超貧乏でしたが御曹司に溺愛されて身も心も癒されました
「いいじゃない。これなら、どこに出してもおかしくないお嬢様よ」
「そ、そうでしょうか…?」
 もう一度、鏡を見ると、確かに気おくれしていた気持ちが薄くなっていく。メイクしてワンピースを着た自分を誰かに見てほしい、という欲が心の奥底で芽生えていた。
「あ、それから、この化粧品、お古で申し訳ないんだけど、もらってもらえる?この部屋に引っ越した時に整理したものなの。この辺の色味だと、もう私、使わないから…」
 小ぶりのポーチにたくさん入った化粧品を手渡される。
 まりえは、胸の内に熱いものがこみあげるのを感じた。ドラッグストアで、何度も諦めた化粧品。それが、今、手の中にある。
「ありがとうございます…!」
 思わず、目に涙が滲んだ。
 百合は、静かに言った。
「玉の輿に乗っちゃえ、なんて無責任なことは言わないけど。でも、ちょっとした殿方と会ってみるだけでもいいじゃない?いい思い出作りと思って楽しんじゃえ」
 百合の言葉は沁みた。大野専務は、ノリノリで、見合いや結婚を簡単に考えている風で、正直、こっちの身にもなってください、と言いたくなった。
 けれど百合は違う。まりえの家庭環境も知っている。そしてまりえがどんなに自分に自信がないかも。
 まりえは、もう一度、鏡に映る自分を見た。
 さっきまでの思い切りダサかった自分が、ちょっと手を加えるだけでお嬢様っぽくなった。
 その変化は、まりえの心の中にまで及んだ。
 ひょっとしたら。自分は見合いを大ごとに考えすぎているのでは、という気がしてきた。そんなに簡単に結婚まで話が進むわけはない。高階婦人だって、会ってみるだけ、と言っていたじゃないか。だったら向こうからやってきたこの非日常を楽しんでみるのも、アリかもしれない。
「…百合さん。もう一度メイクの仕方教えてもらっていいですか?自分で、できるようになりたいから」
 百合が、はっとした顔をした。
「まりえちゃん、それじゃ」
「はい。高階社長とのお見合い、受けてみようと思います」

 見合いの日は、梅雨のあけた、7月の初めだった。百合に習ったメイクを真似して、なんとかそれらしくすることができた。鏡を見て一息ついて、百合から借りたワンピースを着る。
「なんだい、あんた、その恰好」
 テレビの深夜番組を観て夜更かしし、やっと起きてきた母 充子が、まりえの姿を見て言った。
「そんな化粧品買う金ないだろ。服だって」
「服は会社の先輩に借りたの。化粧品は、もう使わないからってもらったの」
 まりえは、髪の毛をブラシで梳かして言った。
「お母さん。ご飯は冷蔵庫。あと、掃除と洗濯は、もう済ませてあるから。ちょっと出かけてくるね」
 母の充子は、いつも薄ぼんやりしているまりえが、てきぱきと出て行こうとするので、面食らった顔をした。
「あ、あんた、変な男にひっかかってるんじゃないかい」
 まりえは、そう言うだろうと思ってた、と胸の内で呟いてから一足だけ持っているパンプスを履いた。
「じゃあ。行ってきます」
 なんだい親を一人にしてだの、きっとだまされてるんだよ、だのと充子は騒いでいたが、まりえは聞き流して、アパートの部屋を出た。

 見合いの数日前、高階婦人からまりえに連絡があった。K谷公園の近くの料亭『柊』に席を予約してあるから気軽に息子と二人だけで食事を楽しんでもらえたらいいという。
 バスでK谷公園で降りて、少し歩いただけで、すぐにその料亭はわかった。庭のある立派な和風住宅で、歴史を感じさせる佇まいだった。
 さすがにまりえは、気おくれを感じたけれど、自分を鼓舞して門をくぐった。
 なにも、とって食われるわけじゃないんだから。お食事をして、お話をする。そういう仕事だと思えばいいんだわ。綺麗な恰好をして、美味しいお食事をいただく。それだけで、いい。私にはそれだけでも非日常だけど…。
 まりえは中居に案内され、奥の座敷にたどり着いた。
 相手はまだ、来ていなかった。畳の部屋だったが、テーブルと椅子があった。まりえは、苦手な正座をしなくていいことにほっとした。
 席について、窓から見える庭の様子を眺める。小さな池があり、手入れの行き届いた木々が見栄えよく配置されていた。
 チチチ、と鳥のさえずる声が聞こえてくる。静かな空間で耳を澄まし、自然の気配を感じられることに、まりえは豊かさを感じた。
 そうだ、休みの日は家事に追われるばっかりじゃなく、もっと外に出かけてみよう。近くの公園で本を読むだけでもいい。本は図書館で借りればいいのだ。
 まりえは、それがすごくいい思いつきのような気がして、思わず顔を綻ばせた。
「…竹岡まりえさん?」
 まりえは、はっとして振り向いた。自分の思いに気をとられていた。いつの間にか、一人の男性が、目の前の席に座ろうとしている。まりえは慌てて椅子から立上った。
「は、初めまして竹岡まりえです」
 緊張のあまり、一息に言った。
 男性は、まりえをじっと見つめた。
「高階玲一です。…座りませんか」
 立ったままになっていたまりえを、玲一は静かに座るよう促した。
 この人が、高階社長…
 改めて、まりえは玲一を見た。背が高く、仕立ての良さそうなグレーのスーツを着ていた。顔が小さく、顎の線が綺麗で、目元も涼し気だ。細いシルバーフレームの眼鏡がよく似合っている。高階婦人がイケメンと言っていたのがよくわかった。
 お茶を持ってきた中居に、玲一は、始めてください、と低い声で言った。
 中居が部屋を出て行くと、たちまち音ひとつ立たない、静かな空間となった。
 玲一は、黙ってお茶を飲んでいる。
 こういう料亭って喋っちゃダメなんだっけ…ううん、そんなことないはず。どうしよう、私が会話を切り出すべき?
 話題。話題は…
「あの、素敵なお店ですね」
 玲一は、すっと、まりえに視線を向けた。
「…子供の頃からの行きつけで」
「あ、そうなんですね…へえ…」
 そうよね、私にとっては生まれて初めての高級料亭だけど、この人からしたら日常なんだわ。世界、違い過ぎる…。
 それからも沈黙は続き、まりえが困っていると、やっと料理が並び始めた。懐石料理のフルコースのようだった。
 色とりどりの器に少しずつ品よく盛られたお料理の数々。どれも目に楽しいし、とんでもなく美味しそうだ。
 まりえは自分の人生に、こんなご馳走を食べられる日はないと思っていた。食べてみたくて、気が逸った。
「あ、あの食べてもいいでしょうか…」
 おそるおそる玲一に尋ねる。玲一は表情を変えることなく、どうぞ、と言った。
 まりえは、小鉢の和え物から一口食べてみた。少量なのに、味がしっかりしていて、目が覚めるような美味しさだった。それから、つぎつぎに色んな料理を口にしてみた。
 すごい…こんな美味しいものがあるんだ…
 百合の結婚式では、フレンチのコースだったので、確かに美味しかったけれど、洋食に慣れていないまりえには重たかった。
 しかし、この懐石料理の数々はどれもだしが効いていて、まりえの好みによくあっていた。
これも美味しい、あ、こっちも美味しい…と思わず夢中になってしまった。
 途中で、あまりにもがっつきすぎだ、と急に恥ずかしくなった。呆れているかもしれない…と、目の前の高階社長をそっと盗み見た。
 すると、玲一が不思議そうな顔をして言った。
「写真とか、撮らないんだな」
「え?」
 意味がわからず、まりえが聞き返す。
「いや、最近の女性がSNSにあげるのか何なのか、料理が来たらとりあえず写真を撮るだろう。料理の流れを止めるようで、俺はあんまり好きじゃない」
 そう言われて、まりえは思い当たった。百合の結婚式で隣の女性たちが、来る皿ごとに写真を撮っていた。思い出つくりかな、と思っていた。
「実は私、SNSとかよくわからなくて。スマホも持っていないんです」
 玲一は、目を見開いた。
「じゃあ…連絡とかはどうやって」
「一応固定電話はありますので、それで」
「それでって…困るだろう、友達とのつきあいとか、仕事の連絡とか」
「友達は、私がスマホを持ってないと皆知ってるんで、固定電話に連絡くれます。と言っても、高校時代の友達、数人としか友達付き合いがないんで、それで何とかなるんです。仕事は…そうですね、高校時代ファミレスでバイトしてた時、シフトに急に入れられないからスマホ持って、と言われましたね。でも、それも最初だけで、いつの間にか私には直接伝言とか、固定電話とか対応してもらえるようになりました」
「はあ…。バイト代貯めて、スマホ買おうとは思わなかったのか?」
「はい。特に…ネットの世界というのも、少し憧れましたが、本は図書館で借りれるし…呑気な私には、これでいいかもしれません」
 正直な気持ちだった。女子なので化粧品が買えないのはつらかったが、スマホにはそんなに執着がわかなかった。友達がラインのやりとりでケンカしたりしているのを見て、大変そうだな、と思っていた。
「すごいな。俺には、スマホなしで仕事なんてあり得ない。ある意味潔いな」
 そう言って、玲一は、ふっと笑った。
 (笑った…!)
 まりえは、やっと少しだけ心がほぐれた。
 このお食事の時間を仕事だと思うようにはしてたけど。やっぱり食事してる相手には笑ってほしいものだし。こんなご馳走をおごっていただいてるのだから…少しでも楽しんでほしいな。
 まりえは、そう思って次の話題を探した。口を開く前に、玲一が言った。
「すまない。礼が遅れた。うちの母が困っているところを、助けてくれたんだったな。礼を言うよ。ありがとう」
 玲一は、ちゃんとまりえにわかるように頭を下げた。
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