超貧乏でしたが御曹司に溺愛されて身も心も癒されました
 それが一日の中の何分の一でも、まりえは嬉しかった。高卒で働き出してからは、母はまりえの帰りを待ち構えていて、あれやれこれやれ、と家事をうるさく指示し、自分は何もせずに夕食が出てくるのを待っていた。
 この静けさも含めて、自分のものなんだ。
 そう思うと、ぐっとこみあげてくるものがあった。激しい解放感。母が死ぬまで、自分には訪れることがないと思っていた感覚だ。
 今日、買ってもらったベッドのシーツや枕、机。それにお気に入りの雑貨屋さんでの買い物。どれもまりえには贅沢なものばかりだった。
 だが。こんな独りの時間を与えてもらえる、という贅沢も、玲一からもらっている。そのことに深く感謝していることをどうやって伝えればいいだろう。
 差しあたっては、家事をするくらいだけど…こんなに綺麗だったら、掃除も簡単に終わるだろうし。
 朝食だけでも、美味しいものを食べてもらいたいな。
 よし、明日の朝食の献立を考えとこう。
 
 ああでもない、こうでもない、と朝食の献立を考えている内に、いつの間にかソファで、うたた寝してしまっていた。やはり、初日ということで、緊張していたのか、思いのほか疲れていたようだ。
 まりえは起き上がり、時計を見ると、九時だった。そうだ、お風呂。まりえは、広々としたバスルームを使えることを思い出し、わくわくした。
 しかも。その後で、今日のイベントが待っている。
 
 まりえは、風呂からあがり、髪の毛を乾かした。バスルームに続く広いスペースは、洗面所になっていた。壁面が鏡になっていて、まりえは、風呂上がりの自分の姿を見た。
 今日、買ったばかりの、ラベンダー色のパジャマを、初めて着ていた。
 新品であること。好きな雑貨屋さんで買ったこと。好きな色であること。好きなデザインであること。体にぴったりなこと。着心地がいいこと。
 いくつも、いくつも嬉しいことがわきあがってきた。
 嬉しい…お気に入りのパジャマ…!
 ずっと着古したTシャツとスウェットを寝巻がわりにしていたまりえには、新品のパジャマが嬉しくてしょうがない。
 いつも、雑貨屋を覗いていくとき、いつか着られる日がくるだろうか、と思っていたのが、このパジャマだったのだ。
 いろいろ嬉しいことが多かった今日だが、これが一番嬉しいかもしれない。
 まりえは自分でも気づかない内に、鏡の前でステップを踏んでいた。こんなに浮かれた自分と会うのも、もう何年ぶりだろう。
「…竹岡さん?」
 まさにステップを踏んだ瞬間に、洗面所のドアが開き、玲一が立っていた。
「ひゃ…!」
「すまない、使用中だったか」
 玲一の慌てた声に、まりえも慌てた。
「い、いえっ、もう出るところでしたからっ」
「それなら…えっと…今、何をしてたんだ…?」
 怪訝な顔つきで、玲一に言われて、まりえは真っ赤になってしまった。
 浮かれて踊ってるところを見られるんなんて!
「その…新しいパジャマが嬉しくて、踊ってました…」
「おど…ふっ」
 玲一は、こらえきれなくなった、というように笑いだした。どうやらツボにはまったらしい。
「そ、そんなに笑わないでください!」
 真っ赤になるのを抑えきれぬまま、まりえは言った。
「ご、ごめん。なんか…いや。可愛いなと思って…」
 可愛い?!玲一の口からそんな単語が飛び出すとは想定外で、さらに頬がぼっ、と赤くなる。
「だ、だって新品のパジャマなんて、小学生の時以来で。どうせ、社長にはわかりませんよ…」
 赤い顔を落ち着かせようと、ひねた声を出してみる。
その言葉で、玲一は、やっと笑うのをやめてくれた。はっとしたような顔をして、少し考えた。
「明日は、日曜日だな。俺は土日関係なく仕事なんだが…」
 赤く火照った顔が少し落ち着いて、我に返った。そうなのだ。玲一は長多忙のデパート経営の社長。休みなく働いているのだろう。土日が休みのまりえとは違う、と改めて思った。
「お疲れ様です」
「いや。言いたいのは、明日、親友に会うから君も一緒にどうかなと思ってな。そいつ、釘を刺しとかないととんでもない時間にうちに来たりするから会わせておきたい」
「そうなんですか」
 玲一の大事な人に紹介してもらえる。それはまりえを大事にしてくれているように思えた。
「そいつと会うのはランチタイムだ。その前に少しだけ時間が取れるから、つきあってほしい」
「どこに行かれるんですか?」
「うん。まあ…来たら、わかるよ」
「はあ」
 高階デパートのティールームで待ち合わせすることになった。
 
 翌日。昨日の会食があっての、今朝なので、何か軽くてさっぱりしたものを、とまりえは、あっさりした和え物や煮びたしと味噌汁、ご飯を朝食として用意した。
 八時頃、玲一はリビングにやってきた。シャワーを浴び、髪の毛を整え、パリっとしたシャツとスラックスをもう着ている。
 七時に起きていたまりえは、ランニングウェア姿の玲一と、廊下ですれちがった。
 ぴったりしたウェアに身を包んだ玲一は、美しい肢体をしていた。厚い胸、引き締まったお腹、たぶん割れていそうだ。まりえは思わず、恰好いい、と呟きそうになった。慌てて言葉を探す。
「走りに行かれるんですか?」
「ああ。以前は夜、ジムに行ってたんだが、会食や接待で、なかなか行けなくてな。朝、運動することにしてる。君が寝ているのに物音を立てたら、すまない」
「いえ。私も早起きが好きなので、大丈夫です。ランニングの間に、朝食を作ってもいいですか?」
「いいのか。君は仕事が休みだろう。休みたいんじゃないか」
 まりえは、首を振った。
「休日でも朝ごはんは、大事です。軽い和食にしますから食べてください」
 果たして。ランニングを終え、テーブルに着いた玲一は、言った。
「…すごいな。朝から味噌汁なんて、久しぶりだ。いや、独り暮らしになってからは初めてだな」
 感動の声をにじませながら、味噌汁をすする。
「うまい」
 まりえの顔がぱっと綻ぶ。
「よかった。おかわりもありますよ」
 玲一は、朝食を綺麗に完食した。
「これまでは、パンとコーヒーの朝食だったんだが。こんな朝食も、いいな」
「それなら、時々、パンの日も作るようにしましょう」
 自分の働きどころは、ここだ、と思い、まりえはつい声が弾んだ。
「今日は、休日だが、明日からは君も仕事だろう。無理しなくていい」
 楽しみにしている、と言われると思っていたので、まりえはちょっと、しゅんとした。
 毎日の朝食は、重いだろうか。それとも、朝は一人で過ごしたいとか、いろいろあるのかもしれない。共同生活ってやっぱり難しい。相手のことをよく知っていないと押しつけになってしまう。
「その…朝食は嬉しいんだが、女性は、身支度とかあって大変だろう。朝食のために睡眠時間を削るようなことはしてほしくない」
 玲一が、声のトーンを抑えて言った。
 朝食は嬉しい、って今、言った?まりえの落ち込んだ気持ちがふわっと浮き上がった。
「それは大丈夫です。早寝早起きですから。私としては、ここに置いてもらう代わりに、できるだけ家事がしたいって前にも言いましたよね。玲一さんの食事作りは、私にとって大事なミッションなんです。これがないと逆に心苦しいというか。でも、夜は玲一さんは会食とかが多いわけで。なので、朝食は、かるいものを心がけますので、よかったら食べてください」
 いつもは気弱なまりえだが、ここは、ちゃんと言わなきゃ、といつになく熱を入れて喋った。
「そうか。じゃあ、甘えるよ。楽しみにしてる」
 食後のコーヒーを飲んで、玲一は、出勤した。玄関先で、お見送りの際に、まりえが、
「行ってらっしゃいませ」
 と頭を下げると、暖かいものが頭に触れた。玲一が、まりえの頭をぽんぽんしたのだ。
 え、と思わず、まりえが頭をあげると、少し顔を赤くした玲一が、
「行ってきます」
 と言った。まりえは頬が赤くなるのを感じながら「お気をつけて」と何とか言うことができた。
 あの、社長が頭、ぽんぽん?!
 まりえは、正直、面食らっていた。こんな甘いことが、自分と玲一の間に起こらないと思っていたのだ。
 だって正真正銘の仮面夫婦なのだから。
 これくらいで、びっくりしちゃう自分がおかしいのかな。
 はあ、と息をついて、気持ちを切り返る。
 そういえば、大事なことを忘れてる。えっと、十一時にデパートのティールームに行くのよね。で、玲一さんの親友さんと会う…どんな恰好したらいいんだっけ?!
 まりえは朝食の後片付けをぱたぱたとやってしまうと、自分の部屋のクローゼットを開けた。
 
 約束の時間の少し前に、まりえはティールームに着いていた。結局、クローゼットには、よそいきの服は全くなかった。お見合いの時、百合から借りたワンピースはもう返してしまっていた。
 百合が「それ可愛いね」と言ってくれたブラウスとスカート、という恰好で結局、来るしかなかった。
 玲一は、まだ来ていない。案内されたテーブルから、他のテーブルについている客たちを眺める。男性客はほとんどおらず、スイーツを楽しむ女性客が多かった。その誰もが、とても素敵な恰好をしている。年配の女性はシックで、きちんとしているし、若い女性は、流行を取り入れた、イマドキ感のある可愛らしい服を着ている。まりえが、いつもショーウインドウを覗いて、いいな、と思っていた服が多い。
 こういうところに来ると、ついないものねだりになっちゃうな…
 しばらくして、玲一がやって来た。女性客の多いティールームだ。皆の視線が長身で美しいスーツ姿の玲一に集中するのがわかった。
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