超貧乏でしたが御曹司に溺愛されて身も心も癒されました
 目を見張ったのは、うちの店で服で色んな服を試着した時だった。どれも綺麗に着こなしていた。買った服を最初はもったいながっていたが、俺に普段使いするよう説得されて、今では家に帰ると、優雅な佇まいの彼女がいる。結婚前は何度かすっぴんの彼女にも会ったことがあったけれど、最近は化粧も研究しているらしく、はっとするほど美しいことがある。
 服を買った帰り、俺はつい「君は魅力的だ」と言ってしまった。思っていたことを口にするつもりはなかったのに、彼女が「私なんて」と言っていたので、勢い、言ってしまった。
 俺の言葉に戸惑っている彼女を見ていると、急激にいとしさがわいてきた。
 俺は、彼女を女性として意識している。それは、事実だ。
 気が付くと身体が勝手にうごいていた。彼女の顔に顔を近づける。吸い込まれそうな瞳の奥をみているとキスしたい気持ちがふくれあがった。
 そこにサッカーボールが飛んできて、俺は我にかえった。
 ばつが悪くて、その後はほとんど喋らずに二人で帰宅した。
 その日、仕事をしながら、俺はもっと頭を冷やすべきだ、と自分に言い聞かせた。
 そうしないと、俺は、もっともっと…。
 
 俺はため息をついて社長室の窓から外を眺めた。夜がこようとしていた。

     ◇

 今日は、ちょっとした特別な日だ。まりえは朝のルーティンである床の掃除をしながら、思った。掃除機を使わず、ワイパーでやれば、そう物音は立たない。幸い、これまで掃除の音のせいで、玲一を起こしたことはなかった。
 玲一さんが、眠りが深いタイプでよかったわ…
 洗濯が終わってしまえば、炊事だ。玲一の寝室からキッチンは遠いので、ここでの物音は大丈夫だろう。まあ、それでも大きな音はさせないように注意する。
 最近、まりえの作る料理はレパートリーが増えてきた。自分が知っていた節約料理では男性には、ちょっと物足りないのでは、と思い、思い切って書店で和食の本を買った。玲一から好きなように使っていい、とまとまったお金をもらっているのだが、なかなか軽々しく使えない。和食の本の時は、朝食向上のために必要だ、と自分に言い聞かせて買った。毎朝、新しい料理に挑戦できるのが、楽しい。食材も、これは玲一さんのためだから、と割り切って、肉や魚はいいものを買うようにしている。でも、こういう食生活に慣れたら、元の生活に戻ったとき、大変かもしれない…。
 最初の頃は、よくそう思っていた。契約結婚の一年なんてまたたくまに過ぎるだろう。現に、この一か月、あっという間だった。
 だが、最近は、契約結婚、ということを忘れている事が多くなってきた。
 まず、最初は静かな朝を手に入れたのがきっかけだった。少し早起きをして、掃除を終わらせると、自分の目覚ましで起きてきた玲一がシャワーや身支度を始める。その間に朝食を取る流れなのだが、室内にはクラッシック音楽が流れていて、とても気持ちのいい静けさだ。
 母充子は、まりえより遅く起きると、すぐにテレビをつけ、あれやこれや騒ぎ出した。まりえにも同意を求めるので、朝のルーティンをこなしながら、相槌を打たなければならなかった。 
 わずかな食費でなんとか恰好のつく料理を作るのは、毎日至難の技だった。だが、そうしないと母のぐちぐちした不満を延々聞かされるので、まりえは普段から節約しつつ創意工夫した朝食でなんとかこなしていた。朝食が終わっても母のマシンガントークは続く。まりえは仕方なく生返事をしながら、弁当を作り、身支度をした。
 それが、今、玲一との生活ではどうだろう。静かなクラッシックが流れる中、節約しなくていい料理を、玲一と一緒に食べている。
 私の生活は180度変わった…お母さんの呪詛を聞かされないだけで、こんなに心が落ち着くなんて。まりえは満ち足りていて、ほう、とため息をついた。
「そういえば、君は、今日、大野靴店の事務所の最終日だっただろう」
 朝食を終えてコーヒーを飲んでいた玲一が言った。
「はい。今日で、最後です。お世話になった分、きっちり仕事をしてきます」
 結婚生活が始まってから、もう一月が経っていた。
「それがいい。ウェディングプランナーの養成学校は、来週からだったな。今週は少し時間があるだろうから、俺のために一日、空けてくれ」
「は、はあ。何か、あるんですか?」
「うん。まあ、その時、わかる。おっと、そろそろ行かなくちゃな」
 玲一は立上り、自分の食べた食器を流しに持って行ってくれた。以前、まりえが私がします、と言ったがこれくらいは、と譲らなかった。
 玄関先に見送ると、じゃあ、行ってくる、と言いながら、玲一はポンポン、とまりえの頭を軽く触る。最近、朝の恒例となりつつある。まりえはくすぐったく思いながら、行ってらっしゃいと言う。
 まりえは玲一を見送った後、朝食の片づけをすませると、丁寧にメイクをした。百合からもらった化粧品を駆使して、夜の自分時間の時に、せっせと練習したのだ。スマホの使い方もわかってきたので、人気のメイク動画などを探し出し、参考にした。
 会社に玲一から買ってもらった服を着ていくのにも慣れた。そして、少し変化もあった。
 ナツミとエリカがディスってくる回数が減ったのだ。
 しかも。
「ねえ、あんた、そのマスカラどこの使ってるの」
 などと聞いてくるようになった。最初は当惑しながらも、答えるとふーん、と神妙な顔をして去っていった。今までにないパターンだったので、逆に気になったくらいだ。
 大野靴店最終日は、レースをあしらった紺のワンピースにした。出社後、まりえの代わりに経理を勤める町田さんに、ひきつぎの最終チェックをした。身の周りの片づけをしていたら、もう退社時刻になった。
 大野専務にこれまでの御礼の挨拶をした。大野専務は相変わらず大げさに「残念だなあ」と繰り返していたが、「ま、田中ちゃんもよくやってくれそうだから、何とかするよ」とがはは、と笑った。
 大雑把な人だけれど、大野専務にまでディスられていたらきつかった。なんでも笑顔で対応してくれる上司なんて、ほんとにありがたいことだ、と改めて、まりえは感謝の意を伝えた。
 更衣室に入ると、ナツミとエリカの二人がいた。エリカが言った。
「あー、金の匂いがするのも、今日で最後かあ」
 それに同調するかと思っていたナツミは黙っていた。
 まりえは、紺のワンピースに着替えると、さっとメイク直しをして、帰ることにした。
 すると、つかつかとナツミが近づいてきた。
「あんたさあ」
 あー最後になんてディスられることやら、と思っていたら。
「化粧したり、服変えたり…前に比べたらだいぶマシになったよね。今日の感じ、悪くないじゃん」
 まりえは目を見張った。ナツミから歩み寄ってくることがあるなんて。
「ナツミさんは…ブラウンよりオレンジのアイシャドウの時の方が素敵よ」
 心臓をばくばくさせながら、まりえは言った。口答えにもならない返しだが、まりえにしてみれば、大きな一歩だった。
「言うようになったじゃん」
 はっ、と笑ってエリカのところに戻って行った。
 そうなのだ。もし最初から、まりえがきちんと小綺麗な恰好をして、メイクもちゃんとしていたら、ナツミたちだって、まりえに関心を持ってくれたかもしれないのだ。
 自分は被害者のような気分だったが、原因を作っていたのは私だったんだ、そう納得できた。
 まあ、あの口の悪さは許さなくてもいいと思うけど、とまりえは独り、くすりと笑い、更衣室を後にした。

 三日後。午前中に、ウェディングプランナー関係の本を開いて、勉強していると、玲一から電話があった。
「今から迎えに行く。これから、デートしよう」
「え、えと、デート…ですか?」
 突然の申し出に、頭がついていかない。
「そうだ。この一か月、ほとんど、どこにも行けていないだろう。ずっと家と会社の往復だけだ。君だって息抜きが必要だろう」
「でも、玲一さん、お仕事が忙しいんじゃ」
「いや。こんな風に一日くらいは空けれるよう、普段しっかり仕事してるんだ。大丈夫だよ。
 じゃ、三十分後に迎えに来るから支度しておいてくれ」
 まりえは、わたわたしながらも、時間いっぱい丁寧にメイクをして、マゼンタピンクのブラウスに白のスカートを合わせた。気分のあがる、好きな組み合わせだ。
 玲一は、本当に三十分後、ぴったりにやって来た。
 まりえが黒のレグザスに乗り込むと、もう十二時近かった。
「俺は早めに食べたから、君の分の昼食を買っておいた。足元に紙袋があるだろう」
 はい、と答えて、まりえは助手席の足元にあった紙袋を引き寄せ、膝に乗せた。促されて開けると、美味しそうなフルーツサンドがぎっしり詰まっていた。
「わあ、可愛い!」
 生クリームに挟まれた、色とりどりのフルーツたちがみずみずしくて美しい。食べればいい、と言われて、一切れ口にすると、甘すぎない上等の生クリームの味が絶品で、そこに新鮮なフルーツが入ってくるので物凄く美味しかった。
「美味しい!」
「うちのデパートの人気商品でな。行列に並んだら、この時間になってしまった」
「玲一さんが、行列に並んだんですか?」
「もちろん。社長だって並ぶさ。店の秩序を守るのが大事なんだ」
 ただ、社長の玲一も知っているような古参で常連のお客様達にも、出くわすので、挨拶が大変だった、と笑った。
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