エリート狼営業マンの甘くてズルい魅惑の罠


「引越し」


私が目の前のその綺麗な男をむくれた顔で見続けていると、彼はそんなことは気にも留めずに一言、語句だけをさらりと声にして私に目を向けた。


「え?引越し?」

「そう、引越し。家探し優先でまだ途中なんだろ?俺が休みのうちに手伝うしかねぇじゃん」

「ああ!なるほど、それで寮の場所を……」


訊いたのね。

なんだかとてつもなく恥ずかしい勘違いをしてしまっていた数分前の自分を殴りたい。


ただの善意で言ってくれていただけの言葉を、勝手に変な方向に解釈して挙句には食ってかかろうなんて、みっともないにもほどがある。


「業者、仕事のコネで安くしてくれる良い所知ってるから、今スケジュール確認してる」

「えっ!いつの間に……」

「お前が空のカップで隠しながら人の顔を好き勝手、鑑賞してる間に」

「うっ」


ば、バレてた。やっぱりバレてた。いや見てたことを気付かれてたのはわかってたけど、改めて指摘されるのはまた堪えるものがある。


立て続けにあらぬ真実を突き付けられ、気恥ずかしさに頬が熱くなった。


「他人の視線ってのは案外気付くもんなんだよ」


気まずさから目線を下げる私に、フォローのつもりなのか、はたまた現実を知らしめているのか、表情の見えない紫苑は淡々とした口調で付言する。


「ご、ごめんなさい」

「いや別にいいけど。減るもんじゃねぇし」


確かに、減るものではないだろうけど。


あれだけ数時間前に好きにならないとか接点を持たないとか強く出ておいて早速これとは、我ながら先行き不安で辛くなる。


「お。なんか直前の契約が変更になったとかで、この後16時からなら時間とれるってさ。お前の部屋、ゴミ屋敷じゃないだろうな……?」

「失礼な!部屋は綺麗です!片付けは得意だもん」


スマホでタイムリーにやり取りをしているのか、ふいに自然な笑顔を見せる紫苑に、意表を突かれた私の鼓動がまた少し速くなる。


いい加減慣れないといけないのに、こうまで綺麗な顔っていうのはなかなかどうして見慣れてくれない。


そんな内情を今度こそ上手く隠して、ヤツの意地悪な冗談を否定すると、「じゃ、行くか」コーヒーを飲み終えたらしい紫苑は空のカップを手に持ったままその場に立ち上がった。


そうして、私が注文した際に受け取っていた小さなおぼんも手に取り、「ん」私が両手に抱えたままのミルクティーのカップを目線で移すよう言いつける。


「あ、ありがとう……」


大人しくそれに従いおぼんにカップをのせると、彼は無言で容器の返却口へ向かいそれらを片付けた後戻ってきた。

< 33 / 50 >

この作品をシェア

pagetop