あなたが囁く不倫には、私は慟哭で復讐を。
(僕のプレゼンテーションが始まる頃だ)

 吉高は腕時計の針に目を落としながら絶望感に襲われた。不倫の証拠が明からさまになった今、この頃合いで大智が医学発表会の壇上でなにをプレゼンテーションをするかなど想像に容易(たやす)かった。

(既読にならない)

 紗央里に送信した おはよう♡ のメッセージも既読にならない。多分に紗央里の自宅にも弁護士が訪ねたのだろう。吉高は辰巳の目を盗んで紗央里とのLINEトーク画面を全て削除した。

「仙石さま、そろそろお時間です」
「は、はい」

 明穂の実家が近付いて来た。白い壁、通りに面した窓ガラスは閉め切られ人の気配がない。《《みなさまお待ちです》》とは明穂や義父母も集まっているのかもしれない。その不安げな表情を察した辰巳は悪戯心でその背中を奈落の底寸前まで突き落とした。

「ご心配の様ですね」
「なにがですか」
「お相手の方のご自宅には島崎という弁護士が伺っております」

(ーーーやっぱり)

「佐藤教授はご立腹の様でしたよ」
「え、きょう」
「ご存知なかったのですか、佐藤紗央里さまは佐藤一郎教授のお嬢さまですよ」
「佐藤教授」
「おや、ご存知なかった?」
「そんな事は一言も」

 吉高の口元は歪み歯の噛み合わせがガタガタと音を立てた。

「たったひとりのお嬢さまだとか、さぞ可愛がっておられた事でしょうね」
「まさか、そんな」

 大智のプレゼンテーションの内容が如何かを心配する以前に、自身は犯してはならない禁忌に足を踏み入れていた。大学教授のひとり娘と不倫、大学病院での地位も名誉もその存在すら風前の灯だ。

「さぁ、ご自身で開けて下さい」
「は、はい」

 吉高は久しぶりに訪れた実家の前に立ち、その引き戸に指を掛けた。
「ただいま帰りました」

 家の中に人の息遣いはあるが誰も迎えに出て来る気配が無い。吉高が玄関の三和土(たたき)で静かに革靴を脱ぐと奥の座敷で父親の厳しい声色がした。

「吉高、おかえり」
「あ、ただいま」
「ちょっとこっちに来なさい」
「はい」

 動悸が止まらない、口の中はカラカラに乾くが脇の下と足裏には汗が滲み出た。座敷の襖を開けると冷房のひんやりとした風が首筋を撫で、足元には何枚もの写真が百人一首の様に並べられていた。

「おはようございます」
「おはよう」

 上座には着物を着た父親が正座で吉高を迎え入れた。その向かって左側には母親と弁護士の辰巳が着座し、右側には義父と義母、明穂が暗い表情で畳に目線を落としていた。

「ーーーあ、あの」
「座りなさい」
「はい」

 血の気が引いた吉高は力無く下座に座った。

「吉高、おまえが何故ここに呼ばれたのかは分かるな?」
「は、はい」

 父親は一枚の写真を母親に持たせた。母親はそれを凝視すると辰巳へと手渡した。辰巳はその写真を吉高の前に置いた。

「その女は誰だ」
「あの」
「誰だと聞いているんだ!」
「佐藤、佐藤紗央里、さんです」
「大学病院の教授の娘だそうだな」
「それは先ほどその方から聞いて初めて知りました」

 吉高は辰巳を見て項垂れた。

「そんな事も知らずに、この(たわ)けが!」

 その写真には紗央里を家に招き入れる吉高の笑顔が写っていた。吉高はいつの間にこんな画像が撮られたのかと目を凝らして見ると、車庫に停まっているBMWのバックミラーにカメラを構える隣人の姿が映っていた。

(ーーーくそっ!)

 父親は眉間に皺を寄せたその瞬間を見逃さなかった。

「ご近所さんはこの女が頻繁に家に出入りしている事を知っていたぞ!」
「ーーーえ」
「おまえはそんな事にも気付かず回覧板を回していたそうじゃないか!恥ずかしく無いのか!」
「そんな」
「こんな堂々と明るいうちから女を家に連れ込んで!そんな事も分からなかったのか!」
「これは、これは佐藤さんが資格を取る為に分からない事があるから!だから家に来て貰っただけで!」

 辰巳が背後から段ボール箱を取り出し吉高の前に置いた。それは見覚えのある点滴パックの段ボール箱だった。

「中を見てみろ」
「は、はい」

 蓋を開け、恐る恐る手を入れると黒い毛の塊が指先に触れた。取り出して見るとその腹はカッターナイフで切り裂かれ、小粒の発泡ビーズがざらざらと零れ落ちた。

「ひっ!」

 すると玄関先で「失礼します!」と声がして額に汗を滲ませ顔を真っ赤にした島崎が座敷に転がり込んだ。「ま。間に合ったか!」「丁度今開けた所だ」島崎はポケットからジップロックに入れた黒いカードを取り出した。

「吉高、読んでみろ」
「は、はい」
「早く!」
「ーーーー《《死ね》》」

 吉高の息が止まった。

「ただの看護師がこんな物を送り付けるのか!」
「それは悪戯で」

「しかも明穂さんの目の事も、名前も知っていたそうじゃないか!」
「それは」
「おまえが話したんだろう!」
「それは話の流れで」

「それに!さお、佐藤さんがこの段ボール箱を送った証拠は!」
「証拠ならございます」

 辰巳は監視カメラに写った宅配便業者に扮した紗央里の姿、レンタカーとそのナンバープレート、借り主が紗央里である事を証明する免許証や書類のコピーを吉高の目の前に並べた。

「そ、そんな」
「明穂さんに嫌がらせをする程、おまえと深い仲だったんじゃ無いのか!」
「こんな事をしたなんて聞いていません!」
「言うわけが無いだろうが!」

 父親は畳を激しく叩き写真がふわりと舞い上がった。

「それから、これを見ろ!」
「これは?」

 その写真には青空の中に醜く歪んだ表情の紗央里が写っていた。セルフタイマーでの自撮り写真にしては不自然だった。

「これは、なんですか」
「明穂さんがデジタルカメラを持ち歩いていた事は知っているな」

(あ、あぁ、そんな物もあったな)

 吉高は明穂が撮っていたデジタルカメラの画像を見た事など無い。興味関心など無かった。そもそも大智が明穂に贈った忌々しいデジタルカメラ等捨ててしまいたい衝動に駆られた事さえある。

「ーーーはい」
「これは明穂さんが公園で転倒する瞬間に撮った物だ」
「どういう意味ですか」
「紗央里という女が明穂さんを突き飛ばしたんだよ」
「まさか!」

 吉高は身を乗り出した。

「まさかも何も、その女の腹の中には赤ん坊が居るそうじゃないか!」
「その事をーーなんで!」
「明穂さんが疎ましかったのか!」
「そんな事は一度も!」
「妊娠させてどうするつもりなんだ!」
「それは佐藤さんが勝手に!」
「黙れ!」
 
 これまで聞いた事の無い父親の怒号に吉高は飛び上がった。
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