愛でも、勝たんし。

 太陽は存在しない。いつだって、私から明かりを奪うのだ。
 アパートとブロック塀の狭い敷地に植えられた樹木が野放しに生い茂り、北側のベランダを覆い被さるように侵食していた。窓いっぱいに迫った枝と葉は光を遮り、開閉すら許さない。夏の近づく午前の風も、私たちから取り上げた。
 唯一、日が差し込む、このキッチンの小窓が日々の生活を支えてくれていた。生きるうえで必要不可欠な明かりは、私たちの希望そのものだった。
 しかし、今は奪われた。
隣に建てられたばかりのタワーマンションが太陽を奪い、独占したのだ。
小窓を開放すれば、マンションの外壁が窓いっぱいの景色となり、風の流れも大きく変わった。私たちの部屋にやって来た優しい風も、もう訪れることはない。息の詰まるこの部屋の空気の入れ替えは、換気扇が手っ取り早くなった。
午前の蛍光灯の明かりの下、私は豆苗の切り株についたぬめりを、水で洗い流している。
 マロくんから初めて貰った、物質の誕生日プレゼント。失いたくないから再生栽培中だ。
 しめじが入っていたプラスチックの容器を再利用し、今は豆苗の栽培容器として使用している。
水を入れ替え、根を浸す。人口の明かりに向かって、真っ直ぐに伸びようとしている豆苗は、いつもこのキッチンから私たちを見守ってくれていた。
ガササッと布が擦れる音がした。隣の居間で寝ているマロくんが寝相を変えて、顔を布団に深く埋めていた。
「マロくん?」
返事はない。きっと、慣れない仕事で疲れているのだろう。目覚める気配は感じない。
「土曜は、ちほとドンキに行くっしょ!」と二日前から張り切っていたマロくんは、ドンキデートとなれば、私よりも早起きするのが常なのに。今日は私の方がひと足先に浅い、浅い眠りから目が覚めた。
留守になれば真っ暗になるこの部屋。出掛けるまでに光合成をさせときたい私は、スマホの懐中電灯の機能をオンにし、豆苗に向けて光を放つ。
途端に女優のように神々しくなる豆苗の姿が、昔テレビで見たハリウッド女優と重なった。
インタビュー中だった、そのハリウッド女優は、足元から顔に向かって、白いライトが放出されていた。なんだか異常に画面越しからも眩しくって、子ども心ながらにアメリカ人すげぇな! って思ったっけ。きっと、そのスタジオじゃ一人だけ不自然に輝いていて、浮いていたはずだろうに。しかし、その女優からは全く恥じらいも、申し訳なさも感じなかった。そりゃそうだ。仕事なんだから。
だけど、毅然としてそこに存在し続ける姿が、目の前の豆苗と重なったのだった。
私は思わず小さく笑う。重々しく漂う灰色の雲の隙間から、細い一筋の光が差し込んだように、心が明るくなったのを感じた。

昨夜だった。
残業で帰りが遅くなった私は、近所のスーパーに寄り、半額シールの貼られたお弁当を二つ買って、店を後にした。
今週もクレーム対応にひたすら処理する一週間だった。『未だに商品が届いていない』『購入した商品と全然、違うものが届いた』『一体、いつになったら商品が届くんですか?』『詐欺め! 謝れば済むと思ってるんだろ!』なんだのかんだの。
仕事といえども、個人的に関係のないクレームに対して頭を下げ続けること程、どっと疲れることはない。
しかし、なんとか今週も乗りきった。明日はやっと解放される。休日だ。デートだ! 半額弁当をマロくんと頬張りながら、一杯飲もうとビールも買った。これから起こる小さな幸せに胸は高まる。  
店の周囲は、街灯に照らされた駐輪場に、数台の自転車が止めてあるだけだった。人気はない。主婦の買い物時間帯をとうに過ぎたスーパーは、店内も店外も静かだった。
人から気力を奪うような、雨上がりのじめっとした暑さが肌に纏わりつく。私は湿気で重くなった空気を切り裂くように、片膝を振り上げた。もう片方の地面に着いている足は軽く飛び跳ね、再び軽く跳んだ勢いで、更にもう一度跳ぶ。そして今度はその足の膝を、思いきり空中に振り上げる。交互に三歩ずつ弾んで進行するこの歪なスキップは、大人になった今でも、私が密かに続けていることだった。
通常のスキップより一拍多い、タン、タッタッ。タン、タッタッのリズムで風をきって進んで行く。 
よく、おかしなフォームだと姉や同級生、体育の先生に笑われた。一生懸命やればやる程笑われた。私の体はこの個性的なスキップしか出来ないのだから仕方がないというのに、笑われた。
それでもスキップをすることで、全てのしがらみから自由になれたような気がし、その開放的な気持ちは、不思議と自分に自信を与えてくれていた。
だから、今週も頑張って乗り越えられた自分に対しスキップを踏
んであげる。静かな夜の空間に、一歩二歩と足が軽快に地面を弾み、三歩目の膝を振り上げた。
「あれ、ちほじゃない?」
 女の声が、私を呼び止めた。
この街で知り合いは疎か、ちほと呼ぶ人などマロくんしかいなかった。思い出も過去も、縛りもないこの街で、私のことを下の名前で呼ぶ誰か。
緊張が全身に走り、三歩目の片膝を振り上げたまま、体は硬直する。
 私の名を知っているということは、知り合いだろうか。だとしたら、どうしてここに? まさかスキップを見られていた? 誰に? 
見られていないことを切に願い、上げていた片足をゆっくり下ろす。恐る恐る声のした方へと振り向いた。
駐輪場で女が一人立っている。様子を伺うように眉根を寄せ、こちらをじっと見つめる。気のせいでも、同名の別人を呼んだのでもなく、その視線は明らかに私に向けて呼び止めたことを示していた。
しかし、その女に覚えはない。
強面の男性が多い職場に女性は一人居るが、重鎮感漂う貫禄に、横幅の広い体つき。目の前にいる女とは、決してタイプが違っていた。
私を見つめ、佇む女はよほど自分の体型に自信があるのだろう。ぴったりとした黒のタイトのワンピースを着ており、見せつけるように自分のS字ラインのスタイルを強調していた。バストはいやらしくない程に存在し、ウエストはキュッと締まっている。筋肉で仕上がったヒップは、体の部位で特に強調されていた。
足元は不釣り合いに、スポーツブランドのロゴが入ったシャワーサンダルを履いている。使い切ってしまった日用品を突如、自転車で買いに来た感のアンバランスな出立ち。しかし、そのアンバランスさえも、目の前にいる女を通せばお洒落に見える。そんなカリスマ性を持った人など職場はおろか、私の周りにはいなかった。
「え、違ったかな」
 顔を前に突き出し、私の顔を確認する。その時、街灯の明かりに照らされた女の目元に、小さなホクロが二つ並んでいるのが見えた。
――翔子だ。
学生の頃からチャームポイントだった、翔子の二つ並んだ小さなホクロ。それに、ここ最近は胸下まで伸びた髪を、毛先だけ巻くヘ
アスタイルにしていることを私は知っていた。
 まさしく、そうだ。目の前にいるのは、私の知っている翔子だ。
「しょ、うこ……?」
「やっぱり、ちほだァ〜!」
 翔子の表情が途端に華やぐ。両手をひらひらさせ、私に駆け寄る。しかし、何故ここに翔子? と疑問が湧くも、翔子の明るく弾む声は、私の疑問をかき消した。
「本っ当、久しぶりなんだけど〜! 絶対、ちほじゃないかなって思ったんだよね〜! やっぱり、当たりだー!」
 私との再会を喜んでいるというより、自分の予想が当たって、内心私ってさすがッ。とでも思っていそうな大きな喜び。でなきゃ、余程親しかった間柄でない限り、こんなに喜ぶだろうか。疑問は残る。
「ってかさ、ちほ変わらないね〜」
 翔子の黒目が上下に動き、私の全身をチェックする。
「えーそうかな? 変わらないかな? ってか翔子も変わらないよー」
 私にとっては一昨日ぶりなんだから、当然変わる訳がないだろう、と思う。嫌でも目に入る翔子のSNSの写真。一昨日どころか、翔子との三年間の空白は充分に埋められていた。
しかし、私の口は流暢に動き続ける。
「ひょっとしたら翔子かな? ってよぎったんだけどさ、やっぱり翔子だった! へへ」
 恐ろしくも六年間築き上げた習慣は、未だ健在だ。瞬時に声を高くし、意味もなく楽しげに笑う。作りものめいた女同士の共鳴感が、馬鹿みたいだなと思う傍、条件反射で翔子に寄せる。
「えー、本当? ってか、何してたの? ひとりでヤバい動きしてる奴いたから、動画撮る勢いだったんだけど。なに、私にドッキ
リ?」
 心臓がギュインと縮む。やっぱり、見られていた! 見られていたのだ! 密かに夜暗に行うスキップ。唯一、本当の自分になれるスキップ。誰にも嘲笑われないよう、厳重に守ってきたものが、今奪われた。
額から流れ落ちる汗を拭い、とりあえず笑顔で取り繕う。
「は、はははは」
「んもぅ。驚かさないでよォ〜。マジ、ヤバい奴かと思った〜。本当、ちほってそういうところ、変わらないんだからァ」
 頬に空気を含ませ、プンスカと怒った表情を作る翔子。「そういうところ」とはどういうところだろうか。疑問が残る。
「ってかさ、うちらって同窓会ぶりじゃない?」
と言い、翔子はニコッと上唇の両端を引き上げる。不自然に、真っ白く整った歯が覗いた。当然ながら、八重歯はもうない。
「そうそう、同窓会ぶりだよ! ヤバいよねー」
 私も大袈裟に頬を持ち上げ、笑顔で応える。きっと口元からは、
コーヒーと緑茶で黄ばんだ歯が剥き出していることだろう。若干、悔しさと悲しさが込み上げる。
「ほら、それッ」
 翔子のピンク色の爪先が、私の肩にかけるバッグを指す。
「チャーム。同窓会の時もつけてたじゃん? だからひょっとして、ちほじゃないかな〜って思ったんだよね」
レザー素材で作られた、ピンク色のロボットのチャーム。海外ブランドの限定品だった。同窓会の時に着ていく服があまりにみすぼらしく、せめて一箇所だけでもブランド品でカバーしようと買ったものだ。勿論、リサイクルショップで購入した。店主が品物の価値をわかっていなく、破格の値段で売りに出されていたのが、幸いだった。
「よく覚えてるね」
 まさか、翔子が私のチャームを覚えてくれていたなんて。意外だった。
「覚えてるよ〜。珍しく、ちほが可愛いの身につけてるなーって思ったんだもん」 
 珍しく?
 私の心に、チクリと針が刺さる。
「それに、今でもつけてるなんて本っ当、昔から物を大切にするよね〜。私も、見習わなくっちゃっな」
「ははは、そうかな」
 私は額をポリポリ掻いた。頬の筋肉が強張るのが自分でもわかる。
 物を大切にしてるんじゃない。金がないからだ! 三年間もバッグにつけ続けていれば、縫い目はほつれ、汚れが目立っていた。きっと翔子は、このチャームから私に余裕がないことを既に見抜いているのかもしれない。顔から流れた汗が次々と首に滴る。
「フフッ。相変わらず、反応可愛いなァ」
 微笑む口元に添えた翔子の左手。薬指から、キラリと小さく光が反射した。
 そうだった。翔子が先月、SNSで結婚報告をしていたことを思い出す。わざわざ夫婦並んで映る結婚報告の動画をあげていて、内心、芸能人かっ! と突っ込んだっけ。
 私はとぼけて、質問をしてあげる。
「あれ、結婚したの?」
「え? ああ、そうなのッ」
「もしかして、稲本くんと?」
 小さな勇気を振り絞り、稲本くんの名を口にした。
私が一方的に想いを寄せていた、高校の同級生だった稲本くん。当時、「ちほが好きだったなんて、知らなかった〜」と翔子に横取りされたのは忘れない。高校卒業してから別れたと噂で聞いていた。だから同窓会は稲本くん狙いで参加した。しかし、その同窓会きっかけで翔子と稲本くんが復縁したと、風の噂で耳にした。その場でいい感じになってたし、特別驚かなかったけど。
「稲本くんって」
 ケラケラと笑い出す、翔子。
「とっくに別れたよォ〜!」
「え、そうなの?」
 初めて耳にしたかのように大袈裟に眉を上げ、目を見開く。と言っても、翔子から直接別れた報告を聞くのは初めてだったが。
「当たり前じゃん! いつの話よ? 高校卒業して別れたよ?」
「いや、同窓会でいい感じだったからさ、稲本くんと翔子。てっきり復縁したのかな? って思ってた」
「あー、はいはい。ちょっとだけね。けど、ダメよ。あいつは」
「ダメ?」
「経済力が無さ過ぎィ〜。お遊びはいいけど、結婚なんて論外」
 中学生の頃から既に言っていた「結婚は年収二千万円以上の人じゃなきゃ、嫌だなァ〜」という、恵まれた人のみが許されるセリフ。だったらどうして、成績が下の中レベルだった稲本くんと付き合ったのだろう。せめて友達、いや、子分におこぼれくらい残す慈悲の
心はないのか。
 もうどうでもいいことなのに、当時の憤りが込み上げる。
「あ、そういえば、ちほ、稲本くん好きだったっけ? 今、チャンスなんじゃない? お似合いだと思うんだけどなー。 あ、でも彼氏いたっけ。ほら、弁護士の彼氏いるとかって同窓会の時、言ってたよね?」
「え? あー、ははは」
 焦る。それは、咄嗟についた嘘だった。結局、大人になっても翔子を超えられなかった私は、一度くらい嘘で同等になってやろうと思い、大手の広告会社に勤めている忙しい自分を演じ、弁護士の彼氏と交際中なんだと言ってやった。二度と会わないなら、嘘で塗り固めても罪はないと思ったのだ。
まさか、地元から電車で二時間も離れたこの場所で、三年越しの再会をするとは夢にも思っていなかった。そして、再度この話題を持ち出されることになるとも。
「っていうかさ! まさかこんな所で翔子と再会するなんて思わなかったよ! もう! なんで翔子がここにいるのよー。え、なんでー?」
 強引なテンションで、確実に広げられない話題を逸らす。そもそも、一番最初に聞きたかった疑問。翔子のペースから、ようやくこ
っちが主導権を握り、軌道修が正出来たような、地味〜な優越感が湧いた。
「私? 越してきたから」
「越してきた?」
「うん、一ヶ月前に。すぐ、そこなんだけどさ。ほらッ、あそこ」
 翔子のピンク色の爪先が、今度は夜空に聳え立つタワーマンションを指した。
「あの一番上の右の角部屋。わかる?」
心臓がドクッと悲鳴をあげる。
翔子が向けた指先は風も景色も、明かりさえも奪ったあのタワーマンションだった。いつだって、私を見下ろし嘲笑っている隣のマ
ンション。
「まだ、全然片せてない状態でさァ〜。この辺もよくわかないし」
 顔から血の気が引き、翔子の声が遠ざかる。
結局、変われることなんて出来ないのだ。
私から奪い、嘘でも同等になることは許されない。やっぱりな、という言葉が私の脳裡に駆け巡り、力が抜ける。
「ちほは?」
「へ?」
 私の手に提げられたスーパーの袋。翔子は視線を落とし、顎で指す。
「この辺に住んでるの?」
「え? あー」
なんて答えよう。翔子の住むタワーマンションの一部の住民から「ご近所@スレ」で、街の秩序を乱すと叩かれまくっている、隣のボロアパート。そこに住んでるだなんて、口が裂けても言いたくない。
話題を逸らそうと思うも、私の優秀な口は、勝手に動いてくれていた。
「ここのお弁当、ネットで美味しいって騒がれててさー」
翔子の眉間に皺が寄る。私は手に提げたスーパーの袋を上に掲げる。
「でね、すっごくハマっちゃっててさ! は、はははは。本当に! あ、翔子も今度食べてみてよ〜。口に合うかわからないけどさ」
「ねえ、この辺に住んでるの? って私、聞
いたんだけど」
 苛立ちとも、呆れとも取れる溜息が翔子の分厚い唇から漏れる。
「え? あー」
 私の意思と反して、首は勝手に横に振る。
翔子の眉毛が意外そうに僅かにピクリと動いたのを、私は見逃さな
かった。
「ちょっと歩くんだけど。あそこ、に、住んでるよ」
 色のない爪先で翔子の背後を指で差す。圧倒的な存在感が、この離れた距離からでもわかるタワーマンション。夜空の星に届きそうなほど高く、王者の風格と言うべきマンションは、有名人が住んでると一時「ご近所@スレ」内で噂が流れた。都市開発が進む、この街のシンボル。私はその最上階に向けて、真っ直ぐに指を差していた。
私は翔子を一瞥する。翔子の頬は引き攣り、目の下の二つ並んだ小さなホクロが、小刻みに痙攣してた。あんなにワザと臭く吊り上げていた唇の両端は今ではゆるみ、だらしなく口が開いている。人工的に作り上げる表情は途端に崩れ、一気に老けた顔がそこにはあった。
私は込み上げる笑いを堪える。一度でも叶えたかった、翔子の上に立つこと。それが虚偽の勝利だろうと、今叶うことが出来たのだ。人を見下ろす景色は素晴らしかった。優越感と余裕、自分への誇り、そして下の者へ憐れむ心。初めて味わう感覚に、私は浸った。この瞬間だけでも浸った。
翔子は気を取り直し、余裕のある笑顔を作りあげるも、その表情は強張っていて蝋人形みたいな笑顔だ。私はそんな翔子を相手に、優雅に微笑み返していた。

結局、昨日の夜は大して美味しくもない弁当を数口食べて残飯に捨てた。ビールも苦味しか感じられず、シンクに流した。マロくんとの会話もろくにせぬまま、直ぐに布団に入って現実逃避した。
キッチンの小窓から見える、タワーマンションの外壁。今も最上階から悠々と生活を送っている翔子を想像すると、途端に胃の奥がきりりとした。
私は光に照らした豆苗を撫でる。まだ小さく伸びっきていない茎と葉が、柔らかい感触を残して手のひらに伝う。その愛らしさは、私の中の母性を目覚めさせ、生きる気力を奮い立たせてくれる。
深呼吸をし、気を引き締める。
「よしっ」
スマホを側にあったサラダ油に立て掛けて、豆苗に放つ白い光を固定した。
埃を被った壁掛け時計は、九時四七分に針を指している。支度を考えれば、そろそろマロくんを起こした方がよさそうだ。
ドンキデートのルーティーンは三つある。
朝マックを食べてからドンキに行くか、家でおにぎりと特盛もやし味噌汁を作って腹ごしらえしてドンキに行くか。又は、ドンキの食品コーナーで買ったお弁当を公園で食べてから、ドンキ巡り再開パターンか。
 昨日は確認しそびれた。いや、意図的にしなかった。中学校をとうに卒業した男女のデートが、マックとドンキ。どうせ翔子には無縁の場所だろうと思うと、行く気が失せた。
しかし、大反省した。マロくんとドンキデートだろうが朝マックだろうが、楽しい事実に変わりはない。翔子ともし鉢合わせしたら、今までのは冗談だったとか、エイプリルフールだと思ってたとか、なんとかかんとか。適当に言ってやればいい。
 朝マックは十時半までだ。珍しく寝続けるマロくんを起こしに行くことにする。
「ねえ、マロくん。そろそろ、起きないと。朝マックするなら間に合わ……ないよ……?」
 マロくんの背中が震えていた。
「マロくん?」
「……うぅ……ぅぅ……」
顔を埋めた布団から、籠った唸り声が聞こえてくる。
「どうしたの」
 背中を揺らすも、返事はない。
「マロくん、どうしたの。何かあったの?」
「……うぅ……ぅぅ……」
「マロくん!」
 唸っているだけでは会話も出来なきゃ、理解も出来ない。呼び掛けても泣き続けるだけのマロくんに、苛つきは募り、私の口調は荒くなる。
「ねえ、マロくん! 泣いてるだけじゃわからないよ。ドンキ行くんじゃないの?」
 返事はないが、唸り声は小さくなった。鼻水をすする音。むせる咳。
ようやく、布団から顔を上げたマロくんの目は濡れていた。その大きな黒い瞳は、宇宙のように澄んでいて、マロくんに当たってしまったことを後悔させる。
「……ドンキ」
「え?」
「……ドンキ、行けねぇよ…………俺っち……もう……一生、ちほとドンキ行けねぇんだ」
 顔を歪め、再び宇宙のように澄んだ黒目から雨が降り、頬に伝う。
もう一度布団に埋まろうとするマロくんに、私は慌てて布団を剥ぎ取り、放り投げた。
「ちょ、ちょっと待って! 全然わかんないよ! お、落ち着いて
よ。ねえ」
私が、しどろもどろになってどうする。 
マロくんは鼻水を啜りながら、「うぅ……」と頷いた。
私は慌ててキッチンへと戻り、冷蔵庫を開ける。中には四角い紙パックの野菜ジュースが、ぎっしりと大量に詰め込まれている。私は二つ手に取り、冷蔵庫の扉を強く閉めた。
マロくんは、数日前の仕事中に、くしゃみを連発したらしい。風邪だと思って、慌てて沢山の野菜ジュースを買い込んできたのだ。生まれて一度も薬なんて飲んだことがなく、全ての病を野菜ジュースで治してきたと自信満々に言っていた。「だから、俺っちと野菜ジュースは、マジ最強コンビ説」と強気に豪語していた態度は、何処へやら。
今では、数ヶ月も敷きっぱなしになった布団の上で、膝を抱えて小さく丸まっているマロくん。不安そうに潤む瞳で私を見上げている。
「はい」と野菜ジュースを手渡す。マロくんは紙パックの後ろに付属してるストローを剥がし、銀色の穴に差し込んだ。
 ちゅーっと吸い上げ、ごくごくと飲む度に大きな喉仏が上下に動く。
私も向かい合うようにして三角座りをし、一緒になって飲み始めた。冷んやりした液体が口の中へと入ってきて、野菜の酸味と甘さが広がった。久々に飲む野菜ジュースは美味しくって、焦燥に駆られた私を落ち着かせてくれた。
ズズズッと音が鳴る。目の前のマロくんが、底に残る野菜ジュースをストローで吸い上げようと必死だ。
「もう一本飲む?」と聞くも、無言で首を横に振る。暫く吸い続けるも、ようやく諦めた
のか。空になった紙パックを畳の上に置いた。
「ねぇ、マロくん」穏やかな口調を心掛けて、問いかける。
「どうしたの? 私、わからないよ。何があったのか話してくれない?」
マロくんは私の問いには反応せず、ただ遠くの一点を見つめていた。視線の先に何かある訳でもなく、事を思い出している様子で。
 私はマロくんの口が開くまでの間、改めてマロくんを見た。まじまじと見るほど、雑種の野良犬みたいだなと思った。
九〇年代のギャル男を象徴する様な頭部が盛られた髪型に、茶色く痛んだ毛先。時々、河岸で焼いている浅黒い肌には、品と清潔感が欠けている。四年前にバイトで支給されたという襟元が伸びきったTシャツと、色褪せた黒のシャカパン。シャカパンは中学生の時に買ったものらしく、「シャカっち」と名付けてあげる程、思い入れがあるらしい。丈がふくらはぎの中間辺りまでしかないのが、いつもマロくんの成長過程を感じていた。
「俺っちよ……」 
 マロくんがようやく、重々しい口調で喋りだした。見据えた目は、いつもの二重の線をより一層濃くさせて、初めて見るマロくんの真剣な面持ちに私は思わず息を呑む。
「な、に」
「俺っちさ……」
 鋭い眼差しで見つめられれば、私の胸は密かに高鳴る。
不思議なものだった。つい数分前までの訳のわからぬ状況に苛だっていた私なのに、そんなことは直ぐに吹っ飛んでしまう。この先
の言葉に、淡く期待している自分がいる。単純過ぎて呆れるけれど、それでも淡く期待してしまう。私はマロくんの次の言葉を待ち構えていた。 
マロくんは、覚悟を決めたかのように唾を飲み込む。
「おおいなるいんぼうに狙われてるかもしれねぇ」
……ん? 
思考が一瞬停止する。
お、お、い、な、る、い、ん、ぼ、う?
「仕事帰りによ、ずっと俺っちの跡つけて来る奴がいるんだよ」
 話の入り口から迷子になる。一体、マロくんは何の話をしようとしているのだろうか。これからオオイナル・インボウさんという人の話をし始めるのか? いや、大いなる陰毛の聞き間違いか? んな、あほな。若干、私は焦り出す。
おおいなるいんぼう。私の思考はぐるんぐるんと脳内を巡り廻る。やっと、ここ最近必要のなくなった「マロくん辞書」から意味を探し出すも、そんなワードは見つからない。多分、マロくんが初めて口にした言葉だ。意味はまだ、不明。話の筋は見えてこない。だから、まだ希望はある。心にさざ波が立つも、私はとりあえず「うん」と相槌を打つ。
「職場にだって、無言電話が掛かってくるしよ。まさかと思って、中山店長に確認したら、俺っちが働き始めてからだって言ってたんだよ。最近は給油中だって、窓拭き中だって、ずーっと奴らからの視線を感じるんだ」
 奴ら? オオイナル・インボウさんは複数人いるらしい。んな、あほな。まだ話は見えてこない。だから先を促すように、私はとりあえず「うん」と頷く。
「ずっと、気のせいだって信じてきたけどよ。とうとう確信に変わったんだよ」
 マロくんは眉根を寄せた。
「昨日も仕事帰り跡つけてくっからよ、猛ダ
ッシュで走ったら、奴らも走って跡つけてきやがって。俺っちが急に隠れたら、奴ら、途端にキョロキョロ探し始めてよ。確実に、俺っちのこと狙ってやがるんだ! ちくしょう!」
 マロくんの拳が畳の上に落ちる。ドンッと鈍い音がした。
まずわかったこと。きっと「大いなる陰謀」っぽいこと。そして、それは何故だか、マロくんを狙っているらしかった。
話の筋は少し見えた。映画で言えば、ミステリーかホラーだろうか。これからの展開によってはアクションか? だけど私はあまり映画を観ないから、興味が湧かない。
「つまり、マロくんは、誰かに狙われてるってことなんでしょう。 で、誰だったの?」
 映画はいいから、早く本題に入って欲しい。まだ淡い期待を抱いている私は、急かすようにこの話題に終止符を打とうと試みる。
「わっかんねぇんだよ。奴らはいつだって姿を見せねーんだからよ」 
 は?
「いや、だってさっきから『奴ら』って言ってるじゃん。姿見てなきゃ、複数人ってわからなくない?」
 私の口調は、若干、荒くなる。
「見えねーんだよ。奴らはいつだって気配しか見せねぇんだ。……くそ!」
 言ってる意味がわからない。
 マロくんは乱暴に頭を掻きむしる。痛んだ髪が激しく乱れた。
「だからよ、俺っちこれ以上、中山店長に迷惑惑かけられねぇからよ。辞めたんだ」
「辞めた?」
「ガソスタ。昨日、辞めた」
ガソスタ。昨日、辞めた? 
突如のことで意味が理解出来なかった私は、頭の中で反復する。
ガソスタ。昨日、辞めた。
ガソスタを、昨日、辞めた。
誰が? マロくんが。
いつ? 昨日。 
何をした? ガソスタを辞めた。
マロくんが、昨日、ガソスタを辞めた……⁉︎
二十七歳にして、ニートとアルバイトの繰り返しだったマロくん。
「ちほとの将来も考えて、俺っち、立派な大人になるっしょ!」と宣言してくれたのは、半年前。奇跡的に正社員の切符を掴んだのは一ヶ月前。それなのにガソスタを、昨日、辞めた? マロくんの言葉に、少しでも淡い期待を抱き続けてきた自分。一気に情けなさと
虚しさが襲ってくる。
 私たちの将来も考えてってことは、一緒に生きていくっていう意味で、つまり社会的に安定した職に就くという意味なんじゃないの? それが、立派な大人になるっていうことなんじゃないの? 
 なのにガソスタを、昨日、辞めた。 
脳みそがショートしそうだ。
「俺っち、全く誰かから恨まれる覚えねぇんだよ。だけどよ…………わかっちまったんだ」
 わかっちまった? 何をわかっちまったと言うんだ。折角の正社員の価値も、私たちの将来への不安もわかっていないくせに。そんな人間が、何をわかることが出来るっていうのだろうか。裏切られたことへの悲しみが、私をやけくそにさせる。
きっとマロくんは嫌味だなんて気付かないだろうけれど、気付いてくれる期待を込めて、私は嫌味で聞き返す。大袈裟に両眉を上げて、目を見開き、子ども相手に小馬鹿にするような表情をつくってやる。
「何を、わかっちまったの?」
 ワザと臭く聞き返す口調は、挑発的な態度と読み取れるに違いない。
功を成したか、マロくんの表情は変わる。力んだ二重まぶたが、三重まぶたへと変貌した。
「なんだと思うか?」
 質問を質問で返すな。
「それがよ……」
 だめだ。全く気付いていない。鼻息荒いマロくんは、これからがこの話の醍醐味なんだと言わんばかりに、ある種、ゾーンにすら突入していた。
泣きたい気持ちを超えて、もうため息が出そうだ。当然、私の心情なんて露知らずのマロくんは、声をひそめて話を続ける。
「……シアとか、フビとかに狙われてるんじゃねえかって思うんだよ」
は? 確実に生まれて初めて聞く単語の意味に、もうなにも期待はしていない。
「…………シア? なに、フビ?」
「おうよ。昨日、まさかと思って検索ってやつをしてみたんだ」
 マロくんはスマホを持っていない。だから、意外とアナログだ。
 そういえば、昨夜、むくっと起き出したマロくんが、私のスマホをいじっていた姿を思い出す。
「したらよ、アメリカとかにそーゆースパイのチームがあるらしい
んだ。日本にも、超秘密にしながら、色々と活動してるって噂があ
るんだってよ」
 ん……、待てよ。シアって…………CIAの
ことか? となると、フビは……FUBI……FBIのことか! まさかの謎解きが繰り広げられた先には、アハ体験が待っていた。
私は知っている。マロくんは英語が苦手だ。だからローマ字読みが出来ただけでも、大したことなのだ。いつもの私だったら褒めてあげたいけれど、今は到底そんな気持ちにはなれない。
「とにかくよ、俺っちを狙うなんて奴らくらいしか検討つかねぇんだよ。だからよ……」
 再び声が震え、掠れ始める。大いなる陰謀に狙われている者は、こんなにも感情の起伏が激しくなるものなのか。心底泣きたいのは、こっちだってのに。
「だから……もう……ちほとはドンキはいけねぇんだ! ……ちほの命は犠牲に出来ねぇ!」
 マロくんは力いっぱい込めた手で、流れる涙を拭った。
 ……。
 なんとなく、言いたいことはわかった。が、かける言葉も見つからなければ、もはや気力もなかった。
 謎に振り回された感情は無駄に疲弊し、もう考えることさえしたくなかった。とりあえず私は、飲みかけたままの野菜ジュースを口にする。
 ストローの中を通過して行くオレンジ色の液体が、何の迷いもなく私の口内へと突き進んで行く。生ぬるい液体は喉を通過し、これから体内で栄養分だけ搾取され、残りは尿として排出される。そんな粗末な未来が待っていると知ったら、私の吸引力から抗って紙パックに戻ろうとするのだろうか。そんなことを考えた。
「だからよ」 
再び聞こえるマロくんの声に、視線を上げる。宇宙のような黒目は微動だにせず、私の瞳を吸い込むように見つめていた。
「ゼッテー、ちほのことは守るからな」
 心の中で、じゅわりと温かいものが広がっていくのを感じた。その温かいものはこれ以上、私の心が負傷しないようにコーティングをしてくれ、守ってくれるものだった。すり傷もアザも、壊死して黒ずんでいる箇所も、マロくんの言葉がいつだってオロナイン軟膏のように、私の心に出来た傷口を癒してくれるものだった。
「うん。守って」
私はマロくんの細長い指に、指を絡ませ、ぎゅっと握った。確かな力で握り返される、私の手。きっと口元からは、真っ白じゃない歯が覗いているんだろうなと思う。
 交わる視線。ちょっと前の力んだ眼光は何処へやら。マロくんは
照れ臭そうに、もう片方の手で鼻の頭を掻いた。鼻をぴくぴくと動かし、眉間に皺を寄せ、次第に顔を歪ませる。素早く顔を背けた。
「ンアッグションッ!!!」
 見事に、大きなくしゃみだった。
白く乾燥した唇から、沢山の唾液が発射される。恵の雨がその唇を濡らし、布団の上に降り注いだ。そのうち虹が出るだろう。鼻水をすするマロくんに
「もう一本、飲もっか」
 私の問いに、無言で頷く。
 風邪はまだ治っていない。だから今日は一日、家で過ごすべきだったのだ。

電話が掛かってきたのは、翌日だった。
この数週間、母からの着信はあったものの、シカトし続けた。かと言って、それがどうにかなる方法でもないことはわかっている。恐怖心が蓄積されていくだけの無駄な抵抗。長い着信が鳴る末、ようやく通話ボタンを押した。
『はあ。いつ頃、戻ってこれそうなの』
 開口一番から、母のため息。一ヶ月分の溜まった苛立ちを、受話器を通して私にぶつける。
「ごめん。仕事がバタバタしてて、直ぐには難しくって」
『あのね、あんたが忙しい訳ないでしょうが。アルバイトの身分なんだから。みっともないこと言わないでちょうだい、恥ずかしい』
 二年前に中小企業で正社員として働いていた私は、会社を辞めた。パワハラとセクハラ、長時間労働のトリプルはキツ過ぎた。疲
労困憊は、私の頭に小ちゃな丸禿げをつくり、とうとう足が会社に赴くことを拒絶した。
母に打ち明けた時だって、SNSで呟いた時だって「大丈夫?」と言ってくれたのは、マロくん一人だけだった。小ちゃな丸禿げを母
に見せるも、鼻で笑って「大袈裟な」と吐き捨てられた。そして、いつだって続けざまに姉と比べる。
『お姉ちゃんを見なさいよ。立派な会社に就職しても、決して忙しいとは溢さなかったわよ。それに、ちゃんと最後まで勤め上げてね。今は花嫁修行真っ只中でも、頑張ってて偉いわよ。お母さんはね、ちゃんと育てた甲斐があったと思ったわ』
 姉は中学、高校と陸上部で活躍し、全国大会で優勝するなど優秀な成績を収めた。その後、一流大学に見事合格し、大手企業に就職。数年後にパイロットと婚約した。母にとって夢のように自慢の娘だ。
 期待に応え、結果を出し続けてきた姉とは対照的な私。中学はバスケ部に入部するも、運動が不得意な私は練習の辛さに、一年で退部した。高校も帰宅部で過ごし、その分勉強を頑張るも、合格出来たのは五流大学だった。母は私に見切りをつけたのだろう。ろくに会話もしなくなった。
それが今更、自分の都合で散々電話をよこしてくる。何を話せというのだろうか。その内容だって、私にとっては憂鬱でしかない。
『本当にね、親孝行な娘よ、お姉ちゃんは。お母さん、産んで良かったわ』
一言一言、間をたっぷりと取り始めた。感極まっている証拠だ。そのうち天を仰ぎ、十字を切る母の姿が目に浮かぶ。クリスチャンでもないのにだ。「お父さんと初めてのデートの時ね、サッカー観戦をしたの。その時、ポルトガルの選手が胸に十字を切っていてね。とても神秘的で素敵だったのよ。だからね、それ以来、思い出として十字を切るようにしているの」と姉が子どもの頃にした質問に対し、母は優しい口調で答えていた。しかし、私は嘘だと思った。父からスポーツのスの字が出たこともなければ、スポーツをテレビで観戦している姿も見たことがない。それは、二十年以上経った今でも変わらぬことだった。
『だからね、お姉ちゃんの顔に泥を塗るようなことはしたくないのよ。それが母としての、家族それぞれとしての勤めだと思うの。わかる? 妹であるちほの為にも、役割を与えてあげてるのよ』
 自分のためにだろう、と突っ込みたくなる。この人はどれだけ虚栄心が強いのだか。そして、それをあたかも他人の為だと言い張る。
「ちほの為に」とは、子供の頃から言われたものだった。「ちほの為に言ってるの。ああいう地味で頭も悪そうな子とは、もう遊ぶのやめなさい」「ちほの為に、塾に行かせてあげてるの。お姉ちゃんとは違ってなんの取り柄もないんだから。必死に勉強するしかないのよ」「ちほの為に注意してあげてるのよ。そのニキビ肌じゃ恥ずかしいから、安易に外に出歩くのはやめてちょうだい」ちほの為に、ちほの為に、ちほの為に……
『お父さんもね、ちほの為に正社員として雇ってもいいって、言ってくれてるんだから。あんたにとっても、都合のいい話でしょう。いつまでもアルバイトじゃ、先なんてないんだから』
 姉の婚約相手であり、これから家族になろうとする人たちは、由緒ある家柄の人種らしい。だからこそ、妹が五流大学出のアルバイト勤めだと知られれば、婚約だって破綻になるかもしれない。うちのご先祖さまだって、お父さんにも、お姉ちゃんにも、ちほ一人のせいで恥をかかされるのよ、とこの二ヶ月散々言われた。
『お父さんだってね、本当はあんたなんて雇わなくたって会社としては回ってけんのよ。なのに、わざわざ慈悲で働かせてくれるって
言ってんだから。……ねえ、さっきからあんた、聞いてんの?』
「ああ、うん。聞いてるよ」
 きっと父は、自分の意志で決めてもいなければ、言ってもいないのだろう。母に逆らうことが出来ない性分は、父親譲りなのかもしれない。しかし、小さな工務店を経営し続けられているのは、母の力が大きい気もした。
『はあ。救いようのない遺伝子ね』
 小さく吐き捨てた、母の言葉。スポーツとは無縁の父の遺伝子は、運動音痴の私に引き継がれている。姉は、どこに何が引き継がれたのだろうか。きっと、父の全ての遺伝子が私に注ぎ込まれたのだと信じている。

この数日間で豆苗は随分と成長を遂げていた。色素の薄い緑色はまばらな長さで伸び続け、一段と伸びている数本は、私に食べ頃なのだと訴えかけていた。
 あれから、マロくんは一歩も外に出ることはなくなった。大いなる陰謀に居場所を突き止められるかもしれないという、恐怖と警戒かららしい。
私が仕事に向かう際には毎朝、防犯ブザーを持たされた。「俺っちのいねー間に、ちほに手出しやがったら、マジで許さねー」と空中に向かって軽いジャブを打つ。実際、そのパンチの威力がどのくらいあるのか、まだ知らない。しかし、私の為にいつか打ち放たれるパンチを想うと、自分の存在意義を感じて満たされた。
週の大半が家と職場の往復のみになった。加えて、スーパーで食材を買うだけのルーティン。そんな単調な毎日でも、マロくんは私を過剰に心配してくれた。そして、私に仕事を辞めて欲しいとまで言った。「ちほになんかあったら、俺っち生きてけねーし」「ずっと見守ってねーと、俺っち不安過ぎるし」
家賃というものを支払わなければ、隠れ蓑となっているこの部屋を撤退せざるを得なくなるよ? と説明するとしゅんとし、渋々、働き続けることに了承した。家賃だけじゃない。食費だって、光熱費だって二倍掛かるのだ。一体、いつまで続くのかもわからない、得体の知れないこの状況。大いなる陰謀から逃れられるまで、私が養わなくてはならない。未知過ぎる未来には、不安しかなかった。
マロくんは、せめて家と職場意外は、ゼッテー何処にも立ち寄らないで欲しいと懇願してきた。「俺っちがいねー隙に、ちほが狙われたら、マジでもう命断つしかねーよ」と涙ながらに訴えられた。今度は私が了承した。コンビニもスーパーも行かなくなれば、翔子と鉢合わせする可能性も減る。実家に戻るつもりはないが、そう遠くない未来二人して落ち着きを取り戻したら、このアパートから引っ越せばいい。そうしたら、翔子とだって二度と会わなくなる。力を合わせて頑張って暮らしていけばいい。毎秒、毎分、毎時間、今よりも日当たりのいい部屋に住んで、たくさんの風と日差しを浴びればいい。朗らかで快活な気持ちになって、もっと幸せになるはずだ。明るい未来しか待ってないし。もう少しの辛抱だし。と自分に言い聞かす。
マロくんは働く私の代わりに、家にある残りの食糧で朝昼晩のご飯(朝と昼は、塩むすび一個ずつ)を作ってくれるようになった。お米と豆腐、納豆、海苔、豆苗。それらを少量ずつ摂取し、日々を食い繋ぐ。
大切な豆苗は、食べ頃を迎えた分だけ収穫し、味わった。小ちゃく切り分けた豆腐に添えた緑色は、食卓と心を華やかにした。
足りない栄養分は、野菜ジュースで補った。あれだけ冷蔵庫を占めていた野菜ジュースも、数日間で全てを飲みきった。マロくんは空腹を紛らわす為、一日に五本摂取をした。過剰と思われる量を飲んでも、マロくんのくしゃみは止むことはなかった。
食糧は二週間で底をついた。だいぶもった
方だと思う。どんなに今ある食糧で隠居生活を延ばそうとも、そもそも買い置きする程お金に余裕はないから、必要最低限の量しか食糧は保存していない。
私は毎朝、コンビニで買って行くカロリーメイトとパンで、こっそり空腹を凌いでいた。が、罪悪感が次第に募りマロくんと同じ食生活に戻した。そして直ぐに限界を迎えた。
エアコンがないこの部屋に、快適な涼しさというものは存在しない。二人の体温が籠り、暑さは増し、頭がぼうっとなる。風が訪れぬキッチンの小窓を開け放し、換気扇をつけ、気休めに涼む。この環境下の空腹は、人間を余計に苛立たせた。
マロくんのお腹が鳴る。
「ねぇ、マロくん。流石にこのまままじゃ大いなる陰謀に狙われる前に、私たちが餓死しちゃうよ。私、買い出しに行ってくる」
「……」
 餓死という可能性を自覚したのか。居間の壁に背をもたれ、無気力に座っていたマロくんがゆっくりと顔を動かし、窪んだ目から私を覗く。この二週間で頬はこけ、似合わない無精髭が顎周りに存在し始めた。
「そうだよな」
 潤いをなくした、しゃがれた声で小さく呟く。
「大いなる陰謀の思うツボだよな」
「思うツボだよ。私たちが考えている以上に、大いなる陰謀は賢いと思うよ」
もし、マロくんが言う大いなる陰謀説が本当であるのなら、その
シアとかフビは、とっくに私たちを手のひらで転がしていることだろう。
「とにかく、私、買い出ししてくるから。これ以上耐えられないよ。マロくんさえ家で隠れていれば、大丈夫だから。行ってくるから」
「ダメだ! ちほ一人で危険を負わせる訳にはいかねー!」
 僅かに残る体力で、勢い良く立ち上がったマロくんは、唾を数粒吐き散らす。
「ちほが行くなら、俺っちも行く。俺っちが守るらなきゃ、誰が守るし」

夏の近づく晴天日。降り注ぐ日差しに人々は汗をぬぐい、手で顔を扇いでいた。マロくんは上下黒の長袖のスウェットを着て、私の隣を歩いている。黒のキャップ帽を深く被り、サングラス代わりに、昔映画館で配布された3Dメガネをかけていた。「黒子だったら、見つからないっしょ」と兵士が迷彩柄でカモフラージュするように、マロくんにとっては黒子スタイルが同等の意味を持つらしかった。
隣で大きく両腕を広げ、周囲に過剰な警戒心を顕にし、私を護衛してくれる。時折、道行く人から感じる視線は逆に悪目立ちしていることを証明しているが、マロくんには気付かないようだった。
 私たちは、四駅先にあるショッピングモールに赴いた。食品売り場で、食糧を買い込む為だ。
 いきなり四駅先まで外出すれば大いなる陰謀も想定外だろうし、広い建物の中だったら奴らからの監視を撒くことも出来るはずっしょ、とマロくんは薄っぺらい計画を企てた。
久々に最寄駅内の場所から出る。のびのびと解放的な気分は、空腹を紛らわせてくれる。
マロくんとの外出にも、心が弾む。
 想像以上の大型ショッピングモールだった。天井は三階まで吹き抜けており、長い長い通路に、多くの小売店や飲食店が並んでいた。
マロくんと私は感動のあまり言葉を失くし、互いの顔を見合わせる。きっとマロくん同様、私の目にもキラキラと光が宿っているに違いないと思った。
しかし、これらは誘惑だとお互いに言い聞かせ、無理やりにでも興奮を抑え込む。目的は食糧を買い込むことだ、と念じながら心惑
わされぬよう、足早に食料品売り場へと直行した。
 目の前に広がった、煌びやかな食料品売り場は、別世界に来たような錯覚に陥った。
野菜は葉の一枚一枚が鮮やかで、みずみずしく、艶やかだ。萎れて、黄ばんだ箇所が存在しないレタスやキャベツ。私の知るスーパーとは大違い過ぎた。
照明が野菜の美味しさを引き立て、どれもこれもカゴに入れたい衝動に駆られる。赤オクラに天狗なす、オレンジ白菜、ビーツにケール。初めて見る野菜たちが、当たり前のように王道野菜と並んでいた。
「やべぇ……」
 マロくんの足が止まる。3Dメガネを外し、口をポカンと開けたまま店内を見回した。
「ほ、本当にここが、食品売り場かよ」
「そうだよ。私もこんなに広くてすごい食品売り場は初めてだよ」
「やべぇよ!」
 鼻の穴を膨らませたマロくんが、我も忘れて夢中で店内を駆け回る。
「おい、やべえ。野菜ジュースがいっぱいあるし!」 
目新しいパッケージの野菜ジュースが、飲み物のショーケースに何十種類も並んでいる。
「こんな野菜ジュース、見たことねえよ」と興奮するマロくんは、いくつもの種類を手に取り、両手いっぱいに抱え込む。どさっとカゴに放り込まれた野菜ジュースが、一気に私の腕に重くのし掛かる。
「やべえよ、ちほ! 試食! 試食があるし!」
興奮で震えた声は大きく反響し、周囲で買い物をする人たちの視線を一斉に集めた。
マロくんは生肉売り場の試食販売に向かって、一直線に走り出す。「あ、待って」私も慌ててマロくんの後を追いかける。も、意外と早くて追いつかない。お肉は買うつもりはないから、購入意思のない試食は出来れば避けたい。
試食販売員の女性が、ホットプレートで焼いたお肉を小さな四角い銀のお皿に乗せ、通り行く人に配っている。
「如何ですかー? 本日のお買い得、土日限定ステーキ祭り! 如何ですかー」
苦手な全力疾走に足元の着地が乱れ、足首を捻ったのが自分でわかった。バランスを崩し、スローモーションのように野菜ジュースがカゴから飛び出していくさまが視界に入る。宙に向かって飛んでいった野菜ジュースが、ある程度の高さまで飛んでいくと満足したのか。それぞれ床に急落下していった。私も慌てて両手を床につくも、時既に遅し。足に衝撃的な痛みが走り、一瞬息の根が止まる。
 …………痛。
思いきり両膝を打った。痛みが呼吸を困難にし、悶える。ひしひしと背中に感じる視線に、恥ずかしさが募る。一層のこと声を掛け
られた方がラクなのに、誰も私に声をかけない。
羞恥に耐えられなくなった私は、痛みを堪え無理して起き上がる。
床に散乱した野菜ジュース。誰一人として拾ってはくれない。一八〇度から浴びる視線に、私は髪で顔を隠すように俯きながら、野菜ジュースを拾う。落下の衝撃で凹んだ紙パックを指で押し戻し、カゴに入れていく。
心細さからマロくんの姿を探すも、試食売り場でお肉を頬張っているマロくんの姿が確認でき、安堵した。独りじゃないってことが、こんなにも惨めな気持ちを半減するのだと痛切に思った。
マロくんは試食販売の女性店員に向かってなにか喋り出すと、突如、大きな動きをし始めた。左右交互に斜めに上げ下げする腕は、美しい程キレが良く、顔の前でクロスする両手は指先まで意識が行き届き、ピンと垂直に伸びきっていた。繰り返えすそれら一連の動きは、まるで軽快に踊っているように見えるのだった。……ん? いや、踊っているのだ。マロくんの両足はリズムを取り、小さく左右にステップを踏んでいる。そうだ、そのステップに覚えがあった。
以前、違うスーパーでマロくんと一緒に試食した時のことだった。
その試食した商品は購入に至らなかったが、せめてパラパラだけでもお礼をしたいと、突如披露し始めたのだ。怪訝な顔をする試食販売員のおばさんに、迷惑そうに白い目を向ける周囲の客。暫くすると、店長が駆けつけて来て「他のお客様のご迷惑になりますので、おやめください」と注意され、プチ騒動を起こしたのだった。それ以降、マロくんとスーパーに極力行かなくなったので忘れていたが。
気付けばマロくんを遠巻きに見入る人が一人、二人、三人と増え始め、好奇な目をし、口元は嘲笑し、スマホをマロくんに向けていた。
そんな事など露知らずのマロくんは、お礼の舞を踊り続ける。私の中に訪れた安堵はさっと消え去り、マロくんから視線を逸らそうとするも、目を留めた。マロくんが踊り続ける通路の奥の突き当たりから、一人の男がカートを押して現れたのだった。たくましく鍛え抜かれた上腕二頭が異様に目立ち、Tシャツから盛り上がる厚い胸板に、太い首。エラの張った四角い顔と、彫りの深い目が特徴的で、ふと見覚えがある気がしたのだ。知り合いではないと思うが、何故だかその男を知っている。だが思い出せない。もう少しで、答えが出掛かるもどかしさ。男の着ているTシャツに「Muscle Vitamin」と黒い太文字で大きくロゴが入っていた。…………
そうだ、翔子の旦那だ! 
翔子のSNSであげていた結婚報告の動画に、一緒に並んで映っていたその顔。そして、その時着ていたTシャツ。「Muscle Vitamin」。カタカナに変換すれば「マッスル ビタミン」。どんなビタミンだよ、とあまりのクソダサさに突っ込んだ。後で調べれば、近年注目されているベンチャー企業の一つで、有名スポーツ選手やモデル御用達のジムと健康食品を取り扱う会社を、翔子の旦那が経営しているとわかった。だからって、その社名が「Muscle Vitamin」。どんなビタミンだよ、ともう一度突っ込んでやったことを思い出す。
その翔子の旦那が今、私の視線の先にいた。後から追いかけて来るように現れた女は、旦那の上腕二頭筋に細い腕を絡ませる。勿論、翔子だ。仲睦まじげにマロくんのいる方向へカートを押して進んで行くも、鮮魚売場で足を止め、刺身か何かを選び始めた。
当然、私には気付いていない。ということは、まだマロくんの存在にも気付いていないということだ。
 私は走り出す。痛む膝をカバーしようと腰を曲げ、引きずる足で走り出す。
「マロくん」と翔子に気付かれぬ声量で叫ぶも、マロくんの耳には届かない。
「マロくん!」
か細い歌声が私の耳に入ってきた。歌うと意外と高音になるマロくんは、喉を締めるような歌い方と少なすぎる腹筋故に、弱々しい声量になることを私は知っている。つまり、この歌声はマロくんだ。
 もう一度マロくんの名前を呼ぶも、覇気のない歌声が私の声を掻き消し、耳に届かない。
踊り続けるマロくんとの距離が縮まる程、耳障りな歌声は明瞭になって聞こえてくる。
「ナイトン・ファイヤー・トゥルルトゥルルル〜、トゥルルトゥルル〜……」
「マロくんってば!」
 ようやくマロくんの袖を掴む私は、縋りつくように思いきり引っ張った。慣れない走り方は余計に疲労を促進し、呼吸が乱れて息が苦しい。
「ちほ! この肉、すんげぇ美味いぞ」
 マロくんの無邪気な笑顔に、爛々と輝く瞳。だけど今は罪悪感も何も感じてられない。 
「ぼう……いる」
 息が苦しく、声にならない。
「ん、どした?」
「大いなる……陰謀、いる」
「マ、マジかよ」
 血相を変えて慌てだすマロくんは、機敏に首をあらゆる方向に動かし、大いなる陰謀を探し始める。
「ど、どこだし。くそっ、大いなる陰謀どこだし」
「隠れた、方が、いい! マロくん、とにかくあっち。あっちに隠れて」
私は咄嗟にお菓子売り場を指差す。奥で子供たちが、お菓子に群がり選んでいる。
「お、おうよ」
 慌てふためくマロくんが、私の指差す方向へ何も疑わずに走って行く。遠くなっていくマロくんの後姿。子供たちに紛れ、隠れるようにしゃがんで消えた。
……。思わず深い息を吐いた。これだけでも、一仕事を果たしたような疲れがどっと襲い、怠さが全身にのし掛かる。
翔子はまだ鮮魚売り場で選んでいた。刺身の盛り合わせだろうか。大きな容器を手に取り、旦那が押すカートのカゴに入れた。
 四駅先のショッピングモールで、しかもこんな広い施設内で遭遇するなんて思ってもいなかった。あれから翔子と出くわしても気付かれないよう、髪を一つや二つに結ったり、三つ編みしたりし、偶然会ってもバレぬよう変化をつけていた。マロくんの3Dメガネをサングラス代わりに装着し、通勤時も警戒した。皮肉にも、今日に限って四駅先だからと全く変装していなかった。
 翔子たちは、ショーケースに並ぶ刺身に目を奪われつつも、カートはこちらに進んでいる。
「ちほ! お前はどーすんだよ!」
 まさかの、マロくんが駆け戻って来た。
「ちほ置いて、逃げれる訳ねーだろ! ちほの命は犠牲にさせねー!」
 いや、さっき置いて行ったじゃん。今は置いてってくれた方がいいの、とは言えない。
 きっと私の身を案じて、急いで走って来たのだろう。慌てた様子で息を切らすマロくんに、内心私の方が慌ててると言いたくなるも、その衝動は抑える。
 私はマロくんの薄っぺらい両肩を掴み、しっかりと見据えた。そして努めて冷静な口調で説明する。
「マロくん、お願いだから、今は向こうに隠れてて。私がマロくんの命を守るから」
「ちほ……」
 マロくんの目が潤む。感動したのか、これ以上言葉が出ないという面持ちだ。震えた唇をぎゅっと結び、力強く頷く。
「任した」
 もう一度、マロくんはお菓子売り場へと走って行く。猫背で、厚みも筋肉も感じないその背中は、気の毒なほど服に着られていた。
きっとガリバーのような大きな手で握りつぶしたら、蚊を殺すのと同等な手軽さで呆気なく死んじゃうんだろうなと、頭によぎり悲しくなった。首を左右に振り払う。
 鮮魚売り場に視線を戻す。翔子たちの姿はない。周囲を探すも、もう見当たらなかった。
 マロくんのいない間に、私は必要最低限の食糧をレジで済まし、お菓子売り場に向かった。
マロくんはお菓子に群がっていた子どもたちと目線を合わせるようにして、しゃがんでいた。もはや隠れているというより、子どもたちと馴染んで輪に入っているという感じで。
会話の声は聞こえてこないが、子どもたちがケラケラと無邪気に笑っていた。マロくんがくしゃみをすると、子どもたちがまたケラケラと笑う。マロくんが子供たちに何かを言った。子供たちは歯茎を剥きだして笑い続ける。
私は立ち尽くして、その様子を眺めていた。マロくんに対して、こんなに無垢に接する人たちを見たことがあっただろうか。楽しそうな空間には笑顔しかない。笑って過ごした日さえ思い出せない私は、この光景にどこか羨ましい気持ちで眺めていた。
マロくんは私に気が付くと、子供たちに手を振り、周囲を警戒しながら私の元に戻ってきた。
「だ、大丈夫だったか⁉︎」
「うん」
マロくんの骨のように細い指が、私の体を隈なく触り、無傷かどうかを確かめる。
「本当か? 本当にやられてねーか?」
「うん、やられてないよ」
「指一本も触れられてねーだろうな」
「大丈夫だよ、なんでもなかったし」
「なんでもなかった?」
「ああ、うん。なんか気のせいだった」
「気のせい? 本当か?」
 眉を思いきりひそめるマロくん。私のことを心配しているのか、それとも珍しく疑っているのだろうか。心なしか私の体に緊張が走る。
「本当だよ。なんにもなかったよ」
 微笑を浮かべるも、マロくんは表情を崩さない。
「さっきよ、ちほのこと見てくすくす笑ってる奴がいたからよ」
 私のことを笑ってる? 
「俺っちは、子どもたちと一緒に居たからよ、気付かれなかったけど。女の口から『ちほ』って聞こえたからよ」
 女。きっと翔子だ。翔子は私に気付いていたのだ。
「その女って、男と歩いてた?」
「おうよ。直ぐに隠れちまったから、男はほとんど見てねーけどよ、
一緒にいたのは男だった」
全身の血の気が引いていく。
「大いなる陰謀っぽくねーから、ノーマークだったけどよ。……ひょっとして奴らが、大いなる陰謀だったのか?」
 マロくんが大いなる陰謀をわかっていなきゃ、私がわかる筈がない。マロくんがここのショッピングモールなら、大いなる陰謀からは安全だと言い出したんじゃないか。お陰で私が翔子と遭遇した。マロくんが大いなる陰謀に気付かれなくとも、マロくんのせいで私が翔子に気付かれた。そもそも、隠れようと言う意識が微塵も感じないあの行動で、本気で大いなる陰謀から逃れようと思っているのだろうか。マロくんの空っぽ具合に、本気で八つ当たりしたくなる。
「俺っちが、ゼッテー倒してやるっしょ」
空中に向かって、軽いジャブを打ち放つ、マロくんの細い手首が袖口から覗く。キレのないパンチを何度も何度も、見えない相手に
向かって打ち放つ。
マロくんと一緒にいたところを見られただろうか? 厚みのない体に、怪しげに全身黒尽くめで、季節感のない冬格好のスウェット姿。キャップ帽からはみ出したバサバサに傷んだ毛先に、清潔感のない黒く焼けた肌と、白く乾燥した唇。マロくんと一緒にいるところを見られただろうか?
筋肉すらないその腕で、あの「Muscle Vitamin」を倒せるはずがなかった。無駄なパンチを打ち続けるマロくんに、冷めた目で見ている自分がいた。

豆苗が二度目の再生栽培期を迎えた頃、私は実家へと帰った。
再三掛かってきた電話に出た私は、案の定、後悔をした。母は大袈裟に泣きながら私を親不孝だと罵り、せめて話し合いをしたいから帰って来て欲しいと懇願してきた。
自宅兼事務所を構えた実家に戻れば、牢屋に閉じ込められた囚人のような日々しか待っていないことは安易に想像ができる。吐き気しかなかった。
平日というのに、この小さな事務所は異様に森閑としており、母以外の社員は見当たらない。全員営業に行っていると母は素気なく答えた。
事務所の中は、デスクが向かい合わせに六つ並んで配置されているが、どのデスクも誰かが使用している形跡はなかった。そもそもパソコンは社内に一台しか見当たらず、机上には電話にダンボール(事務用品や資料などが押し込まれていた)、乱雑に置かれた書類やファイルが埃に被って存在するだけで、全てのデスクがデスクとしての機能を果たしていなかった。誰かが、その時に、物を置くため
だけの用途として暫く使われているように思われた。
母は適当に周辺を片し始める。手持ち無沙汰な私は何気なく机上に手をつくと、鳥肌が立った。冷房が効き過ぎるこの室内では、触れるもの全てがひやりと冷たく、ゾクっとした。
母は一方的に、淡々と業務内容を説明し始める。今更話し合うだなんて嘘だとわかっていたけれど、強制的に追い込まれる圧力に胃液が上がってきそうだ。
「ってことで、来週からお願いね」
「え、来週? ちょっと待ってよ。話が違うよ。そんな急に言われたって」
 せめて数週間の猶予は残されているかと思っていた。五日後なんて急過ぎだ。冷めた表情を浮かべる母から、舌打ちが聞こえる。
「急って、人聞きの悪いこと言わないでちょうだい。こっちは前々から言ってたんだし、約束通り三ヶ月待ってあげたでしょうが」
「三ヶ月まで、まだ二週間あるよ」
「知らないわよ、そんなの。こっちだってね、社員が一人、突然辞めちゃって人手不足になったんだから。どうしろって言うのよ」
喋り続ける母の口の端には、白い泡が溜まっていく。
「じゃあ、何。あんたは家族が路頭に迷ってもいいって訳ね。ああ、酷過ぎる。あんたには失望よ、失望。本っ当に、昔から自分のことしか考えられないんだから」
震える声で、過剰に憐れみを演出する母。「それは、あんただろう」と言ってやりたくなる。もし、私が自分のことしか考えられないのであれば、それは母からの遺伝だろう。  
しかし、私は自分のことを考えているのではない。マロくんのことが気掛かりなのだ。大いなる陰謀に狙われていると言っている今、マロくんは外で働くことも出来なければ、お金だって稼げない。住居も借りられず、食べることすら出来なくなる。それでも、マロくんを放って実家に戻るということは、殺めることと同罪だ。
母は額に手をあて、大袈裟に首を左右に振っている。そのうち、誰も使用していないであろうデスクの椅子に腰を落とし、俯くよう
にして顔を両手で覆い隠した。
私が何か言葉を掛けたところで、無意味なことは知っている。母の激情が収まるまで、私はじっと存在を消しているしかなかった。
 電話の呼び鈴が鳴り響く。静けさに突如現れた音はどこか不気味で、私の体はびくりと反応する。
「はい、田原工務店です」
父のか細い声。母しか居ないと思われていたこの場所に、父が居たことを初めて知る。
「……はい……はい……大変申し訳ございません……はい……はい
……申し訳ございません……」
どこからともなく聞こえる声に、辺りを見回すも父の姿は見当たらない。当然だ、こんな狭い場所に父が居れば、直ぐに気が付くはずだった。耳を澄ます。微かに喋り続ける父の声が、確実に何処かに居ることを証明する。
私はもう一度見回した。全てを疑うかの様に、事務所の中を隈なく見入る。
すると、隅の一画に設けられたパーティーションに視線は留まった。ライトグレーの二つパネルが連結された、一見なんてことないパーティーション。しかし、意識して見れば見るほど、不自然な場所に設置されているように思われた。何かを隠す為に、無理やりにでも設けた違和感がそこにはあった。
私は母を一瞥する。両手で顔を覆い、泣き続ける母からはボソボソと声がする。「一生懸命育ててやったってのに」「お姉ちゃんが可哀想」「ご先祖様に申し訳ないわよ」なんだのかんだの。母の視線を盗み、隠された一画に近づく私は、パーティーションの奥を覗き込んだ。  
仕切られた狭いスペースで、壁に向かって配置されたデスクに座る父の後姿があった。かつて重厚感のあった漆黒のレザーチェアは背面の布が裂け、ガムテープで繋ぎ留められている。作業服を着た父の背中が、以前にも増して猫背が悪化し、全体的に小さくなっていた。白髪の後頭部からは頭皮が見え始め、「はい」「申し訳ございません」の言葉と共に、連動して頭を下げ続ける父の姿は、まるでネジで巻かれた人形のようだった。
……。
 掛ける言葉を見失った私は、そっと、その場から離れる。
母は昔華奢だった。しかし年々恰幅がよくなり、髪は黒々しく肌は艶やかだ。私は泣いている母を見下ろす。この人は父の精気を吸って生きてるのではないかと思った。
何も反応しない私がおもしろくなかったのか、母は顔に覆っていた両手をすっと離し、乾いた黒目で私を見上げた。
「親不孝め」
 刃物のように鋭い眼光から、私は咄嗟に視線を逸らす。気まずさからトイレに駆け込み、閉じこもった。体は震えて、視界がチカチカする。私は暫くの間、身を屈めるようにして、じっと便座に座っていた。

歩く足が地面に着地する度、膝に痛みが響いた。数日前のスーパーでの転倒が、両膝に大きくアザを残す結果となった。
薄暮が迫る街に生温い風が吹き、今日一日芯から冷えきった私の
体は、心地よく感じた。
空には三羽のカラスが羽ばたいている。黄昏時のカラスは感傷的になりやすく、私は抗うように警戒心を奮い立たせた。胸の前で抱えるトートバッグを、ぎゅっと力を込めて抱き寄せる。どんな生き物が襲いかかって来ようと、私はこのお宝袋を死守するつもりだった。
人参、玉ねぎ、じゃがいも、カレーのルー。実家の台所から掻っ払ったものを、このトートバッグに詰め込んで来た。米もビニール袋に入れてくすねてきた。今日はカレーだ。久々のカレーだ。マロくんも喜ぶだろう。豆苗も添えれば、食卓は華やぐ。我が家にとっては、大ご馳走だ。
 あの後、二十分程トイレに籠っていた私は、腹痛とめまいを訴え、少し横にさせて欲しいと母に申し出た。子どもの頃から使うこの仮病は、母を余計に逆撫でしたようで、「結局、不良品のままね」と吐き捨てられた。
 溢れる悔しさに、唇を噛みしめる。歩く足が地面を強く踏み、次第に歩行の速度が加速する。余計に膝の痛みが広がり、痛みを堪えようと奥歯を食いしばる。
今日は夜が急かしているのか、夕方が抜けたような仄暗い世界が街に広がっていた。辺りに人の気配は感じないが、スキップはしない。いつどこで、誰が見ているかわからないから。  
翔子は、あれからホームパーティーを催したようで、SNSに写真を載せていた。「昔話に花咲いたw みんな笑い過ぎて、本当に腹筋崩壊したwww」と文章と共に添えられた、数枚の写真。
その写真の中に一人、中学高校と同級生だった女の顔が、見たこともない他の参加者と一緒に混じって写っていた。その子の名前は覚えていない。三年前の同窓会に参加していたことは覚えている。しかし、その時も翔子と仲良くしていた記憶はない。写真から見たその子は、昔の面影を残しつつも雰囲気が変わっていた。良く言えば垢抜けた。悪く言えば背伸びしている感じ。きっといいカモにされ、みんな嘲笑い過ぎて腹筋崩壊したのだろうと想像を膨らます。翔子の中では、私は翔子を超えてしまった人間だ。だから私は卒業しただけなのだ。お陰でカモ枠が空いて、名前も忘れたような同級生が、ニセモノ臭い集団パーティーにお呼ばれされたのだ。きっと
そうだ。そうに違いない。
 歩き続けた道を右に曲がると、樹木に半分覆われ、老朽化した木造の建物が現れた。平和な世界はもう直ぐそこまで迫っていた。
 小走りになる。安全な居場所を求め、一秒でも早くこの世界から避難したかった。
黒と茶色のシミが広がる外壁に、錆びた鉄骨柱と、苔や藻が生え
た足元のコンクリート。いつにも増して薄暗さから浮か上がる玄関の鉄扉は、ゾンビの肌のように腐食し塗装が剥がれ、所々が赤茶色く錆びている。
鍵を差し込む。
ピコンッと音がした。
「ちほ」
 不意に呼ばれた自分の名前に、条件反射で振り向く。翔子が立っていた。外階段の陰から現れる翔子は、スマホを手にしてニタニタと笑っている。
「やっぱり、ちほじゃん」
翔子はラインストーンが施されたスマホの背面を私に向けるも、輝きが失われていて、ちっとも眩しくない。そんな哀れなスマホを手にして、まだニタニタと笑みを浮かべている。口元に二つ乗っかったタラコが不気味に動く。
「絶対、あり得ないと思ったんだよねぇ〜。ねえ、なんでこんな所に居んの?」
 ワザと臭く、私にクエスチョンマークを投げかける。
 隠れていた虫がとうとう見つかって、人間に殺される時ってこんな感じなんだろうか。寸前まで焦り、もがく。
私の脳内が必死に命乞いをし、思考回路がぐるんぐるんと巡りだしていた。翔子は、私が何か弁解をするのを待っているのだろう。おもしろそうに様子を窺っている。
焦る思考は、この状況から助かる命綱を必死に探し、走馬灯のように過去の記憶にまで遡った。
……!
目元に触れる。3Dメガネを装着していることを確かめると、私は僅かに残された希望に託した。
「ダレデスカ?」
「は?」
「ワタシ、アナタ、シラナイネ」
「やっば」
 翔子の顔が引き攣っていく。
「アナタ、ヒトチガイ。サヨナラ」
「いやいや、ここに住んでるの、ちほとパラパラ踊ってたあの変な男でしょ? この部屋に帰って来たの見てたんだから」
 あの日以来、マロくんは外に出ていない。ということは、ショッピングモール内でバレていた可能性はあるが、まさか帰宅した時ま
で見られていたのか? ひょっとして、跡をつけていたとか? それとも、この辺で待ち伏せしていた? もしかすると、あのショッピングモールも意図的に現れた? どうして? 監視するため? 
何の為に? 私と
マロくんを狙っている? ………………
思考があらゆる方向に目まぐるしく巡り、制御不能になっていく。
「そもそも、この辺で、何度かちほに似てる人いんなーって思ってたんだよね。で声かけたら、案の定。あんなタワマンに住んでると
か言い出すしさ」
 どう切り抜けよう。どう切り抜けよう。どう切り抜けよう。 
「大手の広告系で働いてるとか前言ってたから、まさかとは思ったけど。だとしたら、こんな人生終わってる底辺層しか住まない所にいる訳ないしね。ってか、嘘でも自分と見合うレベルの嘘つきなよ? あ、でも居住地はだめね。証拠は撮ったから」
 翔子は勝ち誇ったように鼻を鳴らし、私に向けていたスマホの画面を触れた。停止ボタンを押したのか、ピコンと音が鳴る。3Dメガネから見えるご自慢のラインストーンたちは、一度たりとも私の目に光を放つことはなかった。敗北した虚しさを滲ませたまま、翔子のバッグの中へと幕引きされる。その不憫なさまに、私は心の中で鼻を鳴らす。
「お隣さんが虚言癖だと、覚えのない因縁つけられそうだし。今度からちほと接しなきゃならない時、動画撮らせてもらうから」
 翔子は満足そうな表情をして言った。
 私がいつ、虚言なんて吐いたのだろう。ちょっと頑張って追いつこうとしただけじゃないか。
「……だめなの?」
 震える唇が勝手に動き、誰の耳にも届かぬくらいの声量で反論する。
「はあ? なに、なんか言った?」
「頑張っちゃだめなの? って言った」
 自分の中で自分にやめろと抵抗するも、今度は確実に聞き取れる明瞭な声で反論した。
「はあ。めんど」
 翔子が、眉を掻いて溜息を吐く。
「いちいち癇に障るんだよね」
 癇に障る?
「頑張ってんのが。目に見えててイタいんだよね」
 頑張っているのが、イタいのか。そんなこと、学校でも教わっていないのに。いつから頑張ることが人の癇に障るようになったのだろうか。頑張っている人が結果を出して、人から評価されるんじゃないの? なのに、どうして自分だけだめなの? 周りから必死に認められようとしているだけなのに、どうしてだめなの? 
「どうしたら、よかったの?」
「は? 知らないよ」
「どうしたら、そっちに行けるの?」
 翔子に詰め寄るも、翔子は一歩一歩後退する。心が翔子に縋るよう、必死に助けを請う。
「教えてよ」
 翔子の両手を奪い取り、強く握った。
「どうか、どうか教えてください。翔子様」翔子の目の下の小さなホクロが二つ、小刻みに痙攣しているのが見て取れた。
「気持ち悪っ」
 私の手を払い除けた翔子は、足早に去って行く。ご自慢の鍛え抜かれた大きなお尻が、ぷりぷりと左右に動いている。ガチョウみたいな歩き方は妙に滑稽で、私は思わずスマホを取り出し、動画を撮った。

 野菜ジュースの空になった紙パックが、畳の上にいくつも転がっていた。寝息をたてて横になるマロくんの安らかな表情が、今のところ大いなる陰謀からの被害に遭っていないことを推測させた。
 マロくんの髪を撫でる。手のひらに伝わる硬く軋んだ毛先。不思議と今の私には心地良くって、緊張感で力みっぱなしだった私の体は、ようやくほぐれた。私も一緒になって寝転がる。マロくんの細い腕に顔を埋めると、生温かい体温とマロくんの匂いがして安心した。
着古して、生地が柔らかくなったマロくんのTシャツ。袖を、ぎゅっと、強く握り締める。きっと生地が余計に伸びきっちゃうだろうけれど、強く強く引っ張って、強く強く握り締めた。今は堪えるのに必死なの。込み上げる涙を塞き止めようとすればする程、喉と鼻の奥にツンと痛みが走る。昔からそうだった。本当は流してしまった方がラクなんだろうけれど、泣いたら負けを認めることになる。堪える方が痛むって、ずるい体の設備だと思う。
 そうだ、こんな時は寝ちゃえばいいんだよね。一番簡単な方法はテレポーテーション。夢の世界へワープすれば、もう誰も迫ってこないでしょう。とマロくんに教えた時、目を輝かせて「すげぇな! さすが、ちほだし」と言ってくれた。「ドラえもんも腰抜かすっしょ」その言葉で、私は初めて誰かを超えることが出来たのだ。
 喉も鼻も、膝の痛みも次第に薄れていく。
意識はまどろみ、マロくんの心地よい体温が
真っ暗な世界へと誘う………………………………………………………………深い深い、暗闇。遠い遠い向こうから、微かに声が聞こえてくる………………………………やべぇよ……………………………………………………くそっ…………来やがった……私の体に激しい
摩擦と振動が伝わり、意識が現実世界へと引き戻される。
隣で寝ていたマロくんが、上半身を起こした状態で、激しく周囲を見回していた。何かを探しているような、警戒しているようなその動き。私の中で急速に不安が襲ってくる。
「マロくん、どうしーー」
「シッ!!!!」
 マロくんは人差し指を突き立てて、素早く自分の口元にあてた。ものを言わせぬ険しい顔つきと、殺気立った雰囲気がみなぎるマロくんに、私は思わず口をつぐむ。初めて見るマロくんの別人のような一面に、これから、ただならぬ事が起ころうとしてるのだと悟
った。
張り詰めた空気。冷蔵庫のブーンという機械音だけが、いつもより大きく聞こえた。
 僅かな音も聞き逃すまいと、耳をそばたてているマロくんは、人差し指を口元にあててから微動だにしていない。……大いなる陰謀だろうか。
緊迫感は伝染し、私の呼吸は浅くなり、心臓の鼓動が早くなるのが聞こえる。体から発する音が邪魔にならぬよう身を縮めて、息を潜めた。
何か相手からのアクションが起こるまで、私たちはじっと存在を消していなくてはならない。
何分経った頃だろう。
ーーガサッ。
小さな音がした。外から聞こえたその音は、私たちの部屋の壁を隔てた、直ぐ隣のごみ置き場辺りから聞こえた。
 マロくんが立ち上がる。素足のまま、床にひっつく足の裏を慎重に剥がして進んで行く。腰を屈め、音を殺して歩くその姿勢は、かつてゲームで見たことのある暗殺者の姿と重なった。敵に気付かれぬよう背後から近づき、命を仕留める。
台所の引き出しから、包丁をそっと手に取ったマロくんは、玄関を通過し、素足のまま外へと出て行った。
慌ててマロくんの跡を追おうとするも、震える足が邪魔をして、何度も音を立てそうになる。ゆっくりと慎重に、音も存在も殺さなくては。足先に神経を集中させる。汗が次々と床に落ちていった。
人が包丁を手にして外へ出る姿が、これ程までに恐怖を与えるものだと知らなかった。これから起こるかもしれない「何か」を、目撃する勇気もないけれど、独りこの部屋に取り残される余裕もなかった。一刻も早くマロくんの側に居ることだけが、私の尋常じゃな
いこの不安を、安心に変換する方法だった。
だけど、マロくんは確実に何者かを狙っていた。それは、あの小
さな音をたてた犯人。きっと、大いなる陰謀。ずっと監視し、跡をつけ、狙う者。……まさかと思うも、私の脳裏に翔子の顔が一瞬よぎった。
 空は黒くて、星一つない。寝落ちしてから、何時間経過したかはわからない。昼と違う夜の風は肌寒かった。マロくんの姿はもう見当たらない。既にアパートのゴミ置き場に居るのだろうか。追いつきたい気持ちと裏腹に、恐怖で慄く足はちっとも思うように進んでくれない。私は苛立たしさに、グーで腿を叩いた。その時、静寂な夜を切り裂くような叫び声が、黒い空に反響した。
「オウリヤャァァァアアアアアア!!!!」 
全身の毛が逆立った。「何か」が起きたのだ。私は駆け足になってマロくんの後を追いかけた。
「オウリヤャァァァアアアアアア!!!!」 
アパートの角を曲がり、歩道に出る。暗闇でぼやけたマロくんの姿があった。道端で縦横無尽に包丁を振り回し、発狂すると、一直線に走り出す。既に捨てられていた誰かの可燃ごみの袋に向かって包丁を振りかざした。
途端に、いくつもの真っ黒い影が勢いよく飛んで行く。それらは電信柱や電線、枝先に止まりカア。と乾いた音を鳴らした。マロくんは届かぬ高さに移動した黒い影に向かって、何度も何度も電信柱を蹴飛ばし、木に体当たりをし、四方八方に包丁を振り上げる。だが、黒い影はびくともしない。
私は離れた距離から、ただマロくんを眺めていることしか出来なかった。それは別の世界の住人の出来事を観ているような感覚に近く、今なら恥じらいも、焦りも、恐怖心さえも消して、私とは関係のない他人事として済まされる様な気がしていた。私の足が、一歩後ずさった。
「オウリヤャァァァアアアアアア!!!!」 
鬼気迫る叫びは家々の明かりを灯し、ガラガラと窓を開ける音が次から次へと私の耳に届く。隣のタワーマンションの住民たちがベランダから顔を覗き下ろし、何事かと様子を窺う。今、翔子も見下ろしているのだろうか。
 叫び続けるマロくんの声は、野次馬の騒めきを増していき、私を脅す。
「マロくん」
 いつだって、声は届かない。
未だ振り回される刃物は、夜暗の街灯で反射し私の目を強く射る。私はギュッとまぶたを閉じた。鬱血する程に思いきりまぶたを閉じ、腹の底から限界まで声を絞り出す。
「マロくんってば!!!!!!」
 やまびことなって反響する私の声に、刃物を振り上げたマロくんは、ぴたりと動きが止まった。静寂な時間が暫し流れ、そのうち包丁をゆっくりと下ろした。力が抜けきったような、おぼつかない足取りで、ふらりふらりと私の元へと戻って来る。
「大、いなる……大いなる、いん、ぼうが、とうとう……ここに、まで……せまって……きやがっ、た」
 喋ることもままならないマロくんの荒い呼吸は、ヒューヒューと肺がもがくような音が混じっている。
「俺、たちを……狙って……きやがった、のに……ちくしょう! 逃げ、ていき、やがった……ち、くしょう! ちくしょう!」
汗でぐっしょりと濡れたマロくんの髪は、俯く顔に張りついて表情は見えなかった。唯一、垣間見れた唇だけが震えており、私は無言のまま、だらりと垂れたマロくんの腕にそっと手を添えた。マロくんが反応し、髪の隙間から私を覗き見るも、その眼球は真っ赤に血走っていた。そこにはもう宇宙のような瞳は失われ、血で染まった瞳で見つめられる私の背筋は凍りついた。
「大丈夫ですかー!」
天から降り注ぐ声に私は見上げた。米粒のように小さくなった人間の顔が、たくさんあった。私は天に向かって深く一礼をした。
 マロくんの腕に添えた手は、部屋へと連れ戻すために、しっかりと掴んでいた。時折、握られた包丁が私に向けられるのではないかと恐怖心を覗かせるも、マロくんの力なく手にする包丁の先端は、常に地面に向けられたままだった。
マロくんは玄関に突っ立っていた。悔しさからなのか疲労からなのか。マロくんはうな垂れたまま、終始無言だった。包丁を取り上げるも、細長い指は糸も簡単にするりと手元から放した。私はキッチンの引き出しへ包丁を仕舞う。その時、シンクの側に置いてある豆苗が視界に入り、目が留った。いつも私たちを見守ってくれていた豆苗は茎が垂れ下がり、葉は黄色く変色していた。根本はフワフワと綿のような白カビに侵され、見るからに生気を失っている。
 今朝、豆苗の水を換えた時までは青々しい葉がいくつもピンと張り、生き生きとしていたのに。今では嘘のように瀕死状態になっていた。突然、何が起こったのだろうか。目に見えない細菌や空気、気温の変化が原因だろうか。私たちには理解出来ない自然の秩序が乱れて、豆苗を瀕死に誘ったのか。私の頭脳で考えたところで到底、原因がわかる訳ではないけれど。
一度黄色くなってしまった葉は、手を尽くしても元には戻らないことを知っている。我が子は一週間も保たずに死ぬだろう。
もう、施しようがないのだ。
「マロくん」
 マロくんはようやく顔を上げた。
「ごめんね。もう、私には無理だ。私ね、もうここには居れないの。一緒にも居られない」
「いられない?」
「うん。実家に帰らなくちゃいけなくなった。だから、一緒に居れなくなった」
「それはつまり……俺っちのせいで、ちほの平和な日々を奪っちまったからか? 俺っちにはこれ以上、ちほを守れないからか?」
 私は、小さく首を横に振る。
「マロくん、聞いて。多分ね、誰かが通報してると思うから、もうそろそろ警察が来ると思う。でもね、大いなる陰謀なんて誰も信じないと思うの。そんなの大いなる陰謀の思うつぼでしょう? だからね、逃げて。私はマロくんに守って貰えなくても大丈夫だから」
「俺っちがちほを守らなきゃ。俺っちが奴らからーー」
私はマロくんの口を手で塞いだ。湿った唇の粘膜が、掌を濡らす。私は力強く見据えた。
「言ったでしょう? 私がマロくんを守るって」
「……ちほ」と掌から、マロくんの口が動いたのを感じる。
「今なら間に合うから、ね。逃げて」
 マロくんの頼りない手が、私の手を口元から引き離し、固く握りしめた。首をぶんぶん横に振り、痛んだ髪も一緒になって左右に動く。
「俺っち、ちほと離れるなんて出来ない! 俺っち、ちほが居ないと」
「逃げて!」
 べったりと赤く染まったマロくんの白目に、涙がいっぱい溜まっていく。黒目だけは私の知っている宇宙のように澄んだ黒目に戻っていて、その目で見つめられる私は、罪の意識から胃がズシっと重くなるのを感じた。
 それでも、視線を逸らさずにマロくんを直視した。宇宙に引き込まれぬよう両足に、丹田に力を込めて、引力から抗った。
「早く!!!!」 
頬に伝う涙を拭うマロくんは、最後まで潤んだ瞳で私をじっと見つめていた。表情一つ変えなかった私に、とうとう諦めたのだろう。
悲しみの重さで丸まった背中は名残惜しそうに、部屋を後にした。  
マロくんの去った後のドアが、ゆっくりとひとりでに閉まっていく。――バタン。と重々しい音を鳴らして、ドアは閉じられた。その音は、マロくんの最後の悲痛の訴えのような余韻を残し、私の胸は締め付けられるように痛みを感じた。
途端に広くなった部屋には嵐が過ぎ去った後の静けさみたいに、
虚しくなる。
冷蔵庫を開ける。あれだけ補充した野菜ジュースは、この数日間で一本しか残っていなかった。
キッチンの引き出しから鋏を取りだし、紙パックの角を切る。
豆苗の切り株を浸す水は、次第にオレンジ色へと染まっていく。風邪に効果のなかった最後の野菜ジュースに私は僅かな希望を託し、豆苗の根元に注いでいた。

 あの後、警察が事情を聞きに私の部屋へと訪ねて来た。痴話喧嘩をしただけで、所持していた物はただの手鏡です。などと適当に嘘を並べて説明したら、警察も暇ではないのだろう。すぐに帰って行った。大家からは厳重注意され、近所からの刺さるような視線は暫く続いた。
 しかし私にはもう関係のないことだった。荷造りしているダンボールは、今ので三箱目となる。実家に帰れば必要のなくなる物ばかりで、この部屋にあるの物は殆ど処分した。五、六ヶ月すれば役目を迎える冬物のコートをダンボールに詰め、ふたを閉じる。その上からガムテープで留めていくも、途中で足りなくなった。スマホの画面で時間を確認すると、0時を過ぎていた。夜行動物には十分に活動しやすい時間帯だ。闇が敵から身を隠し、平穏な毎日を守ってくれる。
 スーパーも百均もこの時間帯は閉まっているので、コンビニで定価のガムテープを買いに行く。
お財布には僅かしかお金は残っていなかったが、来月から家賃を支払う必要性はなくなり、お金を使う際も一人分の出費となる。そう思うと定価で買うのも痛くはない。お釣りでもらった二円を、レジ横の募金箱に寄付をした。
 コンビニを出る。歩いても歩いても人気はなく、時折吹く深夜の風は気持ちが良かった。遠くで聞こえる車の走行音に、虫のジーーーーと鳴く音が耳にこびりつき、もっと音のない場所に行きたくなった私は、回り道をした。
 一つの電信柱に、「フンは必ず持ち帰りましょう!」と赤い大きな文字で警告した紙が貼られていた。そういえば、この電信柱に隠れておしっこをしたことがあったな、と思い出す。夜までマロくんとドンキを巡った日の帰りだった。私は度数の強いお酒でヤケ酒しながら、マロくんと一緒に家路に向かっていた。途中で尿意が我慢出来なくなった私は、慌ててこの電信柱の陰にしゃがみ込み、おし
っこをした。マロくんは私のお尻を誰にも見せまいと、徹底的にガードをしてくれ、お陰で安心して放尿でた記憶が蘇った。
 どんな記憶だ、と心で突っ込むも私の頬は緩んでいた。鬱屈した
人生だけど、マロくんといた時はありのままでいれたのかもしれないなと思う。
公園が見える。去年まで日サロ代わりに活用していたあの公園だ。マロくんは全身の黒さをキープすべく、週一で通い焼いていたっけ。海パン一枚で寝そべる姿に近所の人から通報され、付き添いの私も一緒になって警察官に厳重注意された。二人してビビった。……
振り返ればモノクロだったこの街は、マロくんと出会ってから色彩を帯び始め、街の随所に思い出が散りばめられていた事を知る。穏やかな夜は私を過ぎ去った過去へ誘うも、遠くない距離から複数の人の声が聞こえ、我に返る。興奮したような、落ち着きを失ったな声は、一気に不穏な空気にした。気付けば公園の木立の間から勢いよく三人の影が飛び出し、こちらに向かって走って来ていた。私は恐怖のあまり、その場で凍りつく。
「二十六円しかねーよ」「ふざけんなし」「弱者使えねー」幼さが残る高くも低くもない声に、大人としては未熟な背丈は中学生くらいの男の子だろうか。慌てた様子でドタバタと走る姿は、何かから逃げ出してきたように思われた。私の横を通り過ぎる頃には切迫した様子から打って変わり、笑っていた。三人の馬鹿にしたような笑い声が、何故だか胸騒ぎを感じずにはいられなかった。
 がらんどうの公園に視線を向ける。虚しく街灯の明かりがポツリと灯っており、その灯りの下に、芋虫みたいな人間が転がっているのが見えた。
辺りに少年たちの姿がないことを確認すると、私は恐る恐る芋虫へと歩み寄った。
うずくまるその物体からは、小さな呻き声が聞こえた。服は土と砂埃にまみれ、腕や足は血が滲んでいる。私は覗き込むようにして顔を確認すると、まぶたが腫れ上がり、鼻血を流した顔は原型をとどめていなかった。しかし、私は直ぐにわかった。マロくんだった。
「マロくん!」
 体を揺するも返事はない。呼吸するにも痛みが伴うのだろうか。浅く短く呼吸をし続ける。
「マロくん! しっかりして! ちほだよ、ちほ!」 
 マロくんの手を握る。砂埃でざらついた細長い指は、ただの骨のように軽く感じる。
「ち……ほ……」
重くなったまぶたから、僅かに白と黒の眼球が覗く。
「マロくん! マロくん!」
「大……丈夫……なの……か……?」
「え?」
「大いなる……陰謀……に……やられて……ねえか……?」
 こんな時でも、マロくんは私を心配をしてくれている。私は頷く。何度も頷く。後ろめたさから逃れたくて、必死に頷いて誤魔化す。そうやって楽になろうとしている自分が、子供の頃の自分と重なる。結局、私は大人になっても変わっていないままだ。
 マロくんは腫れ上がった顔から、弱々しい笑みを浮かべた。
「帰ろう。ね、帰ろう。ごめんね、私が守るって言ったのに、守れなかった。でもね、もう大丈夫だから。もう大丈夫だから。私がやっつけたから、大いなる陰謀。私が、さっき大いなる陰謀やっつけたから」 
優しく頷いてくれるマロくん。いつだって、ありのままの私を受け入れてくれたのは、マロくん一人だけだった。
 私の握る手を解いたマロくんは、何かを求めて指先を伸ばす。私の顔に触れようとする手に「なに?」と顔を近づける。私の頭を力
なく撫でた。
「無事で……よかった……」

私に支えられながらも、マロくんは余力を振り絞り、なんとかこ
の部屋まで戻って来た。時折、マロくんの痰が絡んだような咳が止まらなくなり、体力の低下と風邪が随分と進行している様子が見て取れた。
布団の上で横になるマロくんを、はつらつとした豆苗がキッチンから見守ってくれている。枯れたと思われた豆苗は、あの後野菜ジュースで数本だけが延命処置で生き延び、今では青々しい若葉をつけていた。
部屋は消毒液も、包帯も、救急セットも処分していた。唯一の持ち歩き用に常備していたバンドエイドがあることを思い出す。
冷蔵庫の中も確認する。わかってはいるが、野菜ジュースはもうなかった。
私はキッチンの棚の引き出しからキッチン鋏を取り出し、生き残った七本の豆苗を束ね、茎を切ろうとした。が、視線を感じて手
を止める。
他の豆苗よりも短く、まだ成長途中の一本が私に何かを訴えかけていた。自分の体である茎の部分に鋏の刃があたったまま、間も無く切断されそうな状態である一本の豆苗。物言いたげに、私にじっと視線を送り続けている。もちろん目はない。ただ感じるだけだ。だが、確かに私に何かを訴えかけていた。
私は躊躇う。
結局、その子だけを残し、他の六本を根本から切り離した。
 収穫した豆苗をマロくんの顔に近づける。
「マロくん。これ、豆苗だよ。マロくんがくれた豆苗。野菜ジュー
スで生き延びたんだよ。栄養を全て吸収して、生き延びたの」
 パンパンに腫れ上がったまぶたの隙間から僅かに覗く眼球は豆苗を捉え、ゆっくりと手を伸ばして、豆苗を撫でた。
私は溢れ出た悲しさを、上手くない笑顔で上塗りする。
「最強っしょ。ね? 全ての生命力が凝縮してるの。私が品種改良した豆苗だよ。最強フード。ね、食べてみて」
 小さく頷くマロくんに、私は口元まで豆苗を運んだ。口はゆっくりと開かれ、豆苗が咀嚼されていく。
 痛々しく腫れた顔が、しかめた表情に変わったのが読み取れた。血の滲む唇から「ぅぐっ」と低い呻き声が漏れる。
「どうしたの、マロくん!」
「……に……げぇ……」
「にげぇ? 苦いの?」
 マロくんは、眉を寄せて小さく頷いた。口から半分ほど飛び出した状態の豆苗。咀嚼する度に、少しずつ残りの豆苗がマロくんの口内へと入っていく。
「ごめんね、苦いよね。生の豆苗はエグ味があって、美味しくないよね。マヨネーズか何かつけて食べさせてあげればよかったよね。
ごめんね。薬だと思って食べて。直ぐに元気になる筈だから」 
 最後のひと口をようやく飲み込むと、ごくりと音を鳴らして喉仏が動いた。
「た……べたよ……あり……がと……」
「もう、喋らなくていいよ。これで、きっと良くなるはずだから。だから眠ってていいよ、大丈夫」
 マロくんの体内へ流し込まれた豆苗は、胃袋で消化し、最強の栄養素が体中に吸収されるだろう。そして、今より少しでも、怪我も風邪も早く回復するはずだと、私は心の中で十字を切ってお祈りした。強く強く、存在しない神に向かってお祈りをした。

皮膚にこびりつく乾いた血や砂埃を濡らしたタオルで拭いていく。マロくんの全身は、痛々しい程に何処もかしこも赤く腫れ上がっていた。擦り傷や、何かで切り刻まれたような痕も至るところに見られた。手元にあるバンドエイドでは到底足りなく、タオルを代わりとして、腕や足の傷を包帯のように巻きつけるしかなかった。
 まどろむマロくんの顔が僅かに動いた。居間の隅に積み上げていた三つのダンボールに視線を向けていた。
「荷物、整理してたの」
 マロくんに反応はない。
「マロくんがいつでも戻って来れるようにって余計なもの処分してたの。実家に帰るのは中止になったから、新たな気持ちで生活が送
れるようにって。これでまた、一緒に居られるね」
 マロくんはゆっくりと顔を動かし、私を見る。血の跡が残る唇の両端を思いきり引き上げ、にかーっと微笑んだ。上唇から覗いた前歯が一本消えていて、ちょっと間抜けな顔に見えた。
私は吹き出した。折角だからマロくんの真似をして、にかーっと微笑む。
幸福感で満たされた私は、マロくんと並んで横になる。体を密着させる。すえた臭いが鼻腔を刺激した。
「ねぇ、マロくん。明日、お風呂入ろっか」
「う」
コクリと頷いたマロくんに、心なしか顔色が良くなっている気がした。
「ドンキ行こっか」
「う」
「朝マックもしようか」
「う」
「野菜ジュースも沢山買おっか」
 マロくんは親指を立てた。
「やっと……しあわ、せ……戻るっしょ……」
「そうだね。幸せ戻るね」
「おれっち……ちほいれば、しあわせ……ちほ、しか……いらねえ……ちほ、最強……しょ」
 私の心はじゅわりと温かくなる。この地球上でマロくんだけが私を愛してくれ、必要としてくれている。だったら、私はマロくんの
世界だけで生きていければいいと思った。
込み上げる嬉しさは恥ずかしさへと変わり、私はマロくんの頬をつねる。
「何言ってんの。今日はもう、明日に備えて寝るよっ。明日、ドンキで消毒液も包帯も、湿布も買って手当てしてあげるから。ね」
 マロくんは、コクリと頷いた。
「やくそく……」
「うん、約束」
小指を絡めた。もう離れることのないよう、しっかりと絡めた。電気を消した。瞼を閉じたら、もっと暗闇になった。小指の温もりだけが、部屋に残った。絡めた小指は、気付けば翌朝にはほどけていた。
約束を破ったマロくんに、針千本飲ますと誓いを立てておけばよかったと本気で思った。だけど、真っ暗な世界から二度と戻って来なかったマロくんには、それすらも無駄なことだと私は後になって気が付いた。
 
アスファルトが日差しを照り返し、首筋に汗が流れた。おびただしい蝉の鳴き声と、子どもたちのはしゃぐ声が鼓膜に触れる。
木陰で休みたい私は、太陽から逃げるように早歩きになる。
また一組、向かい側からやって来た親子連れが公園へと入って行く。三、四才くらいの小さな女の子と目が合うと、私を指を差した。「ママ、あれなに?」母親は私を一瞥するも「やめなさい」と小声で注意し、繋ぐ子どもの手を引っ張る。私から逃げるように、遊具ある場所へそそくさと歩いて行った。
あれから私はマロくんと一緒にドンキへ訪れ、もう必要のなくなった消毒液も湿布も包帯も買ったのだった。私が約束を守ってあげた。
マックにも行った。マロくんの好きなホットケーキとハッシュドポテトとオレンジジュースを写真の前に供えて、いつもの席で一
緒に食べた。
今日は、マロくんと公園で過ごすことにした。
マロくんと出会ってから、何度も足を運んだこの公園が、悲しい思い出一色に塗り潰されたくなくて、これからも、何度も何度も、マロくんと一緒に赴く予定だ。いつか私の体の栄養となり、肉となる一本の豆苗とも、その時まで一緒に思い出を作っていく。
 遠くの遊具で遊ぶ子どもたちのキャッキャと笑い、騒ぐ声。夜の不穏さを微塵も感じないこの場所は、きっと生命力溢れる子どもたちによって、嘘みたいに不吉な出来事を浄化させてしまったのだろう。
私は木陰のベンチに腰を掛ける。木々の葉が揺れ、心地よい音が聞こえる。
「今日も暑いね」
 右腕に抱えたマロくんの写真を、隣に置いた。
ガソスタの履歴書用に撮った証明写真をA4サイズに引き伸ばし、黒いフレームに収めたものだ。だからなのか、真っ直ぐに見据えたカメラ目線のマロくんは、いつもと違って妙に緊張気味で強張った表情をしている。うんとかすんとか、返事くらい出来そうにも思えるけれど、もういなくなったマロくんには写真であっても返事は出来ない。
『頭蓋内出血』そう死因を告げられた。頭部を打撲した衝撃で、頭蓋骨の内部で出血が起きていたらしい。気付けなかった。
翌朝、冷たくなっていたマロくんは、何度起こしても、決してまぶたを開けてはくれなかった。宇宙のように澄んだ黒目で、もう二度と、私を見てはくれない。
左腕に抱えたプラスチックの容器には、ほぼ全ての茎の刈られた
豆苗の切り株が、水に浸して入っている。太陽の日を浴びた生き残りの一本が、ぐんぐんとエネルギー蓄えたようにしゃんとしていた。
マロくんの写真の側に、豆苗も置く。
口を固く結び、似合わない真面目な顔つきのマロくんはレンズの奥を見入っている。まるでその先には本当に何かがあるように思え、私はなんとなく視線の先を追った。「Muscle Vitamin」の文字があった。男の誇らしげな胸板とたくましい腕。その隣に体をすり寄せ、日傘を挿した翔子が立っていた。真っ黒な帽子を深く被り、真っ黒で大きなサングラスをかけ、真っ黒なフェイスカバーをした顔は誰だかわからない。しかし、ご自慢のお尻を強調したスタイルと「Muscle Vitamin」の隣にいる女と言えば翔子だろう。手に持つリードの先には、チワワもいた。薄ピンクのフリルの付いたワンピースを着させ、鉄のように頑丈そうな口輪をはめたチワワ。小ちゃな赤いハイヒールを四足履かせた足元は、不安定にブルブルと震えていた。
翔子がリードを強く引っ張るも、チワワは震えた足で〇.一㎜ずつしか進まない。世も末だなと思った。
私は沸々と込み上げる笑いを我慢するも、堪えきれない笑いが呼吸を困難にし、苦しくなる。笑いが止まらない。次第に声は大きくなり、周りからの視線を集め始める。
涙が次から次へと頬に流れる。こんな可笑しかったことがあっただろうか。
翔子は私の笑い声に気が付いたようで。歩かぬチワワのリードを旦那に渡し、私の傍までやってきた。
「何してるの?」
 笑い過ぎて苦しい私は姿勢を崩し、ベンチに倒れ込んで笑い続ける。笑っているのだから、喋れるわけがないだろう。
 顔のない人物が、サングラス越しから私をじっと見下ろしている。表情は全く読み取れないが、翔子のことだ。きっと頬を引き攣らせている筈だ。
呼吸が次第に落ち着きを取り戻し、涙を拭う。身を起こし、深呼吸をする。
 翔子はじっと傍で佇み、私が何か喋り出すのを待っている。
 私は両腕にマロくんの写真と、豆苗をそれぞれしっかりと抱え、立ち上がった。
 乾いた空気を切り裂くように片膝を思いきり振り上げた。もう片方の地面に着いている足は軽く飛び跳ね、再び軽く跳んだ勢いで、更にもう一度跳び、そして今度はその足の膝を空中に振り上げる。交互に三歩ずつ。自分なりのリズムをつけて、足を弾ませ進んで行く。
豆苗の容器から、水が高く跳ね上がり、私の手の甲を濡らした。若葉についた水滴は太陽の光に反射し、きらりと私の目を射った。

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