超貧乏でしたが御曹司に溺愛されて身も心も癒されました
「誰に産んでもらったと思ってるんだか」
 母、充子の口癖がまた始まった。竹岡まりえは、手際よく自分のお弁当箱に食材を詰め、シンクに残った皿を洗い終えた。
「だいたい、あんたのしみったれた稼ぎじゃ、健康食品も買えないんだから。あたしも年をとる一方だってのにさ」
 どうして買えないか、と言うと、先月テレビの通販番組でやっていた高価なサプリメントを購入したからだ。金がない、金がない、と言う割に、母は、ちょっと気を引かれたものをほいほい買ってしまう。
 まりえは自分のお給料のほぼ全額を母に渡している。
「あんたに持たせたら無駄に使うだろ。あたしが管理してやるのが親の役目だろ」
 そんな風に、いかにも節約などしそうな口ぶりで言うのだが、はっきり言って母の管理はザルだ。与えたら与えただけ使ってしまう。まりえが高卒で働きだして、数か月後、水道光熱費が振り込まれておらず、電気がつかなくなった。まりえのなけなしの貯金で、その難を乗り越えた。それ以後、水道光熱費だけは、給料から差し引いて、母に渡している。
 母は、ちょっと振込忘れただけだと言い張った。このルーズさの原因は、父からの養育費にある。まりえが六歳の頃、母と離婚した父は、高校卒業まで、という約束でまとまった金額を養育費として振り込んでいてくれた。そのせいで、母は、全く働かなかった。まりえが幼い頃から金遣いが荒く、借金を作ることすらあった。中学生のまりえは、新聞配達、高校時代はファミレスでバイトしていた。給料のほとんどを家計に当てるしかなかった。
 高校卒業まで、という期限で養育費がなくなったら、さすがに母も働くのではないか、と思っていたが甘かった。
 母は、当然のように、まりえに高卒で就職させ、給料を渡すよう言った。
 まりえは、高校時代、成績がよかった。担任の教師から奨学金をもらって大学に進学したらどうかとすすめられたが、母に相談したら、とんでもないと一笑された。
「大学なんかに行ってどうするんだい。その間、あたしはどうやって生きていけばいいのさ。やだね、この子は。あたしが小さい頃から女手一つで育ててやった恩を忘れてさあ。まるで鬼のような娘だね。ちょっとはあたしを楽にさせておくれよ」
 そんな言葉を聞いていると、まりえは、自分の中に育っていた大学進学という希望の芽がどんどんひからびていくのを感じた。どうしようもない。この人と暮らすかぎり、こういう人生しかないんだ。
 まりえは、次の日、担任が止めるのも聞かずに、高卒で働くことにした。内申がよかったせいか、職はなんとか見つかった。靴専門店の経理事務だ。店舗とは別に事務所があり、まりえは25才の現在も、そこで働いている。
 まりえは、身支度を整え、ぶちぶちと不満を言い続ける母に「行ってきます」と言ってアパートを出た。
 まりえの職場「大野靴店」の事務所まではバスで20分。通勤ラッシュで、ほぼ満員だ。吊革につかまりながら、流れていく窓の外の景色を見る。母の口の悪さや、なんでもまりえのせいにするところなどは、もう耐性ができてしまっていて聞き流せるようになっていた。
「まりえちゃん。おはよう。一緒になったわね」
 バス停から乗り込んできた百合が、そう言ってまりえの隣の吊革につかまった。
「百合さん。おはようございます」
 百合の顔を見たら、なんだかほっとして、胸の内が、ぱあっと明るくなった。百合は大野靴店の経理事務の二年先輩だ。隣の席に座るまりえに、百合はとても親切にしてくれた。仕事を教えるだけでなく、いつもまりえの体調やメンタル部分まで気にかけてくれている。
 まりえは、肩くらいの長さの髪の毛をひとつ結びにしているが、百合は、髪の毛にふんわりとしたパーマをかけている。髪質もつややかで、まりえは、見ているだけでうっとりしてしまう。
 紫色のボウタイブラウスにチュールスカートを合わせている百合の恰好を見ると、高校時代から着ているカットソーにデニムスカートという恰好の自分が随分貧相に感じる。だが、それで落ち込んだりしない。見た目が地味な自分が落ち込んだら、暗いオーラをふりまくことになる。そんな迷惑はかけたくない。まりえは、笑顔を作って百合に言った。
「素敵なブラウスですね。ひょっとして、デートですか?」
 百合は、ほんのり頬を赤らめた。
「わかる?うん、式のことでちょっと打合せしなくちゃいけなくて」
「もうすぐですもんね、結婚式。百合さんの花嫁姿、早く見たいです」
 百合は、来月の大安吉日に、銀行にお勤めの彼氏と結婚式をあげる。三か月前にお見合いした百合は、すんなりと結婚を決めた。まりえに事細かに報告することはなかったが、「いい人に当ったみたい」と嬉しそうに微笑んだ。
 あ、百合さん、きっと幸せになるんだろうな…
 まりえは、直感的にそう思って、何だかとっても嬉しくなった。自分の好きな人が、幸せな結婚をする。とても素敵なことだと思った。自分の結婚なんかは、とても考えられないけど。
 バスを降りると、百合がドラッグストアに寄りたい、と言った。目薬を家に忘れたので買いたいらしい。百合が目薬を選んでいる間、まりえは、化粧品売り場をぼんやり眺めた。
 普段、自分のために買い物をすることができないまりえは、ドラッグストアに入るのも禁止にしていた。見たら何か欲しくなってしまうのがわかっているからだ。
 案の定、目の中に美しいリップスティックが飛び込んできた。
 ローズピンクの口紅…欲しい、な…。
 まりえは、高校卒業しても、化粧をしたことがなかった。プチプラコスメなどの安価なものでも、ひと揃えしたら数千円になってしまう。そんな余裕はなかった。
「まりえちゃんは肌が綺麗だから羨ましいわ」
 そう百合は言ってくれるが、自分ではスキンケアをしたり、アイシャドウや口紅を塗ってみたかった。
 ふ、とまりえは息を吐いた。いけない、ないものねだりになっちゃ。あるものに目を向けるのよ。
 そんな風に自分に言い聞かせていると、
「あれーまりえ先輩、万引きですかあ?」
 ナツミだ。買ったばかりなのか、コスメや菓子パンがたっぷり入った買い物袋を手に持っている。ナツミは、事務所の後輩だ。と言っても、ナツミは、経理事務ではなく、倉庫の商品管理やタグ付けのパート業務をしている。給料は正社員のまりえよりも少ないが、実家暮らしなので、お給料の全額を自分用に使えるらしい。化粧ポーチはいつも、ぱんぱんに膨らんでいて、まつ毛はマツエクでバサバサだ。
「ま、万引きなんて…!」
 まりえは、思わずそう言った。だが、それ以上言い返せない。
「そうですかー。なんか食い入るように見てたんでー。うっかりやっちゃったなんて、ないようにしてくださいねー」
「あー、まりえ先輩ならやりそー」
 いつの間にか来ていたナツミのパート仲間、エリカも同調する。二人はギャル同士で気があうのか、「マリセン、女として終わってるよねー」などと裏でよく言っている。最近は、その言動を隠そうともしなくなってきた。二人とも、まりえが怒ったりしないのをよくわかっているのだ。
「ちょっと。もうすぐ始業時間でしょ。行かないと」 
 清算をすませた百合が、ぱっと間に入ってくれた。パート女子たちは、だるーと言いながら、店から出て行く。
「まりえちゃん。ダメじゃない、ちゃんと締めるところは、締めないと。後輩に舐められるわよ。私がいなくなったら、事務所の女子はまりえちゃんとあの二人だけになるんだから」
「はい…」
 まりえは、うつむき加減で百合に返事をした。
 そうなのだ。百合は、結婚を機に、大野靴店の経理を辞めることになっている。しっかり引継ぎはしてもらっているので、業務には問題ない。だが、問題は人間関係だ。あからさまに、まりえのことを悪く言うパート二人組と、うまくやっていける可能性はどこにもなかった。

 すぐに、百合の結婚式当日となった。まりえは、なんとかやりくりしたお金で、ご祝儀を包んだ。しかし、そうなると着ていくパーティドレスはなく、仕方なく母親の古いスーツを借りることにした。母は、ブランドものだと偉そうに言うが、型の古さはどうしようもなかった。しかし、カジュアルな服装で結婚式に行くわけにもいかない。選択肢は他になかった。
 百合は、まりえの家の経済状況も知っているので、無理に出席しなくてもいいのよ、とやんわり言ってくれていた。
 しかし、まりえは、出席させてください、と頭を下げた。
 実は、まりえは結婚式が好きなのだ。ドレス代や、ご祝儀など、経済的に余裕のないまりえにとって、結婚式は、確かにお金のかかるイベントだ。
 だけど。あの結婚式独特のきらきら感は、特別なものがある。
 祝福される花嫁さんはどこまでも美しく華やかで、幸せそうだ。見ているだけで、まりえは恍惚となる。
 幼い頃。両親が離婚する数か月前。まりえは親戚の結婚式に招待された。六歳だったまりえは驚いた。結婚式の主役の花嫁さんは、絵本の中のシンデレラみたいに綺麗だった。そして客として来ている女性たちも華やかでふわふわしたドレスを着ている。
 舞踏会みたい…!
 まりえは圧倒されて、そのきらびやかな空間に酔いしれた。いつもケンカばかりしている両親も、その日は穏やかだった。けっこんしきってすてきだ。幼いまりえの心に、深く刻み込まれた。
 その頃は、ごく当たり前に自分も花嫁になるのだ、と思っていた。しかし、両親の離婚を経て、経済的に余裕がなくなってくると、自分が花嫁になれるとは思えなくなった。
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