離婚した元旦那様、恥ずかしいので心の中でだけ私を溺愛するのはやめてください、全て聞こえています。
☆☆☆

 逃げるように自室に戻った(おぼろ)は、スーツケースに私物を詰め込む作業に没頭した。


 離婚は決定的だろう。

 これで、煩わしい義父母から離れられる。

 ふたりの、《あの声》から、ようやく逃れることができる。

 かといって、安心してばかりはいられない。

 龍ケ崎の家を出たあとに、身を寄せられる場所は今の朧にはない。


 まもなく実家の両親のもとに、激昂した富子から連絡があるだろう。

 先程、朧が突然告白した内容を知れば、両親もまた、プライドを傷つけられ、ひとり娘である朧を勘当することは、目に見えている。

 まずは住む場所を探し、わずかばかりの貯金で新しい生活環境を整えなくてはならない。

 仕事も、探さなくてはならない。

 自分ひとりの力で、これからの人生を切り開かなくてはならないのだ。

 ──でも。

 今の環境に耐えることと、苦労して働くことを天秤にかけると、決断は容易についた。

 この家を出たことを、この先、後悔することは恐らくないだろう。

 何だか、胸がすっとした。


 心残りがあるとすれば、夫婦となって1年が過ぎても、実家に帰らなかった夫の湊斗の顔を拝めなかったことくらいか。


 ☆☆☆

 東雲朧(しののめおぼろ)は、道具にすぎなかった。

 女の子に生まれたその瞬間から、朧は龍ケ崎家に嫁ぐことを決められていた。

 東雲は、龍ケ崎ほどではないが、国内有数の名家だ。

 一族には強力な異能を操る者が多くおり、龍ケ崎との関係も深かった。

 朧の両親は、日本随一の家柄である龍ケ崎との関係を強固にするため、次期当主となる湊斗に娘を嫁がせることを湊斗の両親と約束していた。

 全ては、東雲の格を上げるため。
 
 両親の野望も知らず、物心ついたころから、朧は湊斗との結婚に向けて花嫁修行をさせられ、厳しく(しつけ)をされてきた。

 朧も、両親の期待に応えようとした。

 行き過ぎた躾に反抗することもなく、自分を待ち受ける未だ見ぬ婚約者を想像しながら、従順な娘に育った。

 そして、朧が18歳のとき、両親は悲願を達成したのだ。

 東雲朧は、龍ケ崎朧となり、両家は親族となった。

 自分たちの顔に泥を塗った朧を、両親は許さないだろう。

 二度と両親と会うことはできないかもしれないと思うと、一抹の寂しさも感じないことはないが、これが自分の運命なのだと考えれば、耐えられないこともなかった。


 朧には、両親に愛された経験がない。

 たったひとりの娘は、家の格を上げるためにもうけた、言ってしまえば生贄に近かった。

 それを知ったとき、朧はショックを受けるとともに、両親から愛情を注がれることを諦めた。


 がらんどうの娘は、生まれてからこれまで、自分の意志で物事を決めたことがなかった。

 それは、嫁いでからも同じだった。


☆☆☆

 一晩中かかって荷物をまとめ、寝不足にぼうっとしていると、部屋がノックされ、使用人のみゆきが顔を覗かせた。

 まだ若いみゆきは、朧のお姉さん的存在であり、相談相手でもあった。

 みゆきは、「旦那様が呼んでいる」と告げると、朝食を作るため、さっさと姿を消してしまった。


 『旦那様』。

 それが、龍ケ崎湊斗(みなと)を指す言葉だと理解するまでに、少しの時間を要した。

 おそらく、昨夜(ゆうべ)の一件が湊斗の耳に入り、全く寄り付かなかった実家に帰ってきたのだろう。

 結婚したにも関わらず、妻を義理の両親と同居させて家にも帰らない湊斗を、無責任だと、朧は心のどこかで責めていた。

 重い足取りで、湊斗の寝室へと向かう。

 入室の許可を得て、緊張しながら寝室に入ると、神々しいまでの雰囲気をまとった男性──湊斗が(くら)い表情で朧を迎えた。

 そして、開口一番、『離婚が成立した』と告げたのだった。

「そう、ですか。わかりました」 


 ずいぶん展開が早いな、と思いながら、朧はそれ以上何も言う気はなかった。


 夜通し家族会議を行い、朝早くに離婚の手続きをして、正式に離婚が成立したのだと、木訥(ぼくとつ)と湊斗は語った。

 ならば、話は終わりだ。

 朧は正座したせいでしびれた脚で立ち上がり、深々と頭を下げた。

「短い間でしたが、お世話になりました」


 本当に短かったな、と朧は顔を上げつつ、もう夫ではなくなった湊斗の顔を拝んだ。

 敗北感を感じるほどの神がかり的な美しさを失礼にならないほどの数秒だけ見つめたあと、視線を反らす。

 龍ケ崎家に生まれたのだから、働かなくても生活には困らないだろうに、湊斗は家に寄り付かなかった。

 異能を用いての仕事を、何かしているのだろうと、朧も深くは考えなかったのだが、新婚らしいことは、何ひとつしなかったな、と改めて思う。

 そもそも、湊斗には自分が結婚しているという認識が本当にあったのだろうか。

 自分の妻となった朧に、関心はあったのだろうか。

 部屋の扉に向かって歩き出そうとした朧を、湊斗の感情を含まない、ぶっきらぼうな声が引き留めた。

「お前、心が読めるな」

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