乃々と貸別荘の話
3博物館




 乃々は、ベッドの上に腰掛けて、肩にかけた丸いポシェットの中を探っていた。


 入れたと思った物が入ってない事を、学校の友達はフェイントと呼んだが、乃々は、そのフェイントの常連だった。




「早く準備しなさい、乃々。」




 ゆったりした余所行きのズボンを履いた母親が、髪を整えながら言った。




「待ち合わせに遅れるのは人として最低。博物館は混んでるだろうから、あなたは今日は蒼空くんから離れちゃ駄目よ。」




 乃々達は、蒼空親子と博物館に行くことになっていた。


 珍しい物を見るのが好きな乃々は、博物館に行くのをずっと楽しみにしていて、昨日はいつもよりずっと早くに寝た。


 乃々はポシェットでくしゃくしゃになっていたハンカチを膝の上に出して、どうにかして綺麗に伸ばそうとしているところだった。




「聞いてるの?」




 母親が見ていた小さな鏡から、乃々を振り返った。




「全く。そんなんじゃ博物館で迷っちゃうわよ。本当に気をつけなさいね。」




 ハンカチを無理矢理畳んで仕舞いながら、乃々ははい、と返事した。




「蒼空くんちのママの車で行くんだから、綺麗な方のサンダル履いていきなさい。」




 言いながら母親はチェストを開けた。



「日焼け止めがないわね……。」



 乃々はベッドから降りると、居間の端にあったスーツケースを開けて、新しいサンダルの袋を出した。










 晴れた空が広がり、アスファルトは夏の日差しに眩しく光って見える。 


 蒼空の母親と蒼空は大人数乗りの車の前で乃々達が向かって来るのを待っていた。




「おはよう、乃々」




 車に寄りかかって、蒼空が言った。






「おはよう」

「森の動物の展示は、動物園よりはまし。行かなくてもいいけど、新しい展示なんだって。」

「乃々ちゃんのママはいつもお洒落ねえ。乃々ちゃんも可愛い格好で。今日もワンピースなのね。いいわねえ、女の子は。」

「よくもないわよ。うちはどう考えてもママの着せ替え人形になってるわね。私は楽しいけど。乃々、ハンカチちゃんと持ってきたでしょうね?」

 乃々が、持ってきたハンカチを見せようとしてポシェットのジッパーを開けると、横から虫よけスプレーが落ちてアスファルトに転がった。









「すぐ着くと思うけど、蒼空、エアコン入れて頂戴」




 ドアを開けて運転席に乗り込むと、蒼空の母親が言った。




「CD流すよりお互いの話で盛り上がりましょうよ。蒼空乃々ちゃんと後ろに座りましょう」




 乃々が後部座席に乗り込むと、蒼空が隣から乗り込み、バタンと扉を締めた。














 母親2人は乃々達が博物館を見る間に買い物に行く予定を立てていた。


 博物館の前には広い公園があり、その芝地を突っ切って行く。

 見えてきた博物館は前衛的な形をした建物で、イルカの模型のオブジェが入口の前に飾られていた。



 チケット売り場でチケットを買おうとした乃々の首根っこを掴んで、蒼空が子供用のチケットをまとめて2枚頼んだ。


 売り場の女の人からチケットを受け取った乃々達は手を振って、母親達と別れた。


















 館内は混んでいた。


 動物が沢山展示されていて、全部脇の小さなプレートに説明書が書いてある。


 何より外と違って涼しいのが乃々には嬉しかったが、蒼空がスタスタ歩いて行ってしまうので、遅れない様にするのが大変だった。




「動物って言っても色々居るけど、ここは森の動物専門なんだね」




 展示の前の立入禁止の赤いロープに触れながら、蒼空が言った。






「お前飼育係になりたかったって言ってなかったっけ」

「うん。動物は大体好き」

「僕も嫌いじゃないけど、そこまでじゃない。飼うのは嫌、面倒だから」

「剥製って本物だと思う?」

「知らない。本物だったら気の毒にね。……ちゃんと見てこいって言われた。」






 説明書を読む蒼空を乃々は隣で眺めていた。


 乃々の楽しみにしていた野ウサギの展示は、透明なケースに入っていてライトアップされており、すぐ側に住処のミニチュアの模型があった。


 剥製はグレーの兎で、触っても平気な展示で、毛がふわふわと逆だっている。




「ハーレー」




 展示の前で、蒼空が呟いたので、乃々は目を瞬いた。






「ハーレーって?」

「野ウサギの事。塾で習った。英語でハーレーって言うんだ」

「蒼空くん塾に行ってるの?」






 剥製を撫でながら、乃々が聞いた。






「行ってる。週2日。お前行ってないの?」

「行ってない。塾って楽しい?」

「別に。楽しくはないけど、色んな事を覚える。普通に過
ごしてるより余っ程頭使うかな」

「ふーん」

「中学とか高校とかに上がった時、明らかに差が付くんだって。お前も行きな。」






 蒼空が言った。




「もっとも、お前はやっても出来るか分かんなそうだな」




 暗いホールの展示や、明るいカラフルな映像の展示などを見て進むうちに、乃々は動物がどうやって暮らしているかで頭が一杯になってきた。


 自分が森の中で生活している様な気分にもなって面白く、蒼空にそう言ってみたが、蒼空はそっけなかった。




「森の中じゃ暮らせないだろ」










 一階の大展示場を見下ろせる、明るい2階のロビーまで来ると、透明な手摺に寄りかかって、蒼空が口を開いた。





「動物の展示って、こんなんばっか。」




 乃々が返事をする前にふんと鼻を鳴らした。



「まあ、教育的趣味ではあるな。」



 蒼空は、さっきロビーの自販機で買ったお茶の蓋を開けると、口をつけた。






「帰りが別でも帰れる様に、タクシー代貰った。」

「迎え来るよ」

「先帰りたかった場合。」






 ボトルを鞄に仕舞うと、蒼空は向き直って手摺に腕をかけ、下を見下ろした。


 隣から見ると、蒼空のその仕草は、なんだか大人の様に見えた。


 乃々も、真似をして手摺に腕を掛け、同じ様に下を見た。
 

 入口から近い階下の大展示場にはお客さんが多く、大勢の人が出たり入ったりしている。


 ガラス張りの壁からはさっき通ってきた芝生の公園が見えて、その向こうは駐車場で車が停まっていた。




「こういう人混みで僕からはぐれたら、親が探しに来るまでお前は帰れないね。そうなったらどうする?。」




 乃々は、男の子にこの手の意地悪を言われた時になる、難しい表情をした。




「僕に感謝しな。お前がはぐれない様に、見張っててやれる。」




 蒼空は、手摺から腕を離すと、行くよ、と声をかけた。


 歩き出そうとした乃々は、後ろから手首をぐい、と掴まれた。




「……そっちじゃない。こっちだよ」




 蒼空は乃々の手首を掴んだまま歩き出した。











 蒼空は博物館を出るまで、乃々の手を離さなかった。


 博物館を出ると日差しが暑くて、乃々はできればもう一回建物に戻りたい様な気がした。


 母親達は車の中にエアコンを効かせて待っていた。




「どうだった?」




 笑顔の蒼空の母親に、蒼空が応えた。






「まあまあ。面白かったよ」

「買い物どうだった?」






 乃々が聞いた。



「バッチリよ」



 母親が言った。











































































































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