口うるさい彼
1989年8月6日 22時 映画『ハリーとトント』放映
1989年。私たちはその前年に二十歳の誕生日を迎えていた。
成人したからすぐ大人ってわけではないけど、高校時代よりはずっと大人になったつもりでいた。
それでいて、高校時代とそう変わらない付き合いを続けているように傍からは見えていたかもしれない。
(もちろんこっそり「大人の関係」にはなっていたけれど)
3年生になっていた私は、「今の地元」で公務員になるつもりで準備をしていた。
でも、敦夫が働いている近所の自治体も受けてみようかなと、ぼんやりと考えていた。
実家に帰るつもりはなかったので、その辺は柔軟に視野を広げてみようと思っていた。
その日――8月6日は住んでいた街で夏祭りがあって、私たちは夜店を冷やかした後、大急ぎで家に帰った。
「みぞれ玉」なんて商品名で売られている、ザラメ砂糖がたっぷりかかった大きな飴玉を1個100円で売っていて、レモン味がいいなと思ったから、「おじさん、その黄色のちょうだい」と100円玉を出し、1個だけ買った。
「そういうのって、かき氷のシロップとおんなじで、全部味一緒でしょ?」
と敦夫は言うけれど、私にはレモンの香味がちゃんと感じられて満足だった。
私が大きな飴を口にくわえたままそう伝えると、ちゃんとくみ取ってくれたみたいで、「美紅は騙されやすいなあ」とさらに呆れられた。
「うるひゃいな…」
アメ玉のせいで唾液が盛んに出るので、さらに話しにくなっている。
彼は優しくて面倒見がいいけれど、口うるさいのがたまに瑕だ
飴を買おうとしたときも、すぐ飽きるとか、子供っぽいからやめなとかさんざん言われ、私は反対を押し切って買ったのだった。
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でも、彼はいつだって正しい。
私は5分もしないうちに、その飴玉に飽きた。
何しろ大きいし、ザラメがはがれ取れるまでは、口中でとげ状になっているんじゃないかというぐらい痛い。
意地になって口の中で転がして、何とか小さくなってきたので、ガリガリかみ砕いたけど、これも「歯のエナメル質が削れちゃうよ」って、いつも注意される。
彼のバイクのタンデムシートに座り、ヘルメットをかぶった状態でガリガリやったので、耳障りな咀嚼音は、私の耳だけを刺激した。
アパートの前についたとき、飴はもう私の胃の中に全部落ちていた。
「あー、またアメ噛んだでしょ?本当に君は…」
「今度から気をつけるから!ほら、映画始まっちゃうよ」
「お――もう53分か」
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その日は22時から、彼が楽しみにしていた『ハリーとトント』という映画をやることになっていた。
彼はまずトイレで用を足して、その後冷蔵庫からウーロン茶のボトルを取り出し、コップとポテチを手早く用意しながら、「美紅もトイレに“いっといれ”」という寒いダジャレを言った。
「えー、別に今行きたくないし」
「この映画は2時間近くあるし、CM入らないからトイレ休憩も取れないんだよ」
「トイレなんて、行きたいタイミングで行けばいいんだよ。敦夫ってば先生みたい」
「先生?」
「休み時間のたびにトイレ行けっていう先生」
「ああ…いるね…」
「とにかく、私は行きたいときにいくし」
「途中でトイレに立ったら、話つながらないかも」
「そのときのために敦夫がいるんじゃん…」
「俺は浜村淳(**下記注)じゃねえよ…映画は人にストーリーを聞くより、自分の目で…」
「私は敦夫の説明を聞くのが好きだからいいよ」
そこで目が線になるほどぎゅっと顔を崩して笑えば、敦夫は大抵のことはこう言って許すことを、私は知っていた。
「…ま、言っても無駄か」
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浜村淳
1935年生まれのタレント・映画評論家。
軽妙な語り口の映画解説が好評な一方で、「オチまで全部言う」という悪い癖があることでも有名でしたが、ご本人は2018年のインタビューで「イメージでそう言われているだけで、実際は『さて、この後どうなるか』と締めていた」と弁明なさっています。
ちなみに「続きは映画館で」と言ったら、離島の方から「近くに劇場がないから見られない。最後まで話せ」という苦情が来たこともあったそうです。
2024年8月、89歳の現在も現役でいらっしゃいます。
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そして私は1時間で後悔した。
すごくトイレに行きたい。でも中座したくない。
この映画、おじいさんと猫と通行人みたいな人しか出てこないのに(雑な説明)、すごく面白くて引き込まれる。
ロードムービーっていうのかな。おじいさんと猫が“ふたり”で、昔の知り合いとか、いろんな人を訪ねて回って、その中でいろんな小さな事件が起こる感じ。
英語がよく聞き取れないから、字幕を追うしかなくて、なお集中してしまう。
後で敦夫に聞けばいいや――と思いつつ、どうしても立つ気になれなくて、結局全部見ちゃった。
ちょっと切なくてさわやかな幕切れに、自然と涙が出てきた。
で、エンドロールを全部見ずにトイレに立った。
劇場だったら「マナー違反って思う人もいるから、気を付けた方がいいよ」って言われるシチュエーションだ。
私がトイレから出てくると、敦夫は「どう?いい映画だったろ?」と得意そうな顔をした。
「うん…何かすごい泣けた…」
「これ、俺が初めて見たとき随分カットされてたみたいだな」
「そうなの?」
「ビデオデッキがあったら、いつでも好きな映画が見られるよなあ…」
まだ再生専用のビデオデッキでもけっこう高い頃だったし、レンタル料金は1泊で500円とかザラだった。
私は貧乏学生で、彼はまだ若くて給料が安かったので、ちょっとずつお金貯めて買うって言っている。
敦夫は社員寮でほかの人と相部屋なので、デッキを買ったら私の部屋にセットすると言った。
「冬のボーナスはそこそこ出るはずだから、それで絶対買えるけど、その前にお金たまったら真っ先に買うよ」
「うん、楽しみにしてるね」