今日もまた、あの夏の真ん中で死にたいと思った
序章
もう夏は来ないのに
――生涯、胸の中にしまっておくと決めた記憶がある。
それは、夏という季節にだけ縛られた思い出。
この場所で起きた出来事の全て。
ひと夏を幾重にも重ねて彩った日々の事。
住み慣れた都会のように太陽光を遮るものはなにもない。
だだっ広い田園を真っ直ぐ裂くように山へ続く車道を左折して、港町の方向へ。左手にはバス停。その奥には田んぼと古い小学校。右手には山の麓まで続く田園と、いくつかの家。田園をまっすぐに割いて山の麓まで伸びる畦道の先にある、木々に埋もれそうな石造りの鳥居。
乗っている車がこれから辿る道を、詠は先回りして頭でなぞった。
今、すべてを思い出す。
底の見える美しい川の水面を魚が叩いた飛沫。川水の冷たさ。海水の生ぬるさ。人間同士が作る沈黙の隙間を埋めるカエルとセミの鳴き声と、涼しい風鈴の音に、凪打つ草の囁き。
小学校で行われる小さな祭りの後、月明かりとスマートフォンのライトを頼る夜。
大人になった今はもう隣にいない〝彼〟が、小指を差し出した。
――生涯、胸の中にしまっておくと決めた記憶がある。
それは、東京に帰って誰かに話した途端に全て消えてなくなってしまうのではないかと思うほど夢のようで。当時の詠にとっては、何もかもが非日常だった風景。
「天気がいいね」
「そうだね。凄く気持ちいい」
助手席に座っている詠は、隣でワンボックスカーを運転する秋良の声を聞いて、彼の方へと視線を向けて返事をした。
「こんなに天気がいい日は、思い出すなぁ。ママと出会ったのもな、こんないい天気の日で、」
「パパ。もうその話聞き飽きたよ」
爽やかでよく通るアキラの声をさえぎって後ろから不満な様子を隠さずに言うのは、今年で小学校5年生になる詠と秋良の娘、秋音だ。
秋良はしっかりと両手でハンドルを握って前を見たまま口を開く。
「そんな意地悪な事言わないで聞いてよ。これが親孝行だと思って。何回でも」
「毎回毎回同じ話聞かされる私の事も少しは考えてよ」
はっきりとそう言い切る秋音に秋良は「ええー」と言いながら落ち込んだ様子を見せる。
少し前まで一人では何もできなかったのに、いつの間にか親に自分の意見を正面からぶつけられるまで成長していることに嬉しくなる。しかし言い方には気を遣うように言わなければと思って、車の窓越しに田舎の景色を眺めた。
最後にこの田舎の景色を眺めてから時が流れて、誰かの妻になり、それから母親になった。
「あ、お義母さん! お義母さんは初めてですよね。詠と出会った日の事を聞くのは」
秋良は話し相手の大人を見つけた子どものように嬉しそうに声を張る。
「そうね。聞かせてちょうだい、秋良くん」
詠の母、菫は助手席に座る詠の後ろから穏やかな声で返事をする。菫の隣に座る秋音はげんなりとした顔をした後、背もたれに深く身体を預けてこの日の為に取り付けた後部座席用のモニターで出発時から垂れ流しにされている連作映画を見ていた。
「俺がまだ気ままに世界を見て回っていた時の話です。アメリカで凄く気持ちのいい朝を迎えて、気分がよかったからコーヒーでも飲もうとカフェに向かったんです。そうしたら、そのカフェからコーヒーを片手に持った詠が出てきたんですよ! 髪を払いながら、うつむいていて……。それにとにかく凄く惹き付けられたんですよ。なんだか光に照らされているような。周りの全員が脇役みたいな。神様、みたいな。オーラ、みたいな感じで」
語彙力の欠如とはまさにこの事だと思ったが、詠はそれを口に出さないまま、ほんの少し顔を後部座席の方へと向けた。
「いっつも大げさなの」
「いや、本当なんだって。芸能人って本当にオーラあるんだなーって思ったんだよ」
「ママが芸能人だって知らなかったくせにー」
秋良の言葉を聞いた秋音は、待っていましたと言わんばかりに身を乗り出す。
「後から納得したって話だよ!」
「ええー? 俺最初から知ってましたーみたいな感じにしたかったんじゃなくてー?」
小生意気な秋音の言葉に苦笑いを浮かべる詠の隣で秋良は「違うよ!」とムキになっている。
「こんなに大切にされて、幸せね。詠」
菫は後部座席から、詠にぼそりと呟く。
それは今、目の前で繰り広げられている幸せに対する、精一杯の祝福のよう。
暑い季節が来た。
ここ最近は子どもが外で遊ぶ様子を見ることも減った。
子どものために作られた公園は、なんだか寂しそうだ。
自分たちが子どもの頃の夏とは随分と変わってしまった。
この田舎で過ごした夏はもうずいぶん前の事で、夫の秋良にも娘の秋音にも関係のない話。
それでもこの場所に行こうと詠が二人に提案したのは、一つの区切りをつけたかったから。
強いて理由を挙げるなら、娘の秋音が〝彼〟と出会った自分と同じ年齢になったから。
秋良は口にはしないが自分との間に明確な一線を引いている事を彼は気付いているだろうと、詠は思っていた。
二人の間にはいつもほんの少しの距離がある。それは意識しないと触れられない程の距離。
でも、明確に縮まらないと分かる距離。
それは娘の秋音も気付いていて、秋音はその距離感を面白がって〝ママの秘密主義〟という名前を付けて呼んでいた。
でもきっと、今日でその〝ママの秘密主義〟も終わる。
そうしたらきっといつか思い描いたような家族になれるはずだ。
――生涯、胸の中にしまっておくと決めた記憶がある。
心の奥の奥から引っ張り出した記憶の中で、〝彼〟の顔が浮かぶ。
バス停を背に畦道を駆け抜けて、石造りの鳥居をくぐって境内に入る。息を整えながら見上げた先の石段の真ん中あたり。
石灯篭に背を預けて待つ響が本から視線をそらして優しい顔で笑う、あの夏の日のこと。
それは、夏という季節にだけ縛られた思い出。
この場所で起きた出来事の全て。
ひと夏を幾重にも重ねて彩った日々の事。
住み慣れた都会のように太陽光を遮るものはなにもない。
だだっ広い田園を真っ直ぐ裂くように山へ続く車道を左折して、港町の方向へ。左手にはバス停。その奥には田んぼと古い小学校。右手には山の麓まで続く田園と、いくつかの家。田園をまっすぐに割いて山の麓まで伸びる畦道の先にある、木々に埋もれそうな石造りの鳥居。
乗っている車がこれから辿る道を、詠は先回りして頭でなぞった。
今、すべてを思い出す。
底の見える美しい川の水面を魚が叩いた飛沫。川水の冷たさ。海水の生ぬるさ。人間同士が作る沈黙の隙間を埋めるカエルとセミの鳴き声と、涼しい風鈴の音に、凪打つ草の囁き。
小学校で行われる小さな祭りの後、月明かりとスマートフォンのライトを頼る夜。
大人になった今はもう隣にいない〝彼〟が、小指を差し出した。
――生涯、胸の中にしまっておくと決めた記憶がある。
それは、東京に帰って誰かに話した途端に全て消えてなくなってしまうのではないかと思うほど夢のようで。当時の詠にとっては、何もかもが非日常だった風景。
「天気がいいね」
「そうだね。凄く気持ちいい」
助手席に座っている詠は、隣でワンボックスカーを運転する秋良の声を聞いて、彼の方へと視線を向けて返事をした。
「こんなに天気がいい日は、思い出すなぁ。ママと出会ったのもな、こんないい天気の日で、」
「パパ。もうその話聞き飽きたよ」
爽やかでよく通るアキラの声をさえぎって後ろから不満な様子を隠さずに言うのは、今年で小学校5年生になる詠と秋良の娘、秋音だ。
秋良はしっかりと両手でハンドルを握って前を見たまま口を開く。
「そんな意地悪な事言わないで聞いてよ。これが親孝行だと思って。何回でも」
「毎回毎回同じ話聞かされる私の事も少しは考えてよ」
はっきりとそう言い切る秋音に秋良は「ええー」と言いながら落ち込んだ様子を見せる。
少し前まで一人では何もできなかったのに、いつの間にか親に自分の意見を正面からぶつけられるまで成長していることに嬉しくなる。しかし言い方には気を遣うように言わなければと思って、車の窓越しに田舎の景色を眺めた。
最後にこの田舎の景色を眺めてから時が流れて、誰かの妻になり、それから母親になった。
「あ、お義母さん! お義母さんは初めてですよね。詠と出会った日の事を聞くのは」
秋良は話し相手の大人を見つけた子どものように嬉しそうに声を張る。
「そうね。聞かせてちょうだい、秋良くん」
詠の母、菫は助手席に座る詠の後ろから穏やかな声で返事をする。菫の隣に座る秋音はげんなりとした顔をした後、背もたれに深く身体を預けてこの日の為に取り付けた後部座席用のモニターで出発時から垂れ流しにされている連作映画を見ていた。
「俺がまだ気ままに世界を見て回っていた時の話です。アメリカで凄く気持ちのいい朝を迎えて、気分がよかったからコーヒーでも飲もうとカフェに向かったんです。そうしたら、そのカフェからコーヒーを片手に持った詠が出てきたんですよ! 髪を払いながら、うつむいていて……。それにとにかく凄く惹き付けられたんですよ。なんだか光に照らされているような。周りの全員が脇役みたいな。神様、みたいな。オーラ、みたいな感じで」
語彙力の欠如とはまさにこの事だと思ったが、詠はそれを口に出さないまま、ほんの少し顔を後部座席の方へと向けた。
「いっつも大げさなの」
「いや、本当なんだって。芸能人って本当にオーラあるんだなーって思ったんだよ」
「ママが芸能人だって知らなかったくせにー」
秋良の言葉を聞いた秋音は、待っていましたと言わんばかりに身を乗り出す。
「後から納得したって話だよ!」
「ええー? 俺最初から知ってましたーみたいな感じにしたかったんじゃなくてー?」
小生意気な秋音の言葉に苦笑いを浮かべる詠の隣で秋良は「違うよ!」とムキになっている。
「こんなに大切にされて、幸せね。詠」
菫は後部座席から、詠にぼそりと呟く。
それは今、目の前で繰り広げられている幸せに対する、精一杯の祝福のよう。
暑い季節が来た。
ここ最近は子どもが外で遊ぶ様子を見ることも減った。
子どものために作られた公園は、なんだか寂しそうだ。
自分たちが子どもの頃の夏とは随分と変わってしまった。
この田舎で過ごした夏はもうずいぶん前の事で、夫の秋良にも娘の秋音にも関係のない話。
それでもこの場所に行こうと詠が二人に提案したのは、一つの区切りをつけたかったから。
強いて理由を挙げるなら、娘の秋音が〝彼〟と出会った自分と同じ年齢になったから。
秋良は口にはしないが自分との間に明確な一線を引いている事を彼は気付いているだろうと、詠は思っていた。
二人の間にはいつもほんの少しの距離がある。それは意識しないと触れられない程の距離。
でも、明確に縮まらないと分かる距離。
それは娘の秋音も気付いていて、秋音はその距離感を面白がって〝ママの秘密主義〟という名前を付けて呼んでいた。
でもきっと、今日でその〝ママの秘密主義〟も終わる。
そうしたらきっといつか思い描いたような家族になれるはずだ。
――生涯、胸の中にしまっておくと決めた記憶がある。
心の奥の奥から引っ張り出した記憶の中で、〝彼〟の顔が浮かぶ。
バス停を背に畦道を駆け抜けて、石造りの鳥居をくぐって境内に入る。息を整えながら見上げた先の石段の真ん中あたり。
石灯篭に背を預けて待つ響が本から視線をそらして優しい顔で笑う、あの夏の日のこと。