幼なじみだった、婚約者の騎士を奪われました。

「わぁっ、きれいね」
「フェデリカが好きだと思って、遠征の帰りに買ったんだ」
「ありがとう、アシュガイル! 大切にするわ」

 白に近い銀髪をした逞しい青年から、少しくすんだ色の花びらがついたリースを受け取った金髪の娘は、蕾が花開くように微笑む。
 小枝を円になるように形を整え、ドライ加工した紫陽花で飾り付けしたリースは、王都に暮らす令嬢たちの間で流行していた。娘は紫陽花の花びらが潰れないように、そっと胸に抱く。

 娘の名はフェデリカ。彼女は子爵家の跡取り娘で、目の前にいる体格の良い青年アシュガイルと婚約していた。二人は母親同士が仲がよく、その縁で出逢った。二人は赤ん坊の頃からの幼なじみ。互いの屋敷も近く、ある程度の年齢になるまでは何をするのにも一緒だった。

 アシュガイルは王城に勤める騎士。もの静かで人当たりがよく、主に高位貴族や王族の護衛を務める彼の評判は良かった。二人は似合いのカップルとして社交界でも周知されていて、周りは二人のなりゆきを微笑ましく見守っていたのだが。

 ある日、事件は起こった。

 ◆

 その日、フェデリカが家令に呼ばれて執務室へ行くと、そこには泣き崩れる母と、難しい顔をした父がいた。
 フェデリカは即座に我が家に何かよくないことが起こったのだと悟った。事業が失敗したのだろうか、それとも、最近体調を崩している父に新たな病気が見つかったのだろうか。
 彼女の頭の中に悪い考えがいくつもよぎる。

 しかし、この家に起こった不幸はどれでもなかった。

「婚約破棄……?」
「ああ、フェーン家から正式に申し出があった。賠償金は払うと言われたが……」

 フェデリカの父は額に手を当てる。
 フェーン家はアシュガイルの実家。フェデリカの母は親友に裏切られたと言って泣いている。

「どういうことですの? お父様」
「アシュガイルに我が家よりも良縁(よいはなし)が来たのだ」
「ひどいわ、フェデリカをなんだと思っているの!」

 アシュガイルに侯爵家から縁談が届いたのだ。相手はイナシオ侯爵家の三女ミスリン。ずっと病弱で社交の場には出ていなかったが、病院への通院時にアシュガイルに護衛を頼んだことで縁が出来た。ミスリンは自分を優しく守ってくれる頼もしい騎士アシュガイルに恋をしたという。

 フェデリカは両親の声が遠くなるのを感じ、慌てて首を振った。ここで自分が倒れては、より一層両親の悲嘆が大きくなってしまう。フェデリカは奥歯を噛み締める。

「……仕方がありませんわ」
「フェデリカ」
「男性はアシュガイルだけではないもの。私は他の方と結婚します」

 フェデリカは気丈にも微笑む。彼女はこの家の跡取り娘であった。
 フェデリカの胸にはもちろん嵐が吹いていたし、本音を言えばアシュガイル以外の男性と結婚するなど、今はまったく考えられない。しかし、ここで自分が嘆き悲しんでもどうしようもない。アシュガイルの実家フェーン家からは、正式に婚約破棄の申し出が届いているのだという。これはもう覆らない。

「フェデリカの言うとおりだ。男はアシュガイルだけではない」
「ええ、そうね。今度こそフェデリカや我が家を大切にしてくれる人を見つけましょう」

 娘の気丈な様に感化された両親の目に力が灯る。
 フェデリカはホッとしつつも、別の悲しみが胸に広がる。これでもう自分は両親の前で弱音を吐けないのだと、そう思い込んでしまったのだ。

 ◆

 フェデリカは子爵家の一人娘。跡取り娘である彼女の元には、すぐに次の婿候補がやってきた。両親が選んだ男は、フェデリカが百も知っている男だった。

「フェデリカ、大変だったなぁ……」

 相手の名はオサスナ・ラルンバルト。彼もまたフェデリカの幼なじみで、オサスナの父親とフェデリカの父親は同じ士官学校に通っていたことで親しくなった。オサスナもアシュガイルと同じ騎士であった。

 オサスナは軽く後ろでまとめただけの黒髪をぼりぼりかくと、形のよい眉尻を下げる。すでに事情はあらかた知っているらしい。いつもはおちゃらけている彼の表情は固かった。

「仕方がないわ。アシュガイルの元には侯爵家から縁談が来たのだもの。高位の貴族家には逆らえないわ」
「そうは言っても酷い話だぜ。人ん家の跡取り候補を横から奪うなんざ、高位貴族のやることじゃねえと思うけどな」
「オサスナ、口が悪いわよ」
「良いじゃねえか。二人きりだしよ」

 二人は万年咲きの薔薇が咲き誇る、中庭の東屋にいた。フェデリカはベンチに腰掛けながら首を巡らせるが、確かに周囲には誰もいない。
 オサスナはしきりに周りを気にする彼女に配慮したのか、少し声量を下げる。

「……件のお嬢様は侯爵令嬢と言っても三女だ。スキャンダルがあれば、フェーン家も簡単に縁を切ると思うぞ? 俺がミスリンお嬢様に近づいて、アシュガイルとの結婚を破談に……」
「アシュガイルとミスリン様との結婚話が破談になっても、私とアシュガイルの関係が元通りになるわけじゃないわ」
「元通りとか、そんなの関係ねえ。アシュガイルを横取りされて腹が立たねえのかよ。復讐してやろうぜ」
「嫌よ。私はもうアシュガイルのことは考えたくないの。それにオサスナに手を汚させるなんて……」
「わあったよ。ったく、フェデリカは相変わらず真面目だなぁ」

 オサスナは自分の首の後ろに手をやると、背をうんと仰け反らせる。フェデリカは口が悪いオサスナを睨んでいたが、彼が黙ったのを見て、眉間に寄せていた力を緩めた。

「オサスナ、……ありがとう」
「何で礼なんか言うんだよ?」
「なんか、あなたが怒っているのを見てスッキリしたから」
「ふ~~ん」

 フェデリカとオサスナは、アシュガイルと同じく赤ん坊の頃から付き合いがあった。フェデリカとオサスナはずっと友人同士だった。オサスナが士官学校へ入ってからは会う頻度は減っていたが、それでもフェデリカにとってオサスナは、気の置けない数少ない異性の友人だった。そんな、オサスナと結婚。
 フェデリカはまだアシュガイルのことは忘れていないものの、オサスナとなら良い家族になれるのではないかと考えていた。同時に、自分たちの婚約破棄騒動にオサスナを巻き込んでしまったことを申し訳なく思った。

「ごめんなさい、オサスナ」
「何で謝るんだよ?」
「私たちの騒動に巻き込んでしまって」
「ぜーんぜん! むしろ巻き込まれてラッキーだ。なにせ俺は将来、子爵家の御当主様になれるんだからな。一代限りの男爵家の倅が得るには、デカすぎる幸運だぜ」

 オサスナは美しく並んだ歯をニッと見せて笑う。彼の笑顔にフェデリカは胸の奥が軽くなるのを感じた。すぐには難しいかもしれないが、いつかはこの青年を男性として愛する日が来るかもしれない。今でも、友人としては好きだ。オサスナは口は悪いが、根は良い人間だからだ。

 二人の結婚式は、アシュガイルとの式を予定していた日にそのまま執り行う事となった。オサスナは完全にアシュガイルの代打だった。

「ねえ、オサスナはいいの?」
「何が?」
「私と結婚しても」

 オサスナはモテる。すらりと背が高く、顔立ちが良い彼は常に王都の若い女の子たちの話題の中心だ。オサスナは黙っていれば癖のない黒い髪に切れ長の目が印象的な涼やかな美形なのだが、口を開けば飾り気のない事ばかり話すので、そのギャップについては賛否が分かれているが。それでも、人気のあるオサスナには恋人がいたのではないかと、フェデリカは心配していた。
 フェデリカの問いかけに、逆にオサスナは問い返す。その顔は真剣だった。

「フェデリカこそ、俺なんかでいいのか?」
「ええ。あなたは良い人だし、機転もきくわ。あなたが私の夫となってこの領を治めてくれるのなら、百人力よ」
「いやいや、俺には悪評が流れているぞ?『来るもの拒まずの百人斬りのオサスナ』……って聞いたことがないか?」
「聞いたことはあるけど、さすがに百人と付き合ってはいないと思うわ。だってあなたは真面目に働いているから、そんな暇ないでしょう?」

 フェデリカの言葉に、オサスナは切れ長の目を見開く。フェデリカはオサスナの反応に首を傾げる。自分は何か間違ったことを言っただろうか。
 オサスナは確かに口は悪いし、騎士の割には不真面目な身なりもしているが、戦果的にはアシュガイル以上にあげているし、勤務成績が良いこともフェデリカは知っている。元婚約者が騎士だったことで、彼女は騎士の事情にはそれなりに詳しかった。

 オサスナは目尻の下を赤く染めると、指先で頬をかいた。

「フェデリカ……。俺、真面目になるから」
「もう充分オサスナは真面目じゃない」
「……フェデリカ、俺がんばる」
「もう充分頑張っているわよ」

 今度は背を丸め、涙声になっているオサスナの広い背をフェデリカはよしよしと撫でる。なぜ急にオサスナが感極まっているのか、フェデリカには分からない。フェデリカはオサスナのことを赤ん坊の頃から知っている。彼の良いところも悪いところも、多少は理解しているつもりだ。

「フェデリカ、俺は繰り上げでもお前の婚約者になれて嬉しいぜ。……今まで言えなかったけど、ずっとお前のことが好きだったからな」

 いつになく真剣なオサスナの目。フェデリカは胸がどきりとしたが、オサスナの視線はすぐに外される。彼の頬は見たことがないぐらい真っ赤だった。

「ああ俺、何言ってんだろ。急にそんなことを言われても困るよな……」
「ううん、嬉しいわ」

 オサスナのような少し口は悪いが、根は優しい男性に好意があると言われて、心がまったく浮かれないと言ったら嘘になる。
 今までは一生アシュガイル一筋だと思い込んでいたが、存外そうではないのかもしれない。フェデリカはアシュガイルと婚約破棄になり、己が思っていたよりもずっと早く気持ちが切り替わりつつあることに驚いていた。
 胸に湧くのは、簡単に気持ちが移ろいつつある自分への嫌悪感。そして、オサスナに対する感謝の気持ち。

「私、オサスナのこと、好きになれると思うわ」
「おう。十年でも二十年でも待ってるぜ」
「そんなに待たなくても大丈夫よ、……たぶん」

 お互い、顔を見合わせて軽く笑い合う。
 フェデリカはこの日、アシュガイルと婚約破棄して以来、はじめて笑った。

 ◆

 フェデリカと婚約を結んだオサスナであったが、彼にはどうしても納得がいかないことがあった。アシュガイルはなぜ、フェデリカと婚約破棄をし、侯爵令嬢ミスリンを選んだのか? という点だ。
 もちろん、高位の貴族家からの縁談が断りにくいのは分かるが、アシュガイルの実家フェーン家は中堅以上の伯爵家だ。フェデリカという婚約者がすでにいるからと、断る力ぐらいはあったはずだ。

 それにミスリンは高位貴族の娘と言っても、三女。継ぐ家は無いのでアシュガイルはずっと騎士を続けなくてはいけない。アシュガイルは常々言っていたのだ。騎士を辞めたいと。
 フェデリカを選んでいれば、少なくとも騎士は辞められた。フェデリカは子爵家の跡取り娘だからだ。

 ──騎士を続けても良いと思えるほど、アシュガイルはミスリンに惚れたのか?

 ありえない話ではない。オサスナはミスリン本人の顔は見たことがないが、ミスリンの姉二人の顔は何度か見かけたことがある。良家の令嬢らしく気品があり、美しい娘だった。その妹であるミスリンも美人である可能性は高い。アシュガイルがフェデリカからミスリンへ心変わりした可能性はあるだろう。

 アシュガイルに直接聞いてみるか、とオサスナは顔を上げる。彼の返答次第では一発殴ってやろうと思う。フェデリカは手痛い失恋をしたというのに、跡取り娘なので家で泣くことも落ち込むことも出来ないのだ。フェデリカの心中を思うとオサスナは腑が煮えくりかえりそうになった。

 ◆

「──よう、アシュガイル」

 アシュガイルは隣の部隊の詰所、その裏手に一人でいた。
 いつもは鼻につくほどの爽やかな笑顔を浮かべている腐れ縁は、高位貴族との結婚が決まったとは思えないほど沈んだ顔をしていた。
 今は休憩中なのか、アシュガイルは木箱の上に腰掛けている。

「ああ、オサスナか……」
「どうしたんだよ、ミスリン様との結婚が決まったんだろ? もっと浮かれた顔をしろよ」

 嫌味が含まれたオサスナの言葉に、アシュガイルは明らかに苦い顔をする。その様子にオサスナは、アシュガイルはミスリンと無理やり婚約させられたのだろうかと思った。

 アシュガイルはきょろきょろと首を巡らせる。

「どうも、ミスリン様との結婚に納得がいって無さそうだな」
「おい、誰にも言うなよ」
「何があった、アシュガイル」
「ミスリン様にハメられたんだ……」

 そう言うと、アシュガイルは大きな手で自身の顔を覆う。
 オサスナは、木箱に座り背を曲げるアシュガイルの前へ行くと、片膝をつく。

「どういうことだ?」
「私はミスリン様の通院時の護衛を何回か頼まれていたんだ。ある日の病院の帰り、ミスリン様は急に具合が悪いと言い出した。私は病院まで戻ろうと提案したのだが、ミスリン様は横になっていれば治るからと、宿へ行こうと……」
「ヤッたのか?」
「ああ……」

 オサスナのあけすけ過ぎる問いに、アシュガイルは気まずそうに頷く。オサスナはあっさり婚約中の不貞を認める腐れ縁に眉根を寄せる。

 アシュガイルはもの静かでおとなしい青年だが、その分、押しに弱いところがある。今まで何回か、護衛した令嬢とねんごろになってしまったことは、オサスナも知っている。騎士は女性達から人気のある職業で、しかも若い男が多い。婚約者がいても浮気をしてしまう騎士はかなりいた。

「ミスリン様とは何回、どこでヤッた?」
「十回程だ。昼間から経営している宿や、彼女の部屋のベッドで何回か……」
「そんなにか……」

 若い男と女だ。一回ぐらいはそういうことがあってもとオサスナは思ったが、まさか十回とは。これは紛れもない浮気だ。よくもミスリンにハメられたと言えたものだ。いくら高位貴族の娘に迫られたとはいえ、断る口実などいくらでもある。
 事実、オサスナも護衛中の令嬢から迫られたことは一度や二度ではない。根は真面目なオサスナはすべて断ってきたが。

 突き刺すようなオサスナの視線に気がついたのか、アシュガイルは慌てて言い訳を口にする。しかしその言い訳はオサスナにとってもっとも聞きたくない類のものだった。

「フェデリカは結婚までキス以上のことはしたくないと言うし、そのキスも舌を入れようとすると怒る。ミスリン様はなんでも許してくださったから、つい……」

 しきりに青い瞳を揺らすアシュガイルに、オサスナの怒りは一周回って落ち着いてしまった。人間、腹が立ちすぎると逆に冷静になるとはよく言ったものだ。

 オサスナはすっくと立ち上がり、拳を握ると、アシュガイルの頬骨へ向かってそれを思いっきり振り下ろした。
 ガッッと鈍い音が響く。

 オサスナは埃っぽい地面に唾を吐き捨てると、地を這うような声を出す。

「……よくもミスリン様にハメられたと言えたものだな。お前が性欲に負けただけじゃねえか」
「ち、ちがう……!」
「一体何が違うと言うんだ? ミスリン様と十回もヤッておいて。フェデリカの事情も理解してやらねぇで……よくもそんなことが!」
「フェデリカの事情? 私は赤ん坊の頃からの幼なじみで、婚約者だったのだぞ? それなのにキス以上のことを許して貰えなかった。私にだって男の欲がある! 他の女性から誘われれば、抗いきれないのは当然だ!」

 オサスナはもう一度アシュガイルの頬に鉄拳を振り下ろした。またガッッと鈍い音がし、アシュガイルの鼻の穴からは赤いものが一筋垂れ流れる。
 オサスナはアシュガイルを立ち上がらせると、彼の詰襟を引っ掴んだ。

「フェデリカは子爵家の跡取り娘だぞ? もしも婚前交渉して、ガキが出来て、相手から結婚前に逃げられたらどうする? 跡取りに出来ねえ婚外子を抱えて次の結婚相手も見つからず、家が取り潰しになる可能性だってあるんだぞ。婚前交渉出来ねえのは当たり前じゃねえか!」
「さすがにフェデリカに子どもが出来たら、私だってちゃんとした!」
「どうだかな? 実際お前は結婚式まで後三ヶ月のところでフェデリカを裏切った。フェデリカだって、お前がちょいちょい浮気していたのを知っていたと思うぞ? だからお前に身体を許さなかったんだよ」
「私は口が固い令嬢としかそういうことはしていない。社交界にも私の不貞の噂は流れていないはずだ。フェデリカが知るものか」
「ミスリン様も、社交界に出ていないお茶会相手すらいない女だから手出ししたんだろ? お前は。……まったくお前はとんだ真面目系クズだよ」

 オサスナはアシュガイルの首を乱暴に離すと、今度は彼の腰に横から思いっきり回し蹴りを入れた。アシュガイルは情けない悲鳴をあげると、埃っぽい地面の上に倒れこむ。

 オサスナは砂塗れになったアシュガイルを見下ろすと、こう吐き捨てた。

「もう二度とフェデリカの前に現れるな」

 ◆

 結局、アシュガイルを殴りつけただけで終わってしまった。帰路についていたオサスナは一人、ため息をはく。

 アシュガイルはミスリンと不貞は犯したが、あの様子だと彼女と結婚するつもりは無かったのだろう。いつも通り護衛対象の令嬢と数回遊んでそれで終わりにするつもりだったと思われる。しかしミスリンはアシュガイルに本気で、彼女は高位貴族である実家に泣きついて、その権力を使い、アシュガイルとなんとか結婚しようとした。……真相はそんなところだろうか。

 ミスリンにも何か痛い目に遭わせてやりたいが、彼女が無理やりアシュガイルと結婚しようとしなければ、アシュガイルのここまでのクズっぷりは露呈しなかった。不本意だがミスリンは不問にしようと思ったところで、ハッとしたオサスナは首を横に振る。

「俺も同罪か……」

 オサスナはアシュガイルが令嬢からの誘いを断り切れず、たびたび不貞を犯していたことを人伝てに聞き、知っていたが、見て見ぬふりをしていた。フェデリカの悲しむ顔を見たくなかったからだ。それに貴族家の婿になれるような男はモテる。この国では、浮気をしないスペックの高い男は極めて少数派だろう。

 アシュガイルは人気のある騎士だ。たまにゆきずりの令嬢と浮気をするのは仕方ない。だからフェデリカには黙っていよう──そうオサスナは考えていた。しかしこの考えは本当にフェデリカのことを思いやっていただろうか?

 オサスナがアシュガイルの最初の浮気を知った段階でフェデリカに報告し、フェデリカからアシュガイルへ浮気を止めるようにキツく言っていたら、もしかしたら今回の婚約破棄はなかったのではないか。

「俺、最低だな……」

 一人きりの通りに、オサスナの独り言が響く。

 ◆

「ねえ、オサスナ。アシュガイルと喧嘩したって噂、本当なの?」

 次の非番の日、オサスナがフェデリカの元へ行くと、彼女はすでにオサスナがアシュガイルへ暴行を加えたことを知っていた。
 アシュガイルにも男のプライドがある。顔に大きな怪我を負ったが、同期の騎士オサスナにやられたとは騎士団へ報告していない。それなのに、フェデリカは何故かアシュガイルがオサスナに殴られたことを知っていたのだ。

「何で知ってんだよ、フェデリカ」
「やっぱりそうなの? もう! 婚約破棄は私とアシュガイルの家の問題なのだから、オサスナが代わりに怒ってくれなくてもいいのよ?」
「俺たちの喧嘩にフェデリカは関係ねえよ」

 彼らの喧嘩に思いっきりフェデリカは関係しているが、オサスナは言わない。関係ないと言うオサスナに、フェデリカは眉尻を下げる。

「……私、オサスナのことが心配なの」
「俺とアシュガイルは男同士だし、色々あるんだよ」
「……そう。私はてっきり、ミスリン様の懐妊を知ったオサスナが怒って、アシュガイルを殴ったのかと思ったわ」
「本当か? その話」
「ええ。私の友人でお嫁に行ったのが早い子がいてね。その子が貴族御用達の産院でミスリン様の姿を見たらしいのよ」

 アシュガイルがミスリンとの結婚にまったく乗り気でないのに、受け入れた理由が分かってしまった。さすがに子どもが出来ては断れない。ミスリンが妊娠していると聞いたフェデリカは、どれだけショックだったことか。

「フェデリカ……」
「オサスナ、私ね。アシュガイルがたまに浮気をしていたこと、知っていたの。家にアシュガイルの浮気相手から手紙が届いたり、お茶会で噂を聞いたことは何度もあるわ。でも……信じたくないって、思った。お父様もお母様も、私の幸せをやっかむ輩の仕業だって、無視しなさいって言ったから、その通りにしたのよ……」

 オサスナはフェデリカになんと言葉をかけていいか分からない。アシュガイルには『フェデリカはお前の浮気を知っていたと思うぞ』と言ったが、あれはカマをかけただけだ。本当にフェデリカはアシュガイルの不貞を知っていたとは。

 動揺したオサスナは、ただ彼女の名を口にすることしか出来なかった。

「フェデリカ」
「そして、臭いものに蓋をした結果がこのざまよ。遅かれ早かれ、私とアシュガイルは駄目になっていたわ。むしろ、結婚前で良かったかもしれない」

 フェデリカの語尾は震えている。オサスナは咄嗟にフェデリカの肩を抱いた。

「フェデリカ、俺がついている」
「ありがと……オサスナ。あなたに話を聞いてもらえたから、胸がスッと軽くなったわ」

 フェデリカは微笑もうとしたが、目尻には涙が溜まっている。オサスナは曲げた人差し指で、フェデリカの涙を拭った。

「ごめんな、フェデリカ」
「何でオサスナが謝るのよ?」
「俺はアシュガイルの腐れ縁だ。あいつが浮気しないように矯正出来ていれば……今ごろ」
「それは無理よ。オサスナは今まで騎士団の斥候をやっていたのだから。お城にいないことも多かったのに、アシュガイルを見張ることなんか不可能よ」

 先月まで、オサスナは騎士団の中で斥候を担当していた。王城周辺で何か変わったことがないか調査するのが主な仕事だが、災害時の地形調査や国境の様子を見に行くこともあり、業務は多岐に渡る。もちろん、有事の時には剣を振るって戦う。

 どちらかと言えば泥臭い仕事をこなすオサスナの一方で、伯爵家の出身で、子爵家の婿に内定していたアシュガイルは、王城へ届いた護衛依頼をこなしていた。王都は非常に治安が良く、荒事は滅多にない。事実、アシュガイルは体格こそ良いが、腰に差した剣を引き抜いたことは殆どない。股間の剣をもたげる機会は頻繁にあったようだが。

 フェデリカの言うとおり、オサスナがアシュガイルを見張ることは難しかった。

「フェデリカ、お前は理解が良すぎるぜ。たまには八つ当たりしたほうがいいぞ? たとえば、俺とかにな」
「今は大丈夫。今はなんか……まだ足元がふわふわしていて現実感がないのよ。この短い間で目まぐるしく、色々な事情が変わったでしょう? アシュガイルと婚約破棄して、オサスナと婚約して……ちょっと頭がついていかないの」
「そっか。愚痴りたくなったり、泣きたくなったり、復讐したくなったら俺に言えよ。いくらでも付き合うからな」
「うん、ありがとう……オサスナ」

 オサスナは自分の無力さを感じていた。アシュガイルを罵って殴ったところでフェデリカの心は救えていない。フェデリカは幼いころからアシュガイルのことが好きだった。彼女がどれだけアシュガイルのことを想ってきたのか、オサスナは知っている。オサスナはずっと、フェデリカのことを見てきたからだ。
 オサスナは思う。自分がフェデリカのためにやれることはなんだろうと。
 今はただ、フェデリカの側にいてやることしか出来ない。情けない、とオサスナは思った。

 ◆

「遠乗りなんて久しぶりね」

 この日、フェデリカとオサスナは遠乗りにやってきた。早朝から二人で並んで厨房で弁当を作り、馬に乗ってフェデリカの家の領内にある湖までやってきたのだ。青い空にはちぢれ雲が広がり、適度に風が吹いている。近くにある森林の匂いを含んだ爽やかな空気に、二人の表情も和らぐ。寒くもなく暑くもない。過ごしやすい気候だった。

 この湖に行きたいと言い出したのは、二人ほぼ同時だった。二人とも、アシュガイルがやらかしたことで心が疲労していた。人里離れたところでゆっくりしたいと願うのは、当然のなりゆきだ。

 オサスナは多忙であったが、なんとか結婚式前に休みをもぎ取った。彼は少しでもフェデリカと過ごす時間を取りたいと思ったのだ。彼が女性に対し、そんな風に思ったのは初めてだった。


「昔からここは変わらんな」
「ええ、本当に」

 二人の眼前には懐かしい光景が広がる。つい十年ほど前までは、お互いの父親とよく一緒にこの湖にきて釣りをしていた。フェデリカもいつものドレスではなく動きやすいズボンに着替え、せっせと釣り針に餌をつけて釣り糸を垂らしていたのだ。

「フェデリカは釣りが上手かったよなぁ。一番釣ってたんじゃないのか?」
「おじさまのアドバイスが的確だっただけよ。楽しかったわよねえ。釣った魚に串を刺して焼いて食べたり……ああ! またやりたい!」
「フェデリカは食いしん坊だからなァ」
「なによ、オサスナこそ誰よりも魚を食べていたじゃない」

 今もフェデリカの頭のなかにありありと思い浮かぶ。まだ元気だった頃の父が、簡易カウチに座ってオサスナの父親と嬉しそうにウイスキー入りの紅茶を飲んでいる姿や、真剣な顔をして釣り針に餌をつけている、幼かったころのオサスナの顔が。
 魚の焼ける香ばしい匂い。赤く燃ゆる焚き火、露に濡れた森林の清々しい空気。皆の明るい笑い声。フェデリカはあの時間がとても好きだった。自分も結婚して子どもが出来たら、自分たちの父親のように家族で遠乗りに出掛けたい──そう思っていたのだが、婚約時にアシュガイルに提案したら、虫が嫌いな彼ににべもなく断られてしまった。

「……私、子どもが出来たらここに遠乗りに来たいな」
「そりゃいいな! ある程度大きくなったらここに連れてこようぜ。……それまでに釣りの練習しなきゃなぁ」

 フェデリカの独り言のような願いに、オサスナは大きく頷く。彼ならば賛成してくれると思っていたが、実際に乗り気になってもらえると、フェデリカは嬉しくて破顔が止められなかった。

 ◆

「オサスナが作ったパン包み、とても美味しいわ」
「フェデリカが作ったクッキーも美味いぜ」

 しばらく湖のほとりを歩き、小腹が空いたところでランチにした。比較的平坦なところに敷布をひき、二人で並んで腰掛けて、作ってきたレモネードを木のカップへ注ぐ。
 自分たちの声以外は、小鳥のさえずりが聞こえるだけ。清廉な空気のなか、食べる昼食は最高だった。

 フェデリカはオサスナが作ったパン包みをかじる。なかの具は細切りにしたミニキャロットの酢漬けとサーモンの燻製。細かく刻んだオリーブや干し葡萄も入っている。少し歩き疲れた身体に酸っぱいものが沁みる。オサスナ曰く、騎士団でもよく食べられているメニューらしい。確かに疲れた時に美味しく感じる味と食感だ。

「俺、フェデリカが焼いたクルミのクッキー、好きなんだよなぁ」

 フェデリカの隣で、オサスナが円形のクッキーを見つめて、しみじみと言う。

「今朝焼いたばかりだから、特に美味しいわよね」
「ああ、レモネードとの相性もばっちりだ」

 来週、自分たちは結婚式を挙げる。オサスナとの関係は未だ幼なじみの延長のようなものだが、不思議とオサスナと築く家庭像は容易に想像出来た。出来れば歳の差が少ない兄弟の子を持ち、今日のように遠乗りが出来たら最高だとフェデリカは思う。オサスナは口は悪いが面倒見が良い。子どもたちを可愛がる良い父親になるだろう。
 自分が作ったクッキーやレモネードを嬉しそうに口にするオサスナや、まだ見ぬ子どもの姿を想像するだけでフェデリカの胸はいっぱいになった。

 元婚約者であるアシュガイルのことは確かに好きだったが、今思えば、自分たちが築く家庭像をあまり具体的に思い浮かべてはいなかったように思う。フェデリカはただただ、アシュガイルがもたらしてくれる甘く切ない時間に浸っていた。恋に恋をしていたのだ。
 事実、フェデリカはアシュガイルが護衛対象の令嬢相手に浮気を繰り返していたことを知っても、アシュガイルを問い詰めなかった。アシュガイルに嫌われるのではないか、二人の甘い時間が終わってしまうのではないかと思い、都合の悪いことには目を瞑っていたのだ。
 夫婦になったら、たとえ喧嘩になったとしてもぶつかり合わなくてはならないことは沢山あるだろう。はたして自分は、アシュガイルと本気で言い合いが出来ただろうか?

「私、オサスナになら何でも言えるわ」
「どうしたんだよ、急に」
「……ううん、何でもない」
「せっかく遠乗りに来たんだ、楽しもうぜ? はい、あーん」

 オサスナはクッキーを一枚取ると、フェデリカの口許にやった。フェデリカは一瞬目を丸くしたが、ふっと短く笑うと口を開けた。

 ◆

 各々複雑な思いを迎えたまま、フェデリカとオサスナの結婚式の日はやってきた。

「すごい……! すごく素敵だわ」

 繊細なレース地で出来た白いグローブをはめたフェデリカは、その手を口許にやる。
 全身白い装束で美しく着飾った花嫁の賛辞に、花婿は頬を赤く染めながら視線を逸らし、唇を尖らせていた。

「べ、べつに普通だって……」
「ううん、見違えたわよ。オサスナ」
「……そうか?」

 式の前、オサスナは忙しさにかまけて伸ばしっぱなしにしていた黒髪をばっさり切った。彼は気になるのだろう。さっぱりした首の後ろをしきりに触っている。

 フェデリカは婚礼着姿の幼なじみを見上げ、口を綻ばせる。本当に、ため息が出るほど素敵なのだ。すらりと背が高く、騎士の割にはやや細身の彼に、長衣の白い詰襟が良く似合っている。長衣のスリットからは、タイトな白いズボンと膝下丈のブーツで包まれた長い脚が覗いている。

「これからも髪は短いままにしたらどう? 短いほうが爽やかで似合っているわ」
「う~~ん。首んところの毛先がじょりじょりしていて落ち着かねえな……」
「じきに慣れるわよ」
「フェデリカも、編み込み似合ってるぜ。下ろしてるよりずっと大人っぽいな」
「ほんとう? 私もこれからは編み込みにしようかしら」
「良いんじゃねえか?」

 二人が正式に婚約を交わしてから今日で約二ヶ月半になる。オサスナは昨日付けで騎士を退役した。ここ一年フェデリカの父親が体調を崩すことが多くなり、すぐにでも領主業の引き継ぎを始めたほうが良いという話になったのだ。

 フェデリカはオサスナに申し訳なく思う。オサスナの父親は一代限りの男爵で、彼はろくな後ろ盾の無い状況で正騎士になった。フェデリカは、オサスナが騎士になるために血の滲むような努力をしたことを知っている。それが正騎士になってたった三年で退役させるはめになるとは。
 しかも、婿先の花嫁は婚約者に去られたばかりで傷心状態。そんな状況なのに、オサスナはいつもの明るい態度を崩さない。

「オサスナ、ありがとう」
「何がだ?」
「私と結婚してくれて」
「おいおい、まだ永遠の愛を誓いあう前だぞ?」
「そうね」

 オサスナは騎士団の業務引き継ぎが忙しいだろうに、それでも合間を縫って逢いにきてくれた。何かのはずみに瞳を潤ませることがあっても、じっと耳を傾けてくれた。婚約してからのこの二ヶ月半、オサスナと過ごした時間を思い浮かべると、フェデリカの胸には温かなものが広がる。
 いつもそれとなく明るい話題を提供してくれるオサスナの存在は、この短い間にも、フェデリカにとって大きな存在になりつつあった。

 アシュガイルと婚約破棄した時、フェデリカは足元から底なし沼に引き摺られるような思いがした。アシュガイルがミスリンと浮気をして、子どもが出来てしまったと知った時も、あの途方もない絶望感から救い出してくれたのはオサスナであった。
 今こうして笑えるのも、オサスナのおかげだ。フェデリカは何か彼に恩返しがしたいと思う。

「ねえ、オサスナ」
「なんだ?」
「目を閉じて?」

 不満そうな声を漏らしながらも、オサスナは瞼を閉じた。
 フェデリカはヒールの靴でさらにつま先立ちになりながら、オサスナの顔へ唇を近づける。
 ちゅっ、とリップ音が短く鳴った。

 バッと目を開けたオサスナは、大きな手で口許を覆う。白手袋の指先から見える肌は、みるみるうちに朱に染まっていく。

「フェデリカ! 愛を誓いあう前だと言っただろ!」
「別にいいじゃない」

 自分はきっと、オサスナを愛せる。もしかしたら、もう彼を愛しはじめているかもしれない。
 結婚式場の従業員に呼ばれ、二人は軽く身だしなみを確認すると、腕を組んだ。

「オサスナ、よろしくね」
「騎士の叙任式より緊張するぜ」
「大袈裟ねえ」
「大袈裟じゃない。なにせ、フェデリカへの愛を誓うんだ」

 フェデリカは隣を歩くオサスナを見上げる。
 ふと、疑問に思った。
 彼は社交界で百人斬りと噂されているが、自分が戯れにキスしただけで真っ赤になっていたし、今も自分と腕を組みながら、かなり緊張している様子だ。
 もしかしたら、オサスナの女癖が悪いという噂はデマなのかもしれない。逆に、ミスリンとの関係があったというアシュガイルの噂は、社交界では耳にしたことがない。
 フェデリカの視線に気がついたのか、オサスナは彼女のほうを向いた。

「なんだよ? フェデリカ」
「ううん、何でもないわ」

 フェデリカは思う。自分が目にしているオサスナだけを信じようと。今思えば、狭い社交界の噂の操作など容易い。オサスナには後ろ盾らしい後ろ盾もなく、たとえ嘘でも噂が広まってしまえば、取り繕う方法はない。
 フェデリカはオサスナの『百人斬り』の噂は嘘ではないかと思い始めていた。

 ◆

 結婚式の後、二人は早めに湯殿に浸かり、夫婦の寝室へとやってきた。
 ゆったりとしたシャツとズボン姿のオサスナは、フェデリカの前で太ももを揃えて座ると、頭をがしがし掻きながらこう言った。
「……フェデリカ、その、今夜は普通に眠るだけにしようぜ?」と。

 思いがけないオサスナの提案に、向かい合っていたフェデリカはぱちぱちと瞬きする。

「どういうこと?」
「フェデリカは俺のこと、男として見てないだろ?」

 そんなことはない。フェデリカは反論した。

「見てるわよ」
「無理しなくてもいいって。俺は末永くフェデリカと上手くやっていきたいんだ。今、無理やりお前を押し倒して、嫌われたくない」
「身体を重ねて嫌いになることなんて無いわよ」
「フェデリカ、お前は性交の方法を知っているのか?」
「知ってるわよ。指南書だって買ったのだから」
「指南書……」
「オサスナ、あなたは私が初めてだから、面倒だと思っているのでしょう? 私、こう見えても我慢強いのよ。身体の中心を貫かれたって、泣かないわ」

 初夜を先送りにしようとするオサスナを見て、フェデリカは彼が面倒くさくなったのだと推測した。たしかに自分は性体験がない。抱き合ったとしても楽しくないかもしれない。それは少し寂しいが、仕方がない。オサスナには自分の家族になってくれただけでも感謝している。

「潤滑剤も用意したから、オサスナは横になっていればいいわ。私の方で勝手にするから……」
「フェ、フェデリカ! 別に俺はお前とそういうことがしたくないわけじゃないぞ!」
「では、どういうこと?」
「行為が終わった時、お前が……悲しむのが嫌なんだよ」
「悲しくなんてならないわ。私、オサスナのことが好きだもの。あなたを信頼してる」

 この感情は、オサスナの言うとおり、男女の情というよりも、親愛の情に近いかもしれない。でも、オサスナとの行為はきっと楽しい。嫌だとは思わないとフェデリカは確信していた。

 フェデリカはやる気まんまんだったが、オサスナの表情はどんどん落ち込んだものになる。フェデリカはオサスナの肩へ腕を伸ばした。ふわりと抱きつく彼女に、彼はとうとう観念した。

「フェデリカ、聞いてほしいことがある」
「なによ、改まって」
「実は俺も今夜が初めてだ」
「…………はい?」

 突然のことで、声が裏返ってしまった。
 オサスナに性体験が、ない?
 社交界に流れていた『百人斬り』の噂は、やはり偽りだったのか。

「どういうこと?」
「どういうこともこういうことも。何とも思ってないやつの身体を触ったり舐めたり……そんなこと、出来るわけないだろ! 他のやつらは普通に娼館行ったりしてたけどよ。俺はどうしても嫌だった。フェデリカ以外の女と、絶対そんなこと出来ねえって……」

 今思えば、オサスナは潔癖の気があった。子どものころに釣りに行った時も、彼は素手でエサを掴むのをいつも嫌がってピンセットを使っていたぐらいなのだから。潔癖の気があっても、それを易々と乗り越えてしまうぐらい年頃の男の性欲は強いと聞いたことがあるが、それも個人差があるのだろう。アシュガイルのことを思い出しそうになり、フェデリカは慌てて頭を振った。

「オサスナの感覚は普通だと思うわ」
「だろ!? じゃあ、フェデリカも俺に触られるのが嫌だよな……」
「オサスナに触られるのはいいわ」
「フェデリカ、無理すんな」
「無理してないわよ」

 このままじゃ埒があかない。フェデリカは自分の夜着の前ボタンに手をかけた。オサスナは慌てているが、彼女はそのまま、自分が着ているものを脱いだ。

「オサスナも脱いで」
「お前は思い切りがよすぎるぜ……」

 オサスナはため息をつくと、彼も自分が着ているシャツを脱いだ。

 ◆

「すごい身体ね」
「まあな、俺は近衛騎士っつっても斥候だった。荒事に巻き込まれることなんざ、日常茶飯時だったからな。俺の身体、怖くないか?」

 オサスナは一見細いように見えて、全身しっかりとした筋肉がついていた。肩も胸も腹も、叩いて鍛えあげた、まさしく鋼と言っていい体躯をしている。フェデリカはオサスナの身体を純粋に美しいと思った。ごつごつしているが、しなやかで、孤高の野生動物を彷彿とさせる。ところどころ切り傷が出来ているが、恐ろしいとはまったく思わない。

「……綺麗だわ」
「フェデリカは変わっているな」
「そう? オサスナが綺麗すぎて、何だかあなたに肌を晒しているのが恥ずかしくなってきたわ」
「フェデリカこそ、綺麗だ」

 フェデリカは先に脱いでいた。露わになった胸元を彼女は無意識に隠そうとする。

「あんまり胸がないのよ、私。お腹まわりも太いし」
「そうか? 俺はフェデリカだったら何でもいい」
「適当ねえ」

 フェデリカがくすりと笑うと、オサスナは喉を鳴らした。肌を晒した状態で微笑む彼女に、グッとくるものがあったらしい。

「なぁ、キスしてもいいか?」
「ええ」
「舌を入れる、深いキスがしたい」
「今夜はわざわざ断りなんかいれなくてもいいのよ?」

 オサスナはどこまでも真面目だった。女癖が悪いとの噂とは真逆だった。フェデリカは、オサスナのこんな一面を知っているのは自分だけだと思い、──言い方は良くないだろうが、胸に優越感が湧いた。口は悪くとも見目の良いオサスナは、王都中の女の子の憧れだ。そんな彼を自分は独占している。

「私って厭な女だわ」
「今更気がついたのかよ?」
「まぁ、オサスナ。私のこと、厭な女だと思っていたの?」
「まぁな。俺の心を無意識に弄ぶ、厭な女だと思ってた」
「それは厭な女ね」
「だろ?」

 二人はまた視線を合わせあうと、笑いあった。お互いの身体に手を這わせながら、そっと唇を重ねる。お互い、こういうことは不慣れだ。ぎこちなく唇を開け、舌先をくっつけ合う。この行為が合っているのかさえ、二人はよく分からない。でも、舌を絡めるのは気持ちが良いと思った。

「……オサスナの唾液の味、好きかも」
「フェデリカ、あんまり煽るなよ」
「今夜は最後までするのだから、煽るぐらいでちょうどいいのよ」
「違いねえ」

 オサスナはくっくと喉を鳴らして笑った。
 フェデリカは大きな枕を背にゆっくり身体を横たえる。オサスナは軽い口づけを落としながら、フェデリカの二の腕を掴むと、やんわり揉んだ。

「オサスナ……。普通、胸を揉まない?」
「フェデリカの二の腕って、普段はパフスリーブに隠れているだろう? 形すら見えないところのほうが興奮しないか?」
「そうかしら……」

 オサスナの性癖がよく分からない、とフェデリカは首を傾げる。だが、腕をふにふにと揉まれるのは意外にも気持ちが良い。オサスナの大きな手がフェデリカの脇のほうまで回ったところで、彼女は声を上げた。

「あぁっっ……!」
「感じてんのか? フェデリカ」
「んっ、んんっっ、脇の下、揉まれると……なんかヘンなの」
「ヘン?」
「すごく、気持ちがよくて」
「なんか乳首も勃ってるぞ?」

 そう言うと、オサスナはフェデリカの胸に顔を埋め、あえて胸の尖りを避けて円を描くように彼女の乳房を舐めあげた。フェデリカは悩ましげな声を漏らす。

「うあぁっ……」
「フェデリカ、かわいい」
「んんっ、あっ、そんなの……あっっ、だめっ……!」

 フェデリカの反応に気を良くしたオサスナは、ツンと勃った胸の尖りを口に含むと、じゅっと音を立てて吸い上げた。フェデリカは強い刺激に首を横へ振る。生温かく、舌の滑る感触が気持ちいい。
 オサスナはもう片方の乳房も、同じように舐めあげ、その尖りを吸った。フェデリカの目尻には涙が浮かぶ。と、同時に、彼女は脚の間にいつもとは違う感覚を覚える。月のものが来るところが熱を持ち、妙に疼くのだ。

「お、オサスナ……」
「何だ?」
「あの……」

 フェデリカはなおも愛撫を続けているオサスナの腕を掴む。だが、脚の間を触って欲しいとはなかなか言いにくい。いくら気心が知れた相手とは言え、自分の性的欲求を伝えるのは恥ずかしい。
 オサスナはひとつ息を吐いた。

「フェデリカ、して欲しいこと、して欲しくないことは何でも言え。俺はこういうことは初心者だからまったく分からん」
「そうよねえ……。あのね、脚の間がその……落ち着かなくて」
「落ち着かない? お前もなのか?」
「え、ええ……」

 フェデリカはオサスナの股間にあるものを見て、パッと目を逸らす。なんとなく、凝視してはいけないような気がした。

「ああ……濡れているな」
「どうしてこんなことになっているのかしら?」
「俺の拙い愛撫にも興奮したんだろ」

 フェデリカはオサスナに促されるがまま、脚を大きく開き、膝の裏を自分で抱えた。恥ずかしいが、性交するには股を大きく開かないといけない。相手がオサスナで良かったとフェデリカは心から思う。これが出会ったばかりの男とだったら、絶望しただろう。

「なあ、フェデリカ、ここ、舐めてもいいか?」
「んっっ」

 オサスナはフェデリカのぴっちり閉じられた陰唇に人差し指を押し当てると、ぐりぐりと動かし始めた。膣口の場所を探っているらしい。すぐに彼は蜜が滴る隘路を見つけ出した。
 脚の間、狭い隙間に異物が入ってくる。フェデリカは思わず、オサスナの指を締め付けてしまった。

「うわっ、せま……。なぁ、舐めて広げていいか?」
「う、うん」

 フェデリカは膣口に入れられた指の異物感に、首を縦に振った。オサスナに秘部を舐められるのは、抵抗感がないと言ったら嘘になるが、それでも指で解されるよりはマシだと思い、受け入れた。

「……っ……んんっっ……」

 オサスナはフェデリカの太ももの裏に手を置くと、彼女の股に顔を埋めた。舌を突き出し、まずは陰唇をぺろりと舐める。それだけでフェデリカの腰が軽く浮いた。今度は膣口を広げるように、もっと深く舌を差し入れる。すると、膣口からとろりとした透明な液が出てきた。オサスナはそれをずずっと音を立てて啜りあげる。

「あああっっっ!」

 フェデリカの細腰がビクビクと震える。自分の行為でフェデリカが感じてくれている。今までに感じたことのないほど高揚感を感じたオサスナは、さらに大胆にフェデリカの秘部を攻めたてる。綻んできた膣口の中へ限界まで舌を差し入れ、その入り口を執拗に舐め回す。すると、膣口が急激に窄まった。
 オサスナは目線を少し上へやると、赤く膨らんだ小さな芽を見つけた。自分がフェデリカの膣口を舐めたことで、大きくなったような気がする。ここも舐めたほうが良いと思い、彼はその赤い芽も舐めた。

「ひっ、ひぁっ……! オサスナ……」
「フェデリカ、嫌か?」
「ううんっ、嫌じゃないの……でも、身体がおかしくなる……っ!」
「ここには俺しかいないんだ。どんどんおかしくなってくれ」

 オサスナはフェデリカの反応を見ながら、少し解れた膣口に指を一本差し入れ、それをゆっくり前後に抜き差ししながら、赤い陰核を舐めあげた。フェデリカは嬌声をあげている。自分の行為、ひとつひとつに反応し、乱れていくフェデリカを見ていると、股間にあるものが痛いほど熱を持った。
 フェデリカの膣口からはとめどなく蜜が滴っている。指でなかを弄るとぬちゃぬちゃと水音がするほどだ。
 オサスナは思った。このなかへ入りたい、と。

 ◆

「フェデリカ」
「何……」
「その、挿れてもいいか?」

 オサスナの問いかけにフェデリカは涙目になりながら、小さく頷いた。

 脚の間に、熱くて硬いものが押し当てられる。フェデリカは息をのむと、背後にある枕を掴んだ。

「ふぅっっ……」

 自分の身体を割り開かれる痛みに、フェデリカは瞼を閉じて耐えた。脚の間が熱を持ち、じんとする。フェデリカは焼けつくような痛みと圧迫感に生理的な涙を流した。
 見るからに苦しげなフェデリカに、オサスナは焦る。

「フェデリカ、痛いのか? 苦しいのか?」
「ううん、大丈夫よ。オサスナこそ、大丈夫?」
「ああ……。でも、だいぶキツいな」

 オサスナは眉間に皺を寄せ、困ったように笑う。その顔を見たフェデリカは、彼も自分のように痛みを感じているのだろうかと思った。そして、少しでも彼の痛みを和らげたいと思う。

「オサスナ、キスして……」

 オサスナは黙って頷くと、フェデリカを刺激しないよう、慎重に身体を曲げ、彼女に口づけた。啄むような軽いキスを繰り返したあと、彼はフェデリカの口内へ舌をもぐりこませた。
 オサスナはフェデリカの秘部を舐めたあとだったが、彼女は不思議と気にならなかった。今、二人は一つになっているからかもしれない。深い口づけを交わしながら、フェデリカはオサスナの厚い胸板に手を伸ばした。一見固いようで、弾力がある。フェデリカはオサスナの胸筋を揉みながら、その胸の尖りにも触れる。

「フェデリカ、何をしている?」
「あなたに胸を触ってもらって、気持ちよかったから、私もお返ししようと思って……」
「お前……。俺のを咥えこんでいる状態でそういうことするなよ。腰を打ちつけたくなるだろ?」
「? 腰、打ちつけてもいいわよ?」

 キスをしているうちに馴染んだのだろうか。フェデリカは剛直を咥えこんでいる状況に慣れてきていた。圧迫感はあるものの、今はもう痛みはあまり感じない。

「少しずつ動くぞ。気持ちよくなれるところがあったら言え」
「オサスナも、言うの?」
「俺はもう、すごく気持ちよくなってるから言わない」

 フェデリカからすれば、どう見てもオサスナは苦しそうに見える。彼女は無邪気にも尋ねてしまった。

「どう気持ちいいの? 私不安なのよ、あなたが痛かったり苦しかったりしないかって」
「生温かいもんに包まれてて、すげー気持ちいい。締め付けも堪らない。これで動いたら、すぐ出ちまうかも」
「子種が?」
「ああ」

 今夜もう、子どもを作ることが出来るのだと、フェデリカの胸に温かいものが広がる。湖へ行った時のことを思い出す。オサスナと、オサスナとの間に出来た子と、皆で湖で釣りをして、焚き火を囲んだらきっと楽しい。

「ふふっ」
「何で笑うんだよ」
「子どもがすぐに出来たらいいなぁって思ったのよ。きっとあなたの子は可愛いわ」

 オサスナとの結婚が、まったく不安じゃなかったと言ったら嘘になる。オサスナとはずっと長い間友人同士だった。彼を男として見られるのか不安だったのだ。でも、フェデリカは実母から言われた言葉に救われていた。

 相手との子どもを想像し愛せそうだと思えたら、幸せになれる、と。

「私、オサスナとの子だったら、ぜったい愛せるわ」
「俺も子どもに負けないように、愛される努力をしなきゃなぁ」
「えっ……あああぁっっ」

 フェデリカの言葉に苦笑いしたオサスナは、フェデリカの両脇に腕をつくと、腰を打ちつけ始めた。腹側の媚肉が執拗に擦り上げられ、フェデリカは抗いがたい快感に下半身を震わせた。濡れた媚肉のなかを力強く抽送されることで、陰核にもその刺激が響く。

「あぁっ、はぁあんっ、やっ、あぁっ、お、オサスナ……!」

 先ほど目にした、肉棒の出っぱった穂先が、ごりごりとフェデリカの良いところを擦り上げる。
 元々フェデリカにはオサスナに対する信頼感がある。オサスナから何をされても特に忌避感は無く、彼女は素直に彼から与えられるものを享受出来た。

「あ……やべっ……出る……」
「なかに、なかに出して、オサスナ……」
「うっ、……うぐっ……」

 オサスナは細腰を震わせ、引き締まった臀部に力を入れると、フェデリカの胎に熱い白濁を流しこんだ。びゅっびゅと断続的に吐き出されるものに、フェデリカは息をのむ。

 オサスナは前屈みになると、最後の残り一滴までフェデリカのなかへ子種を注ぎこんだ。

 ◆

 アシュガイルは後悔していた。侯爵令嬢ミスリンと関係を持ったのは、間違いだったと今ならはっきり言える。

 アシュガイルは今、ミスリンの実家が用意した屋敷にいた。中古物件だが、外壁は修復され、部屋のクロスも新しくなっている。調度品はどれも一級の職人が作った立派なもので、高位貴族が住まう家としては充分な空間だ。
 アシュガイルは間違いなく玉の輿に乗っていた。だが、彼はミスリンとの結婚に後悔していた。
 
 隣の部屋から聞こえるのは、ミスリンと、その主治医の声。最初のうちは楽しそうに談笑していた二人だったが、時間が経つにつれて雲行きが怪しいものとなる。やがて、隣の部屋からはミスリンのあられもない声が聞こえてきた。

 端的に言えば、ミスリンは主治医と深い仲になっていた。主治医は市井の人間で、それも移民だった。彼女は結婚できない相手と情を交わしていたのである。
 主治医との子を孕んだことを知ったミスリンは、たまたま護衛に来ていたアシュガイルをたらしこみ、偽装結婚をしたのだ。主治医と秘めた関係を続けるために。

 アシュガイルはミスリンに騙されたことを知っても、責めることが出来なかった。ミスリンの実家はこの国でも有数の大貴族。アシュガイルが事を荒立てれば、今度は彼の実家の立場が危うくなる。それにアシュガイルは何度もミスリンと身体の関係を持っている。ミスリンが『孕んだ子はアシュガイルの子』と主張すれば、妊娠の月日がまったくあわなくとも通ってしまった。

 ──フェデリカ……。

 今も瞼を閉じれば、かつての婚約者の笑顔が浮かぶ。可憐で、穢れを知らない美しいひと。赤ん坊の頃からいつも一緒だった。
 子どもの頃は良かったのだ。ただ、フェデリカと一緒にいるだけで楽しかった。
 それが変わったのは、アシュガイルが精通を迎えてからだ。十三歳の時、部屋付きのメイドに誘われるがまま関係を持ち、それからはいつも頭のなかは女を抱くことでいっぱいになった。仕事で知り合った、なるべくおとなしそうな令嬢をたらしこみ、裏口があるような宿で性欲を満たす日々。フェデリカを裏切っている罪の意識はあったが、性豪の彼にとって女を抱くことは食事をすることと同義で、婚約者に操を立てるなどあり得ないことであった。

 令嬢側もスキャンダルを恐れて、社交界でアシュガイルとの関係をばらそうとする者はいなかった。表向きは清廉潔白な騎士として通っていたアシュガイルはもう、やりたい放題だった。

 フェデリカを裏切った罰が当たったのだ。だから自分は、とんでもない女に引っかかってしまったのだ。

 ミスリンと関係を持たなければ、いや、自分が浮気などしなければ、今頃、フェデリカと初めての夜を迎えられたのに。
 それをオサスナに奪われてしまった。

 アシュガイルはオサスナを自分よりも下に見ていた。一代限りの男爵の息子で、血統も良くない。口が悪くて粗暴な腐れ縁。あんなやつはいくら剣の腕が立とうが、どこかの戦場で無惨に死ぬのが関の山だと。心の中でせせら笑っていたのに。

 それが今やオサスナは子爵家の次期当主だ。フェデリカの家は爵位こそ子爵だが、領地は広大なぶどう畑をもつワインの一大名産地。たとえ不作の年があろうが、貯蔵庫には年代物のワインがある。よほどのことがあっても飢えることはない潤沢な領地。

 アシュガイルは自分の膝をぐっと握り込む。フェデリカの婿になり、自分があの家の領主になる予定だったのに。そうすれば、騎士をやめても一生安泰で暮らしていけた。

 失ったものの大きさに、アシュガイルは頭を抱える。自分はこの先どうなってしまうのだろう。妻ミスリンの不貞を横目に、身の置き場のない思いをしながら、この屋敷で暮らし続けるのか。

 ──冗談じゃない!

 アシュガイルは決心する。このまま一生縮こまって生きるより、騎士として何か大きな手柄を立てたい。僻地への異動を願い出よう。定期的に起こる異民族との小競り合いを堰き止め、武功をあげれば、たとえ今後ミスリンと離縁しても、次の縁談に恵まれるかもしれない。

 アシュガイルは懲りなかった。



 結婚したばかりで、子どもももうすぐ生まれるアシュガイルの異動願いに彼の上官は良い顔をしなかったものの、アシュガイルは『生まれてくる子どものためにも、手柄を立てたい』と言い、半ば無理やり国境沿いの僻地へ異動した。

 アシュガイルはその後、国境沿いにある村で石打ちに遭って殺された。アシュガイルは結婚が決まっていた村長の娘とねんごろになり、娘と裸で抱き合っている時に娘の婚約者が部屋に押し入り、彼の頭に鈍器のような石を投げつけた。
 アシュガイルはなすすべなく、全身を強く殴打されて死んだ。
 彼は自身の性欲と不誠実さに殺されたのである。

 ◆

「ちちうえ! ははうえ! こっちこっち!」
「こらっ、一人で勝手に行くなって言っただろうが!」

 数年後、フェデリカは夫のオサスナと、五歳になった息子と三人で思い出の湖に来ていた。下に娘もいるが、まだ一歳なので今回は屋敷でフェデリカの母とお留守番だ。

 フェデリカの父は二年前に他界。本格的に子爵家を継いだオサスナは毎日忙しくしているが、それでも家族と過ごす時間を欠かすことは無い。

 フェデリカとオサスナの間に産まれた息子は、オサスナそっくりの黒髪と黒い目を持つ。フェデリカは夫そっくりの息子へ慈しむような視線を向ける。フェデリカが予想していた通り、オサスナとの間に産まれた子は可愛かった。可愛いという言葉だけじゃ足りないと思うぐらい、愛しい存在。目に入れても痛くないとはまさにこのことだと、フェデリカは思う。

 父親に捕まった息子は、そのまま肩車をされてキャッキャと喜んでいる。この湖に息子を連れてきたのは今日が初めて。湖の話を息子にするたび、『ぼく、いきたい!』と言っていたので、息子にとっては念願の場所だ。

「わぁっ、きれーい!」

 父親の肩の上で、息子は雲が映る湖の水面を食い入るように見つめている。
 オサスナは息子が肩から落ちないよう、大きな手で支えながら息子に話しかける。

「ヴァレッドがもう少し大きくなったら、父上と釣りしような!」
「うん!」

 オサスナの提案に、息子は興奮した様子で頷く。
 オサスナは本当に良い父親で、息子のヴァレッドはよく懐いている。父親っ子すぎて、オサスナが泊まりで視察へ出かける際、泣いてしまうのが玉に瑕だが。フェデリカが下の娘エリザを妊娠・出産してからというもの、さらにその父親っ子傾向が強くなった。

 三人で湖の周りを軽く散歩して、少し歩き疲れたところでランチにした。
 普段は食が細いヴァレッドだが、気候が良いからか今日はもりもり食べる。そして、フェデリカがちょっとオサスナに話しかけている間に、ヴァレッドはうとうとし始めてしまった。

「あちゃあ、はしゃいでいたからなぁ」

 オサスナは眉尻を下げると、荷物の中からブランケットを取り出した。それを敷布の上ですやすやと寝息を立てているヴァレッドに掛けた。息子の寝顔をみつめるオサスナの目は穏やかに細められている。

「ゆうべも興奮しちゃって、あんまり眠れなかったみたい」
「気持ちは分かるな。俺も昔、親父に『明日は湖へ行くぞ!』って言われた時は、楽しみで眠れなかった」
「ふふっ、私もよ」

 息子を起こさないよう、なるべく音を立てずに食事の道具を片付けると、二人は湖を見つめた。さわやかな風が適度に吹いていて過ごしやすい。絶好のピクニック日和だ。

 フェデリカはちらりとオサスナの横顔を見る。片膝を立てて座っている彼も湖を見つめていた。政務にあけくれる彼は屋敷にいる時は険しい顔をしている時も多いが、今はリラックスしてくれているようだ。
 オサスナは本当によく頑張ってくれている。彼と結婚できて良かった。心からそう思う。

「オサスナ」
「おっ、なんだ? 寒いか?」
「好きよ」

 ごく自然に、するりと出たフェデリカの言葉に、オサスナはぱちぱちと瞬きする。

「なんだよ、急に」

 妻からの突然の愛の言葉に、オサスナの口からはぶっきらぼうな言葉が出る。だが、彼が喜んでいるのは明白だった。

「いつも好きだと思っているけど、なかなか言うタイミングがなくて」
「お互い忙しいもんなぁ。政務と子育てに明け暮れてるもんな……まぁ、でも、幸せだ」
「そうね」
「俺も好きだ。フェデリカ」
「ふふっ、嬉しい」

 お互い視線を合わせあうと、自然と唇が重なった。啄むような軽いキスを交わし合うと、笑い声が漏れる。

 このまま、幸せな時間がなるべく長く続いてくれると良い。フェデリカは隣にいるオサスナの肩に頬を寄せ、少しの間瞼を閉じた。

 <完>
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