獣人の里に流れ着きましたが、夫の番犬ぶりのおかげで穏やかな日々です。
10 ほろ苦い夜の約束
警護所にジオスというお客さんが来てから、ラウルは忙しくなった。
朝も早いし、夕食の時にちょっとだけ家に戻って食事を取ると、不本意そうにまた警護所に戻っていく。
ラウルは夜の再出勤の時、何度目にもなる詫びをミカに言う。
「ごめんな、ミカ。あいつが王都に帰ったら、旅行にでも行こうな」
「お客さんなんだから仕方ないですよ。それより夜遅いから、ラウルさんが体を壊さないか心配です」
ミカがそう言うと、ラウルは平気そうに笑ってみせる。
「警護官は夜通し護衛をしながら行軍することもある。俺は大丈夫だから心配するな。……ミカはちゃんと戸締りをして、早く寝るんだぞ」
ラウルはぽんぽんとミカの頭をなでて、今日も出発するのだ。
ミカはラウルのために何かできないか考えた。おやつを差し入れするのはジオスに遭遇するかもしれないから、ラウルはあんまり嬉しくないらしい。
それならと、家の掃除をしたり、お弁当を作ってラウルに持たせたりしている。お弁当はラウルがすごく喜んだ。だから更なる研究をしている。
けれどラウルは、力仕事はミカにさせられないと断る。たとえば獣人の里では、洗濯は男の仕事らしい。水を汲みに番いを井戸まで往復させるなんて、獣人の男のすることじゃないと言う。
陽は落ちてひんやりした空気が満ちる頃、干しっぱなしの洗濯物が風になびいている。ミカはそれを見て、決意を固める。
「取り込んで畳むくらいは……いいよね」
ラウルに洗濯は任せてほしいと言われているけど、それほど力が要らない仕事の部分はミカがやればいいのだ。忙しいラウルにこれ以上無理はさせられない。
ミカは洗濯籠を取って来て、ちまちまと取り込み始める。洗濯竿の位置がラウルの背丈なので、小さなミカでは精一杯背伸びをしないと届かない。だから予想より疲れて息が上がってしまった。
「あ……っ」
ミカが最後のシーツ一枚に手を伸ばしたとき、風にひらりと持って行かれる。
ミカは反射的にそれを追って家の敷地を出ていた。日没の後は戸締りをして、家から出てはいけないとラウルに言われていたけど、シーツを追うのに焦っていて忘れていた。
すっかり真っ暗になった裏庭の原っぱにシーツは落ちていた。ミカはほっとして、シーツを拾い上げようと手を伸ばす。
そのとき、すぐ近くに慣れない匂いを感じた。サクっと原っぱを踏みしめる複数の足音が聞こえたかと思うと、ミカは数人の獣人に取り囲まれていた。
「甘い匂い……」
その一番近くにいたのは、警護所で下働きをしていたルツという少年に見えた。でも薄闇の中で彼の瞳孔は縦に伸びていて、尻尾がたん、たん、と不穏な揺れ方をしていた。
踏まれて行く白いシーツ、汚すのを喜ぶような獣人たちの足取り。
ミカは本能的な恐怖を感じて震えた。けれど足が竦んで、悲鳴も喉の奥で詰まって出てこなかった。
「ばれなければ、触ってもいい……?」
ゆらりと伸ばされた手が怖くて、ミカはどうすることもできずに息を呑んだときだった。
「俺の番いに何してる!」
ルツをはじめ取り囲んでいた獣人たちが四方に吹き飛んだ。文字通り吹き飛んだ、というのが正しくて、殴ったのか蹴ったのか、それすら動きが早くて見えなかった。
ただ次の瞬間、ミカはラウルの肩に抱き上げられていて、たぶんラウルがルツたちを昏倒させてくれたんだろうなとわかったくらいだった。
ラウルはミカを担いだまま裏庭の柵を飛び越して、ものの数秒で住処の中まで連れてくると、ミカをそっと敷布の上に下ろしてくれた。
「ごめんなさい、ラウルさん……私」
ミカは言いつけを破ったことを謝ろうとして、その前になじみ深い腕に包まれて言葉を失う。
「怖かったな、ミカ。すまん、一人にして。……もう大丈夫だ」
そう言われてぎゅっと抱きしめられると、ミカの目がじわっと滲んだ。
ミカは子どものようにラウルの服を掴んで、反射的にラウルの匂いを繰り返し吸い込んだ。ミカは獣人ではないのに、番いの匂いはとても安心できるものだとわかっていた。
どれくらいそうしていたのか知れない。ミカがようやく恥ずかしくなっておずおずと体を離したら、ラウルはミカを叱るでもなく言った。
「すまんな。番いを持たない獣人は発情期に弱いんだ。夜になると、本能に惹かれて他人の番いにまで手を出すことがある」
ミカは息を呑んで、しゅんと首を垂れる。
「そうだったんですか。ごめんなさい、夜に出歩いたりして」
「いいんだ。洗濯物を取り込もうとしてくれたんだろう?」
ラウルはくしゃりと目の端にしわを作って笑って、ミカの頭をぽんと叩く。
「俺の手伝いをしようとしてくれた。その気持ちがうれしいんだ。ただ俺はミカが笑って暮らしてくれる方が大事だから、危ないことはあんまりしてほしくない。……わかってくれるか?」
「はい……」
ミカはこくっとうなずいて、夜に外に出ないと約束を交わした。
獣人の里のことが少しわかって、ラウルの優しさの意味も改めてわかった、そんな夜だった。
朝も早いし、夕食の時にちょっとだけ家に戻って食事を取ると、不本意そうにまた警護所に戻っていく。
ラウルは夜の再出勤の時、何度目にもなる詫びをミカに言う。
「ごめんな、ミカ。あいつが王都に帰ったら、旅行にでも行こうな」
「お客さんなんだから仕方ないですよ。それより夜遅いから、ラウルさんが体を壊さないか心配です」
ミカがそう言うと、ラウルは平気そうに笑ってみせる。
「警護官は夜通し護衛をしながら行軍することもある。俺は大丈夫だから心配するな。……ミカはちゃんと戸締りをして、早く寝るんだぞ」
ラウルはぽんぽんとミカの頭をなでて、今日も出発するのだ。
ミカはラウルのために何かできないか考えた。おやつを差し入れするのはジオスに遭遇するかもしれないから、ラウルはあんまり嬉しくないらしい。
それならと、家の掃除をしたり、お弁当を作ってラウルに持たせたりしている。お弁当はラウルがすごく喜んだ。だから更なる研究をしている。
けれどラウルは、力仕事はミカにさせられないと断る。たとえば獣人の里では、洗濯は男の仕事らしい。水を汲みに番いを井戸まで往復させるなんて、獣人の男のすることじゃないと言う。
陽は落ちてひんやりした空気が満ちる頃、干しっぱなしの洗濯物が風になびいている。ミカはそれを見て、決意を固める。
「取り込んで畳むくらいは……いいよね」
ラウルに洗濯は任せてほしいと言われているけど、それほど力が要らない仕事の部分はミカがやればいいのだ。忙しいラウルにこれ以上無理はさせられない。
ミカは洗濯籠を取って来て、ちまちまと取り込み始める。洗濯竿の位置がラウルの背丈なので、小さなミカでは精一杯背伸びをしないと届かない。だから予想より疲れて息が上がってしまった。
「あ……っ」
ミカが最後のシーツ一枚に手を伸ばしたとき、風にひらりと持って行かれる。
ミカは反射的にそれを追って家の敷地を出ていた。日没の後は戸締りをして、家から出てはいけないとラウルに言われていたけど、シーツを追うのに焦っていて忘れていた。
すっかり真っ暗になった裏庭の原っぱにシーツは落ちていた。ミカはほっとして、シーツを拾い上げようと手を伸ばす。
そのとき、すぐ近くに慣れない匂いを感じた。サクっと原っぱを踏みしめる複数の足音が聞こえたかと思うと、ミカは数人の獣人に取り囲まれていた。
「甘い匂い……」
その一番近くにいたのは、警護所で下働きをしていたルツという少年に見えた。でも薄闇の中で彼の瞳孔は縦に伸びていて、尻尾がたん、たん、と不穏な揺れ方をしていた。
踏まれて行く白いシーツ、汚すのを喜ぶような獣人たちの足取り。
ミカは本能的な恐怖を感じて震えた。けれど足が竦んで、悲鳴も喉の奥で詰まって出てこなかった。
「ばれなければ、触ってもいい……?」
ゆらりと伸ばされた手が怖くて、ミカはどうすることもできずに息を呑んだときだった。
「俺の番いに何してる!」
ルツをはじめ取り囲んでいた獣人たちが四方に吹き飛んだ。文字通り吹き飛んだ、というのが正しくて、殴ったのか蹴ったのか、それすら動きが早くて見えなかった。
ただ次の瞬間、ミカはラウルの肩に抱き上げられていて、たぶんラウルがルツたちを昏倒させてくれたんだろうなとわかったくらいだった。
ラウルはミカを担いだまま裏庭の柵を飛び越して、ものの数秒で住処の中まで連れてくると、ミカをそっと敷布の上に下ろしてくれた。
「ごめんなさい、ラウルさん……私」
ミカは言いつけを破ったことを謝ろうとして、その前になじみ深い腕に包まれて言葉を失う。
「怖かったな、ミカ。すまん、一人にして。……もう大丈夫だ」
そう言われてぎゅっと抱きしめられると、ミカの目がじわっと滲んだ。
ミカは子どものようにラウルの服を掴んで、反射的にラウルの匂いを繰り返し吸い込んだ。ミカは獣人ではないのに、番いの匂いはとても安心できるものだとわかっていた。
どれくらいそうしていたのか知れない。ミカがようやく恥ずかしくなっておずおずと体を離したら、ラウルはミカを叱るでもなく言った。
「すまんな。番いを持たない獣人は発情期に弱いんだ。夜になると、本能に惹かれて他人の番いにまで手を出すことがある」
ミカは息を呑んで、しゅんと首を垂れる。
「そうだったんですか。ごめんなさい、夜に出歩いたりして」
「いいんだ。洗濯物を取り込もうとしてくれたんだろう?」
ラウルはくしゃりと目の端にしわを作って笑って、ミカの頭をぽんと叩く。
「俺の手伝いをしようとしてくれた。その気持ちがうれしいんだ。ただ俺はミカが笑って暮らしてくれる方が大事だから、危ないことはあんまりしてほしくない。……わかってくれるか?」
「はい……」
ミカはこくっとうなずいて、夜に外に出ないと約束を交わした。
獣人の里のことが少しわかって、ラウルの優しさの意味も改めてわかった、そんな夜だった。