推しと初恋
「みどり、なんかぼーっとしてるけど大丈夫そ?」
「うん……」
「ならいいケドさ」
私は笑って誤魔化した。
__昨日あったことを思い出していた。
夜を照らす繁華街の光、
絵に描いたような不良。
そして、私を助けてくれた男性のこと。
あの後、男性はカフェに荷物を忘れたと言って慌てて戻っていってしまったけれど、無事見つけられたのだろうか。
なんだか近寄りがたい雰囲気の人だと思ったけれど、優しい人だった。
もし、また会えたなら、何かお礼がしたい。
「ねぇ、小麦」
「ん?」
「男の人って、何もらうのが嬉しいかな」
「なになに、loveの予感??」
身を乗り出す小麦に、私は顔を勢いよく横に振った。
「ううん、ちょっとお世話になった人にお礼をしたいなって」
私がそう言うと、小麦は「えー、つまんないの」と、明らかにテンションが下がったようだった。
それでも私の質問に対する答えは真剣に考えてくれているようで、こう続けた。
「その人にもよるけど、食べ物か消耗品が無難じゃん? あとはご飯奢るとか!」
*
数日後、私は何の準備もできていないまま、塾の帰り道に、あの男の人を見つけた。
なんとなくのぞいたカフェの窓ガラス。
この間、カフェがどうとか言っていたから、塾の近くのお店を覗いてみたら、
窓に面した席で、男がコーヒを飲みながら勉強をしている姿を、ものの見事に見つけてしまった__と言うわけだ。
どうしよう。
渡すもの、まだ何も準備できてないよ。
今からどこかで何か買ってきて渡そうか……いや、ここを離れた隙に店を出られたらもう二度とお礼を言う機会はないかもしれない。
逡巡の後、私は思い切って店内に入ることにした。
店内は自由席、オーダーは各自レジで済ますタイプのお店。
幸い、男性が座っている窓際の席には、他にお客さんはいなかった。
「あ、あの」
私は勢いで男性に声をかけた。
「私、岡山みどりって言います。この間はありがとうございました」
すると、こちらを振り向いた男性はひとみを大きくした。
彼の視界に入って、自分の体が強張るのが分かる。
もしかして私のこと覚えていないかもしれない、その可能性に気がついて、慌てて言葉を付け足した。
「先日、不良に絡まれていたところを助けていただきました」
「……ふっ」
男は、緊張した空気を微笑み一つで崩してみせた。
「大丈夫。覚えてるよ」
よかったと、ひとまずホッとする。
すると、男性は言った。
「今日はどうしたの?」
そうだ、お礼をしたくて声をかけたんだ。
でも、お礼の品はーー
そのとき先日の小麦の言葉を思い出した。
『その人にもよるけど、食べ物か消耗品が無難じゃん? あとはご飯奢るとか!』
「……何か奢らせてください。コーヒーでもサンドイッチでも、何か買ってくるので」
「いいよ、そんなの気にしなくても」
「でも……」
「じゃあさ、この問題わかる?」
そう言って、男はポンポンと椅子を叩いて、隣の席に座るよう促した。
私は一瞬躊躇い、渋々腰をかけた。
問題文に目を通す。
問題は、教科書の最後の方の単元で、私は塾ですでに習っている範囲だった。
自分でも分かる問題でホッとした。
「あぁ、ここの二次関数は、この公式を使って__」
解き方を説明し終わると、
男性はペンを握り何やらノートに書き始め、程なくして、机に置くと、にっこり笑った。
「できた」
ノートには見事な曲線が描かれていた。
「……正解です!」
「ありがとう。ここわかんなくてさっきから悩んでたんだ」
この分野は私も苦労したところで、何回も復習したからこそ、人に教えられる程度になっていてよかったと思った。
でも、まさか勉強がこんなところで役に立つなんて。
__それにしても、私には一つ気になっていることがあった。
「……あの、もしかして学生さんなんですか?」
私の言葉に男性はきょとんとしてから、くつくつと笑った。
「え、……」
お腹を抱えて愉快そうに笑う男性に戸惑った。
するとしばらくして、男性は微笑を漏らして言った。
「いや、ごめん。俺、高校生だよ。そんなに老けて見えた?」
「すみません、断じてそういう意味では……!」
慌てる私に、男は頷いた。
「ふふ、大丈夫。分かってる」
「制服じゃないし、なんだか大人っぽく見えて……! でも、この教科書、私が学校で使ってるのと同じだから、同い年かなと」
「そう、みたいだね」
驚いた。
だってクラスの男子とはまるで違うから。
大人びた話し方も、落ち着いた雰囲気も、心の奥底を見透かされそうな深い眼差しも。
目の前の男が、制服を着て、クラスで授業を受けている様がどうしても想像できなかった。
「ねぇ、よかったら、また勉強教えてよ」
「私でよければ……!」
「やった」
にっこり笑った顔に、不覚にも胸がときめく。
「俺、だいたいこの時間帯にはこのカフェで勉強してるから、塾の帰りとか気が向いたらきてね」
こんなのただの口約束で、男性だって本気でいったわけではないかもしれない。
でも、塾の帰りに彼をカフェで見かけるとなんだか嬉しくなって、
それから、塾の日には彼にカフェで勉強を教える日々が始まった。
受験のための漠然とした勉強は、どうやったら彼に分かりやすく伝えられるか、その目標ができただけで格段に楽しくなった。
「岡山さん、最近調子がいいみたいね。このままいけばAクラスも行けるんじゃないかしら」
塾のテスト返しで、谷口先生にそう言われ、私は密かにガッツポーズをした。
私の塾では学力別にABCDクラスにわかれている。
私はこれまでずっとBクラス。
私の志望校の場合はAクラスに行かないとちょっと難しいと再三チューターに言われていたこともあり、今回の評価はめでたいことであった。
「調子のんじゃねぇぞ」
席に戻ると隣の席の綿貫がそう吐き捨てた。
綿貫宗介。
同じくBクラス。
この塾では席が半年に一度のテスト順で固定されており、なぜか私と綿貫はこの塾入って以来ずっと隣の席だった。
「……のってないよ」
ライバル視されてるのか、いちいち私につっかかってくるので、正直苦手だ。
「お前、最近塾の後、カフェにいるだろ」
出し抜けに綿貫にそう言われドキッとした。
でも、あのカフェは塾のすぐそばで誰かの目についてもおかしくなかった。
それに私は彼に勉強を教えているだけで、何もやましいことはない。
「いるけど、それが?」
「それがって、お前あの男のこと知ってて一緒にいるのか?」
「それって、どういう__」
「そこ、私語を慎みなさい」
先生からの叱責がとび、私たちは会話をやめ、前を向いた。
綿貫がどういう意味であの言葉を発したのか、あとで聞こうと思っていたのに、
その日は帰りがけに小テストがあってすっかり忘れてしまった。
*
「みどりちゃん、どうしたの?」
カフェで、男性にそう聞かれ私はハッとした。
「ごめんなさい、ちょっと考え事してました。どこまでやりましたっけ?」
慌てて、ノートに目を落とす。
「それは別に良いんだけど……悩みごと? 俺でよければきくよ」
男性が白く長い手でノートを遮り、ふと上げた視線は息がかかるほど間近で交差した。
「そんな……大したことじゃないです」
もうすぐ男性とカフェで会うようになって三ヶ月が経とうとしている。
しかし私は男性がどこの高校に通っているかはおろか、名前さえ知らなかった。
以前聞こうとしたことがあったけれど、やんわり断られてしまいそれから聞かずじまいだった。
*
「それって怪しくない?」
「エッ……そうかな、」
学校でお昼を食べている時に何気なくカフェで会っている男性の存在をこぼすと、小麦は真顔でそう言った。
「そうでしょ! 名前も高校も知らないなんて絶対おかしいよ」
「……だけど良い人なの」
「それはそうかもだけどさ。名前と所属が言えないなんて何か後ろめたいことがあるんじゃないの?」
自分が考えないようにしていたことを言い当てられ、続く言葉に困った。
「あーあ、最近、井上くんの話しないと思ったら、そんな得体の知れない男に引っかかってたなんて。それなら絶対井上くんにしといた方がいいって」
「だから、井上くんは推しで」
「じゃあ、カフェの人はなんなの?」
「カフェの人は……」
最初は、助けてくれた優しい人だと思っていた。
それでいて、あんなほっそりした身体のどこにそんな力があるのだろうってくらい強くて、
話すうちに、意外と冗談も言うしユーモアもあって、
でもどこかここにいるようでいない不思議な雰囲気の人。
__あれ、私、どう思ってるんだろう、あの人のこと。
「あ、みどり顔真っ赤」
「そ、そんなことないよ!」
「岡山さん」
「っ、はい!」
名前を呼ばれた方を勢いよく振り返ると、そこにいたのは井上くんだった。
「これ、返却のノートです」
「あ、ありがとう」
にっこりと微笑まれ、心が絆される。
あぁ、やっぱり井上くんは素敵だ。
彼を見ると心がほわっとする。
私は去り行く彼の後ろ姿を見送って、ギュッとノートを抱きしめた。
「浮気者」
ボソッと小麦が言う。
「やめてよ、もう」
私は小麦を精一杯むくれ顔で睨んだ。