超貧乏でしたが御曹司に溺愛されて身も心も癒されました
 こげ茶色の大き目のソファにガラスのローテーブル。ラグはふかふかなのが、スリッパ越しにもわかった。床にものが散らばっているわけでもなく、棚の上やテーブルの上も、綺麗に片付いていた。散かし魔の母充子と暮らしていたまりえには、その整理された空間に驚かされた。
「高階社長は、綺麗好きなんですね」
 思わずそう言ってしまった。
「いや…共有スペースは、きちんとしとこうと思ってな。俺の寝室には…その、入らないでほしい」
 珍しく照れたような顔をして玲一が言った。まりえは高校時代つきあっていた男子大学生の部屋を思い出した。男の人の部屋って散らかってるんだっけ。完璧に見える玲一のちょっとした綻びが見えたようで、まりえは少し嬉しかった。 
 一緒に暮らしていたら、社長の色んな顔を見られるかもね…
 まりえは、少し期待してしまって、一人くすりと笑った。
 共有スペースをきちんと、という玲一の言葉には嘘がなく、キッチンも洗面所もバスルームもピカピカだった。まりえにとっては、あまりにもどの場所も広々としていて、ドラマのセットにいるような気分になった。
 綺麗に過ごせるように…お掃除の時間とかも、計算しとかないと。
 時間と言えば、とまりえは時計を見て、はっとした。
「高階社長…お腹すいていませんか?」
「ああ…何か頼もうか。宅配で」
「あの、私、食材を買ってくるんで、何か作ります」
「いいのか。外食しても構わないが」
 意外そうな顔をして、玲一は言った。
「いえ、早く慣れたいので…よかったら作らせてください」
 まりえは、胸を張って言った。玲一は、まりえのために、今日たくさんの買い物をしてくれた。それの御礼を少しでもしたかった。
 まりえは、早速、買出しに行き、帰ってくると、手際よく野菜の煮物と和え物と焼き魚を作った。玲一は手伝おうか、と言ってくれたが、「これは私の仕事ですから」と自分でやらせてもらった。
 玲一は、並んだ食事に箸をつけると、あれ、と声を出した。
「…知ってる味だ」
 不思議そうな顔をして、まりえを見る。
「はい、あの…社長が行きつけ、と言っていたので、お見合いの時の料亭の味を目指してみました」
 実は、お見合い以来、あの料亭「柊」の味を、と果敢にチャレンジしてみてはいた。実家ではうまくいかなかったのに、今日成功したのは、上質の醤油や瓶入りの出汁があったからだ。調味料が違うだけでこんなに違うんだ、とまりえも作りながら目を見張った。
「…美味くて、酒が進むな」
 玲一は、飲んでいたビールをあおり、自分で2缶目をキッチンに取りにいった。まりえが動こうとすると、「これくらい自分でするから」と制された。
 ところが、テーブルに戻ってきた玲一が、手にしていたのは、ビールだけではなかった。
「これは、何だろう」
「スーパーのレジ袋です」
「いや、そういうことじゃなくて…どうして、うちのデパートの食料品売り場を使わないんだ。歩いて五分もかからない」
「デパートの食料品売り場を普段使いになんて、できません!」
 まりえは、はっきりと言った。あまりにも当然のことだったので、語気が荒くなった。
 玲一は、気圧されたのか、ぐっと言葉を飲み込み、少し考えてから言った。
「つまり…うちの食料品売り場には魅力がない…?」
 まりえは、やっと玲一が当惑しているのが何故かを察した。
「違うんです。そういうことではなくて。あの…デパートのものは、上等すぎてもったいないんです。普通のスーパーで食材を買えば、デパートの三分の一くらいの出費ですみます」
 玲一は、考え込んだ。
「あの…社長が、今日の食事がお口に合わないようでしたら、デパートで食材を買いましょうか」
 玲一の深刻ぶりに、まりえは思わず妥協案を出した。食事を作る人間としては、かなりの勇気がいる案ではあった。
 玲一は、テーブルにつき、改めて言った。
「いや。君の作った料理は美味かった。そうか…そんなに価格帯が違うのか…」
 ちょっとしたカルチャーショックだったようだ。
「すみません。社長がそんなに気にされるとは思わなくて。私も考えなしでした」
 まりえは、ぺこりと頭を下げた。玲一は、やっと通常運転に戻った顔をした。
「謝らなくていい。こちらの認識が甘かったのがわかったよ。思わぬところで勉強ができた。…それにしても。君は、どこで料理を習ったんだ?君のお母さんは家事が苦手だったろ。料理は得意だったのか」
「いえ。母ではなく。お峰さんに教えてもらいました。アパートのお隣のおばあちゃんです」
「実のおばあちゃんではなく?」
「ええ。赤の他人の。でも、お峰さんのおかげで、私はずいぶん、救われました。母は、仕事もせずに父からの養育費で遊んでばっかりでほとんど家にいなくて。そのピークが私が小学校三年くらいの時でした。母が散らかして出て行くから部屋中にどんどんゴミがたまっていって、子供ながらにやばいな、と思ってるんですけど、途方に暮れていました。
 学校には行きたかったので、必死で着るものは何とか洗濯してたかな。それでも床のきれいなスペースがなくなってくると、もう何もしたくなくなるんです。宿題したくても、ゴミをどかさなきゃいけない。子供なのに、なんかどうしても気力が出ない感じになって…初めて、学校をさぼった日、お峰さんが回覧板を持ってきたんです。私は何も考えずに玄関に出たら、お峰さんが言ったんです。『ねえ、片づけごっこしない?』って」
「片づけごっこ?」
 玲一が不思議そうに言った。
「はい。それからお峰さんはうちにあがって私に、ゴミの分別の仕方を教えてくれたんです。ゴミをどんどんゴミ袋に入れていって。部屋が片付いていくのが楽しくなって…ゴミ袋、5個ぶんくらい片付いたんじゃないかな。こうすればいいんだ、ってわかって、めっちゃハイになったのを今でも覚えてます」
「なるほど。劇的な変化が起こったわけだ」
 玲一が、感心したように言うので、まりえも、ええ、と笑った。
「お峰さんってすごい魔法が使えるんだなあって、魔法使いなんじゃないかな、と半ば本気で思ってましたね。で、お峰さんが何でもできそうだったんで、相談したんです。500円で一週間食べる方法ないかって」
「そういえば、そんなこと、お見合いの時、言ってたな」
「はい。私の中で、すごい重いテーマでした。500円じゃ、菓子パン3個とかで終わっちゃう。一日1個として、三日しかもたない。そしたら、お峰さんが夕方、買い物に連れて行ってくれて。八百屋さんで500円でいろいろ野菜を買って、うちで、カレーの作り方を教えてくれたんです。鍋いっぱいのカレーができて、これ毎日食べていいんだ!ってまた感動して」
「そうか。俺が最初に覚えた料理もカレーだったな。なるほど、じゃそれからお峰さんから料理の手ほどきを?」
「はい。母は深夜に帰ってきて、午後からは男のところに入り浸っていたので、学校から帰ってきた夕方の時間、しょっちゅうお峰さんと過ごして、掃除とか料理とかの基本を教わったんです」
「なるほどな…お峰さんは今、どうされてるんだ?」
「私が高校に入学した頃、亡くなりました。…つらかったです。実のおばあちゃんみたいに思っていましたから。でも、お峰さなに教わったのは家事だけじゃなくて。母を受け入れる気持ち、でした。普通、お峰さんの立場だったら、母をなじるでしょう。ひどい母親だ、とか。でも、お峰さんは絶対になじらなかった。『まりえちゃんのお母さんはちょっと今病気になってるようなもんだよ』
って言ってくれたんです。子供心にそうか、病気じゃ仕方ないって思えたんです。何もかも母が悪いっていう方向に傾いていた気持ちが軽くなったんです。それは私には、すごく重要なことでした。お峰さんには、感謝してもしきれないくらいです」
「そうか…君のお母さんへの黒い気持ちが、傍から見えないのは、お峰さんのおかげだったんだな。確かに、お峰さんは魔法使いだ」
「そうなんです。いい魔法をかけてもらいました」
 まりえはにっこり、微笑んだ。

夕方。取引先との会食があって、夜は遅くなるから、と玲一に言われた。
「あの、起きてお待ちしていた方が…?」
「いや。お互い、あんまり干渉しないようにしないともたないぞ。俺は、会食や接待で、夜遅いことが多い。だから夜は自由に過ごしてもらっていいんだが…まあ、暮らしのルールみたいなものも、近い内に決めよう」
 昼食後、まりえは、自分の部屋の片づけをしていた。玲一はリビングで持ち帰った仕事をしていて、お互い別々に過ごしていたので、ルール決めは、まだだった。
「わかりました」
 まりえは頷いた。
「じゃあ、行ってくる。君も初日で疲れているだろうから、ゆっくりするといい」
「ありがとうございます」
 玲一は、いつも通り、ラインの綺麗なスーツを着こなして、玄関を出ていった。
 ドアが閉まるのを見つめながら、まりえは、はあ、と息をついた。
 玲一は、まりえを気遣った優しい言葉をかけてくれる。だが、どこかそれはよそよそしいものだ。自分の打ち明け話はしたけれど、玲一のそれは聞かされなかった。
 やっぱり…契約結婚だから、慎重に距離を置いてるってことかな…。
 そういう感じにも、慣れていかなくちゃ。
 まりえは改めて、自分に言い聞かせた。その後、そっとリビングに行った。
 部屋の真ん中にある、ソファに座ってみる。ふわふわ具合に感動しながら、四方を眺める。壁には小さい額が飾ってある。それ意外はシンプルで、モデルルームみたいな部屋だ。
 ここで、毎日暮らせるってすごい。
 この空間、独り占めにしていいんだ…!
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