「アテー……」


    6

 歓楽街天文館の奥、山之口町の奥深くに、ライブハウス、スピードキングはある。塔のような円柱の建物は周囲の眼を引いた。
 今夜はキャンドルマスのコピーバンド、キャンドルミサが出演する。
 観客は皆、コロナ禍をもものともしない猛者ばかりだ。会場の熱気はかなりのものだった。
 元のバンド、キャンドルマスはブラックサバスを相当に意識した黒魔術バンドだが、キャンドルミサも同様に、本物の西洋魔術を嗜好している。
 ステージ上には、幾本も蝋燭が設えられる。
 銀の燭台も無気味さを演出する。
 その音楽は低音弦の重苦しいギターリフ主体に、オペラティックなヴォーカルが載るスタイル。
 酒井康彦は、電車で新屋敷を降りて、徒歩でスピードキングへ向かった。女友達を誘っていたが、驚いたことに、二人とも殺人事件の被害者となった。
 酒井は独り、スピードキングに着いた。
 エレベーターに乗り込んだ。満員で、何回かに分けて観客を運ぶ。
 薄暗いライブハウス内は、ステージ上のライトが強烈に視覚を捉えた。
 立ち見の会場は、ほぼ満員。
 皆、ジーンズに黒tシャツ、そうでなければレザーを身に纏っている。
 開演時刻となった。
 五臓六腑に響くギターサウンド。
 ドラムとベースが時間軸を刻んだ。
 殊にベースは床を振動させた。
 ヴォーカルの絶叫は耳を劈く。

 その折り、観客同様に音楽に心酔している風の、黒い影がスタンディングの端に出現した。
 革手袋の手は大型の機具を掴んでいた。
 それはチェーンソーだった。
 チェーンソーが唸りを挙げて、動き出した。
 影は、観客に向かって、チェーンソーを振り上げた。
 観客の胴体を次々切断した。逃げ惑う観客。
 大量の血飛沫が噴出した。
 男女の生首が、手脚が、床面に転がった。
 血で血を洗う惨劇。
 躰中に大きくタトゥーを入れた男が、拳銃を取り出して、影に向けて撃った。
 影は甲高い哄笑を挙げた。
 男は続いて数発撃ったが、哄笑は止まらない。
 酒井は、大慌てで、スタンディング会場の外へ逃走していた。


     7

 真夏の宵闇、梢は特に理由もなく、ドルフィンポートを訪れた。理由は欠落していたが、彼女には確信はあった。
 暗い夜の海が、墨のような波を立てている。
 梢は、海の前に佇み、一心に精神統一を図った。
 望むものを脳内で、凝結出来れば、それは現実に形態を伴って、眼前に顕現する筈だ。
 イメージを現実化する一種の魔術。
 梢は、母親の姿を念じ続ける。
 影は確かに現れる筈だ。
 梢にはその確信はあった。
 精神力も全身の体力も甚だしく消耗した。
 梢は、念じ続ける。

 不意に、瞳を開くと、夜の海の前に、影が姿を現した。
 影は、黒い塊から、次第に人間の形に転じた。
「お母様……」
 梢は、影に向けて語りかけた。
 影は、沈黙を続ける。
「お母様……」
 影は漸く、母親の姿に変わった。
「梢……」
「お母様、何故あんな恐ろしいことばかりなさるの」
「恐ろしくはない」
「でも、お父様を殺した」
「分かるか、梢」
「何を?」
「人間は代々私達を迫害してきた。本当に恐ろしいことを為しているのは人間の方だ」
 梢は頸を傾げた。
「どういうこと?」
「これを観るがいい」
 夜の海の前に、突如透明のスクリーンが現れた。
 スクリーンは、あからさまな戦場の様子を映し出した。
「これは何処」
「ウクライナのドネツク州の現在の様子」
「ウクライナ?」
 激しい戦闘で、両軍の兵士達が次々と倒れてゆく。
 彼方此方で、鮮血が跋扈し、見る間に死体の山が築かれた。

「どう?梢。もっと現実を観なさい」
 血塗れの戦闘場面を見ながら、梢はいつか涙していた。
「どう、梢。これが本当の人間の姿。決して他人事ではないのだよ。日本も経済的に参戦しているから。私達が何人殺しても到底追い付かない。何万という人が殺されている」
「お母様、だからと言って、殺人を正当化出来ないわ」
「正当化はしない。人間というものが、如何に恐ろしいかを知って貰いたい」
「人間には愛がある」
「愛というのは、人殺しの為の理由付けでしかない」
「そんな」
「梢、良く現実を観なさい。貴女にも理解出来る筈よ。人間は、心底忌まわしいもの」
「違うわ」
「違わない。貴女にも分かる。魔女なのだから」
「詰まり……神の冒瀆が私達の務めとでも言うつもり?」
「そうよ、私達は現実の使者」
「止めて、お母様、魔女の囁きだわ」
「現実を直視するべきよ」
「止めて、お母様、早く消えて。地獄に戻って」
「梢……」
「地獄に戻って」

 矢庭に影は消失した。
 あとには暗い海だけが残された。


 朝日を浴びる五階建てのマンション。
 秋の冷気を含み始めた陽光は黄金色に光輝に満ちていた。

 寝室のベッドの上で、梢は目覚めた。
 長い、重苦しい戦争の夢を見ていた。

 梢はベッドサイドに佇んだ。
 そして梢は囁いた。

「……私は魔女。私は人を呪い殺す」
 

 
 
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