あなたが囁く不倫には、私は慟哭で復讐を。

帰還

 紗央里から届いた気味の悪い段ボール箱は物置の奥に仕舞ったままだ。明穂はそれをごみ収集ステーションに持って行こうかとも考えたが玄関の扉を開けた途端、紗央里が待ち構えて居るのではないかと思い立ち(すく)んだ。

(それに、これも不倫の証拠になる筈)

 然し乍ら紗央里がこれを持って来たという確固とした証拠は何処にも無く、ただの無作為な悪戯だと言われればそうかもしれない。しかもその顔も薄ぼんやりとしか見えておらず無表情で特徴が掴めなかった。

(怖い)

 路地2本先の表通りを通り過ぎる車の気配が昨日の恐怖を思い起こさせた。明穂は玄関扉の施錠を確認するとチェーンを掛けリビングのカーテンを閉めて階段を上がった。

(ーーーどうして)

 明穂は寝室のベッドに寄り掛かり天井を見つめた。

(私のなにがいけなかったの?)

 不倫をした吉高も悪いが自身にも至らなかった点があったのでは無いかと明穂は胸を痛めた。

(ーーーやっぱり目が不自由だから?)

 この2年間吉高は優しい夫だったが、たまの休日に旅行に出掛けても反応が薄い明穂に辟易し、日常生活でも気遣ってばかりで息苦しかったのだろうか。

(でもそんな事、最初から分かっていたんじゃないの?)

 然し乍ら吉高には弱視の明穂と結婚する覚悟など端から無く、ただ大智に負けたくないその一心で求婚した。そんな吉高の軽率な行動を明穂が知る由もなかった。

 そんな時だった。往来(おうらい)でタクシーが停まった音がした。古き良き時代から運行しているタクシーは液化石油ガス(LPG)を燃料とし、昨今の電気自動車のエンジン音とは全く異なる。明穂の聴覚はそれすらも聞き分ける事が出来た。

パタン バタン

 案の定、軽い音で扉が開き、重い音で扉が閉まった。吉高はBMWで通勤し、度々訪れる母親は軽自動車を使う。今日、タクシーで乗り付ける客に心当たりは無かった。

(誰?)

 その革靴の音は隣家ではなく一直線に明穂の自宅玄関へと向かって来た。

ピンポーン

ピンポーン

 それは先の尖った男物の革靴の音で間違い無かった。

ピンポーン

ピンポーン

 明穂は手摺りに身体を預けながらリビングへと降り立った。

ピンポンピンポンピンポン

 痺れを切らしたインターフォンは連打され、明穂は恐る恐るモニターのボタンを押した。そこには見知らぬ人物が立っていた。

 モニターには髪を後ろに撫で付け眼鏡のフレームを光らせた男性が横を向いていた。その神経質そうな男性は細身で濃灰のスーツジャケットらしき物を羽織り深紅のネクタイを締めていた。それにしてもセールスマンがタクシーで乗り付けるなど聞いた事が無い。

「どちら様でしょうか」
「どちらもこちらもねーよ!早く開けろよ!」

 隣近所に響く声。

「大智?」
「おう、大智様のお帰りだ!早く開けろって!」
「大智!」

 吉高と似ているがやや(しゃが)れた声がインターフォンのマイクに唾を飛ばした。その人物は帰りを待ち侘びた仙石大智だった。明穂は慌てた手付きでチェーンを外すと鍵を回した。ドアノブを下ろす間も無くその扉は開き、なんの躊躇(ためら)いも無く華奢な明穂の身体を抱き締めた。

「ちょ、ちょっと!」
「ちょっともなんもねぇよ!3年振りの再会に遠慮はいらねぇよ!」
「わ、私、もう吉高の奥さんなのよ!」

 大智は後ろ手で扉を閉めると今にも口付けしそうな勢いで顔を近付けた。明穂はその唇を両手で塞ぎそれを拒んだ。

「チッ、減るもんでもねぇし」
「減るわよ!」

 大智は「ちわーっす」と軽い挨拶で革靴を脱ぎ散らかし家の中を見回した。明穂が革靴を揃えていると便所は何処だと尋ねその扉を閉めた。

(え、帰りは明日じゃなかった?)

 余りにも突然の出来事で唖然とした明穂だったが我に帰り玄関扉を施錠した。
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