超貧乏でしたが御曹司に溺愛されて身も心も癒されました
「玲一から聞いてない?あの子の父親が、今、入院しているのよ。ちょっと肝臓を悪くしていてね」
「そうなんですか…」
 玲一の父は、半年前から海外の別荘で暮らしていて、まりえはまだ会ったことがなかった。玲一から、まりえとの結婚を喜んでいる、とは聞いていた。
「じゃあ、日本に戻られてるんですね」
「そうなの。玲一ったら、きっとまりえさんに余計な心配させたくなかったのね。あの子、そんな気を遣うところがあるから」
 まりえは、ぎゅっと自分の手を握りしめた。
 ルイの「メンタルのケアまでできるわ」という声が胸の内に響いてくる。
 玲一さん…私は、玲一さんの心配事すら言ってもらえない存在なの?
「あら、まりえさん、顔色が悪いわ。もうウェディングプランナーの学校に行ってるんでしょう?家事と勉強の両立は大変じゃない?」
「いえ。そんなことは…」
「そう?ならいいんだけど。玲一も、ずいぶん、助かってるって言ってたわ。あなたの料理も掃除も完璧だって、あの子から女性をほめるのなんて、初めて聞いたわよ」
「そうですか…」
 ルイの「玲一はお金のかからない、身の回りの世話をしてくれる女性がほしかっただけよ」という言葉が、胸に刺さる。
「はい、これ玲一の忘れ物」
 義母から書類の入った封筒を渡された。

 気が付くと、まりえは玲一の部屋のキッチンで料理を作っていた。ルイの言葉がどうしても離れない。ルイの言葉が本当だとしたら、この結婚生活は、もう一年も待たずに破綻してしまうことになる。
 じわり、と視界が涙で滲んだ。
 あの甘いいくつもの夜も、玲一にとっては遊びだったのかもしれない。
「私が…好きだ、なんて言ったから」
 玲一は好きだと言われたからと言って手を出すような男性だろうか。だが、男性は気持ちがなくても女性を抱けることを、まりえはよく知っている。
 母は、はっきり言わなかったが、入れあげていたバーテンダーと体の関係があっただろう。だが、まったく報われることはなかった。母から金を巻き上げ、あっけなく母を捨てた。
 玲一がそんな男性と同じではないと思いたい。
 そう思いたいのに、不安ばかりが募る。
 泣きながら作った料理が完成した。今日は、玲一は早く帰ってくるはずだった。皿を並べていると玄関が開く気配がした。
 まりえは、涙を拭いて、顔をしゃんとさせた。
 泣いていたら、話すこともできない。必死で平常心に戻すよう務めた。
「ただいま、まりえ」
 玲一は、いつもと変わらない穏やかさで、まりえを見た。
「おかえりなさい。食事、できてます」
「ありがとう。着替えてくるよ」
 部屋着に着替えた玲一は、ソファにある、書類の入った封筒を見つけた。
「どうしてこれがここに…」
「ご実家にお忘れだったそうです。お母さまから電話があって、いただいてきました」
「ああ…そうか。すまなかった」
 そう言って、封筒の隣に紙袋をぽん、と置いた。見たことのあるデザインの紙袋だ。
 大野靴店のロゴが入っている。
 玲一さんが、靴を買ってきた…?
 まりえは、心臓がドキドキしてきた。不安な気持ちが口からこぼれそうになるのを、何とかこらえる。
「玲一さん、どうしてお父様が倒れたこと、言ってくださらなかったんですか?」
「それは…」
 玲一が口ごもった。
「ちょっと事情があるんだ。言うタイミングを先延ばしにしていた。君も学校が始まったばかりだし」
「言ってほしかったです。…でも、そうですよね。お互いのことを干渉しない決まりでしたもんね。私に言う必要なんて、ないんですよね」
「まりえ?」
「わかってるんです。でも、玲一さんと過ごした日々のせいで、私、期待してしまって。なんだか本当の夫婦になれたような錯覚をしていました。バカですよね、私」
 玲一が怪訝な顔をする。
「まりえ、どうしたんだ、一体」
「うっかり、うぬぼれていたんです。私が玲一さんを好きなように、玲一さんもひょっとしたら私のことを好きだといいなって。甘すぎる考えでした」
 まりえの瞳から涙がこぼれた。
「まりえ、何があったのか教えてくれ」
 玲一が真剣な顔でまりえの泣き顔を覗き込む。
 まりえは、玲一を脇をすり抜けて、ソファにあった大野靴店の紙袋をつかんだ。さっと中身の靴箱を取り出し、ふたを開ける。 
 すると、きれいなピンクのハイヒールが出てきた。ルイと最初に会った時、ルイはピンクのスーツを着ていた。この靴にぴったりだ。
「こういう、ことなんですよね…」
 まりえは涙をこぼしながら、笑った。
 そもそも、最初からこの契約結婚は、恵まれすぎていた。契約結婚なのに、甘すぎた。
 玲一は、優しく、楽しい日々だった。
 玲一のおかげで、専門学校に行くこともできた。
 玲一を責めるのはお角違いで、自分は、玲一に感謝すべきだ、とは頭ではわかっている。でも、こんな別れ方になるんなら、あんなに甘い夜を知りたくなかった。
 思わず、ふ、と息をつく。
 私も、一緒かあ。お母さんと。男に尽くして、抱いてもらって、そして捨てられるんだ。
 そう思うと一気に体の力が抜けた。
 床に膝をつく。
「まりえ、どうしたんだ。おかしいぞ、この靴は」
 玲一の顔が至近距離にある。
 好きだったな、この目も鼻も口も、全部、好きだった。
「ちゃんと、話をしよう。泣いていちゃわからないじゃないか」
 話…ちゃんと話したら、ルイさんのことを打ち明けられるんだろうか。
 そんなの、嫌だ。
 なにもかも自分より優っているルイさん。私に勝ち目はない。勝ち目どころか、同じ土俵にすら立てていないのだ。
「まりえ、言おうと思ってたんだが、実は」
 聞きたくない。
 もう、この場に…いられない。

 まりえは、立ち上がり、自分のバッグをつかむと、玄関へ向かって駆けて行き、マンションの廊下を走り抜けた。ちょうどよくこの階にエレベーターが止まり、中から人が出てくる。入れ替わりに乗り、追いかけてきた玲一の鼻先でドアを閉めた。
 マンション前の道路に出ると空車のタクシーが来て、それに乗った。まりえ、と呼ばれる声がした気がしたがが、振り返らなかった。

「美佳ちゃん、ごはんできたよ」
 玲一の部屋を飛び出してから二日。まりえは、ウェディングプランナーの学校で仲良しの美佳が暮らすアパートにいた。飛び出して、美佳のところに行った後、玲一には「美佳ちゃんのところに泊まります」とメッセージを入れておいた。返信を見る勇気は、まだなかった。
「わ、まりえちゃんの朝ごはん、これがあるだけで一日のモチベーションあがるんだよね~、マジ感謝だよ」
 卵焼きと焼いた鮭なんていう簡単な朝食でも、美佳は大げさに喜んでくれる。あの夜、泣きはらした目をしたまりえを、美佳はためらわずに部屋に入れてくれた。
「居候の身としては、これくらいしか、恩返しできないから」
「いいよ、いいよ。こんなごはんが食べられるんならいつまでもいてほしいよ~」
 美佳が笑顔でそう言ってくれるので、ほっとする。
「そうだ、学校の掲示板に求人票出てたよ。結婚式関連のバイトできるみたいだった」
「え、そうなんだ。ありがとう。チェックしてみる」
 これからの生活のことを考えると、すぐにでも働いてお金を作らなくてはいけない。服や身の回りのものは、昨日の昼、玲一が仕事に行っている間にマンションの部屋から運び出していた。
 椅子の背にかけられた玲一のシャツを見るだけで、気持ちがぎゅっとなった。だが自分を鼓舞して、部屋から出た。
 本音を言えば、一日顔を見れないだけでも、胸が苦しい。頭では玲一はルイのものだとわかっていても、玲一が自分に微笑みかけてくれるような気がする。そんな気持ちを何度も心の中で否定する。
 授業を終えて、求人票にあった結婚式スタッフのバイトに問い合わせてみようと思いながら校門を出た時のことだった。
「まりえ」
 はっとした。まさか玲一さんが…
「まりえじゃないか。久しぶりだなあ」
 長身のパーカーにデニム、という恰好の男性が微笑んでまりえを見ていた。
「田代先輩…」
「あれ以来だな。お茶しようぜ」
 田代は、まりえを近所のファミレスに連れて行った。まりえの注文も聞かず、さっさとアイスコーヒーを二つ頼んでしまう。
 まりえは思った。そうだ、こういう強引な人だった…
 田代は、まりえの高校時代、つきあっていた男性だ。年は二つ上。田代とは学校終わりにバイトしていたファミレスで知り合い、田代からつきあってくれ、と告白された。まりえは、男子とつきあったこともなかったので、私でいいなら、と応じてしまった。
 二人ともお金がなかったので、公園でしゃべったり、散歩するだけのデートをした。
 アイスコーヒーを飲みながら、田代が言った。
「へえ、じゃあ。あの専門学校に行ってんのか」
「そう。ウェディングプランナーになる勉強ができるんです」
「よく学校行く金あったな。お前んち、超貧乏だったじゃん」
「それは…結婚したから…」
 もう別れるところだけれど、とは言わなかった。まりえがフリーだとわかって田代に変に期待されたくなかった。今は、玲一のことを忘れることと、これからのことで精一杯だ。恋愛どころじゃない。
「ふーん。旦那が金持ちってわけだ」
「まあ…」
「よかったじゃん。だって今日だって見違えたよ。あの頃、おまえいつもすっぴんだったのに。こんなに化粧映えするんだな。どこのお嬢様かと思ったぜ」
 まりえは、力なく笑った。
「田代先輩は…今は、どう」
 田代はスマホをいじりながら言った。
「うーん、ちょっとした事業をやってんだよね」
「そうだったんですね」
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