あなたが囁く不倫には、私は慟哭で復讐を。

不倫現場




 京都大学病院の学会に一泊二日で参加したという吉高の顔は魂が抜けた様に惚けていた。しかも明穂が使っているオードトワレは微香でこんなに強い匂いではない。

(頭が痛くなりそう)

 それに吉高の体臭がいつもと違う。スーツからは畳のい草の匂いがした。

(紗央里さんと一緒に居たのね)

 つい、吉高と紗央里の情事を想像し悪寒が走った。土産だと手渡された生八つ橋は事前に通信販売で取り寄せた物だろう。「ありがとう、気を遣わなくて良いのに」そう微笑みを浮かべ受け取ったが今すぐにでもゴミ箱に捨てたい衝動に駆られた。

(これは明日のごみ収集に出すしかないわね)

 吉高は「教授の話が長くて疲れたよ」と在りもしない学会の愚痴を溢しながら風呂場へと入って行った。吉高が妻と同じ銘柄のオードトワレを不倫相手に買い与えているとすればボディーソープやシャンプーも自分の家と同じ銘柄の物を紗央里の家に常備している可能性があった。

(気持ち悪い)

 吉高のもうひとつの顔、もうひとつの家が存在する事に吐き気がした。

(美味しくない)

 紗央里に(うつつ)を抜かし誠意の欠片も無い顔と向き合って夕飯を口にしたがまるで砂を噛んでいる様で味がしなかった。

「おやすみ」
「おやすみなさい」

 新婚当初は別々のベッドで眠る事に寂しさを感じたがこの不協和音にあってはツインベッドで良かったと心から安堵した。然し乍ら安眠は訪れず霞がかった朝を迎えた。

「どうしたの、顔色が悪いよ」
「あまり眠れなくて」
「明穂は家の中に引き篭もっているから運動不足なんじゃない?」
「ーーーーえ」
「お義母さんの家に遊びに行ったら?」

 呆れた。

「そうね、そうしようかな」
「今晩、泊まってくれば?」
「泊まるなんてそんな急に、お母さんも困るわ」
「そうしなよ気分転換にもなるよ」
「そうかな」
「うん」

 吉高は紺色のネクタイを締めながら機嫌良く出勤して行った。確かにこのままでは息が詰まって憎悪の沼で溺れてしまいそうだった。

 明穂は思い悩んだ挙句実家に泊まる事にした。

「ただいま」
「あら!吉高さんはどうしたの、今日は一緒じゃないの?」
「うん、いつもより出勤時間が早いんだって」
「なら電話してくれれば迎えに行ったのに」

 明穂がタクシーで実家の玄関先に乗り付けると母親は「吉高さんに送って貰えば良かったのに」と不思議そうな顔をした。確かにこれまで出勤退勤の道すがら送迎をしてくれたのだが今朝はその事について一言も触れなかった。もしかしたら紗央里の件で実家や田辺の家に顔を出し辛いのかもしれない。

(ーーー吉高さんも馬鹿ね)
「なんや明穂、疲れた顔して」
「そうかな」
(うち)ん中にずっとおるからや、出掛けるぞ」
「う、うん」

 定年退職を迎えた父親は娘の帰りを喜び「鮎でも食べに行こう」と金沢市郊外まで明穂を連れ出した。

「吉高くんも誘った方が良かったかな」
「吉高さんは忙しいから」
「やり手の医者らしいな、近所でも有名や」
「そうなの?」
「そうや、仙石の家も(うち)も自慢の息子やって鼻高々や」
「大袈裟」
「いや、ほんとやぞ」

 満面の笑みで娘婿の自慢話をする父親に吉高の不倫や離婚を考えている事など到底切り出せる雰囲気では無かった。そこで大智の話題が上った。

「大智くんも偉い立派になっとって驚いたわ」
「本当にそうね」
「私もびっくりしたわ」
「ありゃ、明穂はもう会ったんか?」
「あ、あぁ、うん」

 大智が勤務する佐倉法律事務所は東京都に事務所を構えており大智は東京のマンションに帰っていた。なんでも金沢市に戻って《《やりたい事があるから》》こちらでの勤務先を探しているのだと言った。

「Uターンてやつね」
「勿体無い、東京の方が楽しいやろ」
「まぁ大智くんが帰って来たいって言うんだから良いんじゃない?」
「ところで、田舎に戻ってまでやりたい事ってなに?」

「わからん」
「なんだろ」
「若い人の考えている事は分からないわぁ」

 そこで明穂は大智の名刺を母親に預けておこうと考えた。

「ねぇお母さん、忘れ物を取りに戻りたいの」

 ところが母親は婦人会の会合に出席しなければならず父親は既にビールを呑んで赤い顔をしていた。

「今日じゃないと駄目なの?」
「大智の連絡先なの、大事な物だからお母さんに持っていて貰いたいの」
「分かったわ、明穂は言い出すと聞かないから」
「頑固なところは母ちゃんに似たんや」

 明穂がそこまで(こだわ)った理由はもうひとつ有った。結局大智は吉高に会いに来なかった。そこにはなんらかの理由があるからだと考えた明穂は大智の名刺を吉高に見られてはならないと思った。

「10分で戻りますから待っていて下さいますか?」
「あぁ、料金メーター止めておきますわ」
「ありがとうございます」

 明穂がタクシーを降りると玄関先に柑橘系の香りが漂っていた。それは玄関扉のドアノブ辺りから匂い立ち、鼻先を近付けるとシャネルのチャンス オー ヴィーヴ が(私は此処にいるわ)と自己主張した。

(ーーーまさか)

 明穂の心臓は昂り呼吸が乱れた。音を立てないようにゆっくりと鍵を回して解錠し玄関扉を開いた。白いダウンライトの下には自分の物ではない白いサンダルが揃えられていた。こめかみが脈打ち全身の血が逆流するのを感じた。

(そんな、まさか)

 明穂はリビングのチェストからデジタルカメラと大智の名刺を取り出した。名刺はショルダーバッグのポケットに入れ、指先は自然とデジタルカメラの電源ボタンを押していた。微かな起動音に口腔内が乾いた。

(オートフォーカス、フラッシュはーーー無し)

 もし、もしその場所に誰かが居たとして、それがどんなに衝撃的な場面であっても迷わず撮影ボタンを押す。けれど相手に悟られてはならない。明穂の手のひらには汗が滲み、手摺りから指先が滑り落ちそうになった。裸足の足裏が階段に貼り付いて気持ちが悪かった。

(あぁ)

 寝室の扉は僅かに開いていた。

(あぁ、やっぱり)

 明穂は(ひざ)から崩れて行きそうな感覚に捕らわれた。(ひじ)が落ち着かず手首が小刻みに震えた。薄暗い部屋のカーテンの隙間から伸びる夕暮れに2人の姿が浮かび上がった。

「あっ、あっ」

 荒い息遣いに熱気が篭る寝室。吉高はベッドに脚を投げ出し豊かな乳房に手を伸ばしていた。紗央里は吉高の下半身に跨り激しく腰を上下させている。明穂は自宅で繰り広げられる痴態に顔を背けた。然し乍らこれは決定的な不倫の証拠になる。

(見つかってもいいわ!)

 意を決し(わき)に力を込めてデジタルカメラの撮影ボタンを押した。

「ああっ」
「んっ!んっ!」

 絶頂が近い2人はデジタルカメラのシャッター音にも気付かず腰を振り続けた。俯き加減の紗央里の表情は見えないが、仰向けになり性行為に無我夢中の吉高の顔はSDカードの中に収められた筈だ。

ぎしっぎしっぎしっ

「ああっ」
「さお、紗央里!」
「あっ、あっ、あっ」

 激しく軋むベッドのスプリング音、2人の汗の臭いに絡み付くチャンス オー ヴィーヴ に吐き気を催した。胃から込み上げる悲しさや憎しみ、(おぞ)ましさを堪えて階段を降りた。

「ああっつ!ああっ!」
「で、出る!」
「出して!出して!ああ!」

 明穂はサンダルに足を入れようとしたが足首が震えて上手く履けなかった。(らち)が明かずサンダルを手に持ち素足で玄関ポーチを飛び出し慌てて玄関扉を施錠した。

(早く、早く此処から!早く!)

 タクシー乗務員は運転席のシートを倒し一休みしていた。後部座席の窓を小刻みに叩くとその音に気付きドアがゆっくりと開いた。

「お客さん、大丈夫ですか、顔色悪いですよ」
「あ、ありがとう、早く、早く行って下さい」
「あ、はぁ」
「早く!」

 明穂の手には辛い現実だけが残った。

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