今日もまた、あの夏の真ん中で死にたいと思った
閑話

〝私〟は誰

 響から逃げるように東京に帰ってきた。
 世界からまた、色がなくなった。

 仕事なんてやりたくない。
響が自分をテレビで見たら、おいて帰った挙句普通に仕事をしている自分をどう思うだろう。
考えても仕方のない事を頭の中でぐるぐると描きながら、数か月を過ごしている。

「よし、終わり!」

 すぐ近くでそう言われて我に返る。鏡を囲うライトの眩しさを感じた。詠のヘアメイクを担当する女性は、ヘアアイロンを通し終えた詠の髪から指をはなした。

「ありがとうございます」
「やっぱりこの色で大正解。似合ってるもん」

 そういえばさっきチークの話をしたなと思いながら、詠は適当に話を合わせて席を立つ。

 今日の撮影は大きな一軒家の中。階段を降りて一階のリビングに向かう。一軒家に住んでいれば、わざわざ長い時間をかけてエレベータを待たなくていいのに。

 それか響の家のような平屋ならもっと楽だ。
 どうして母はあんなマンションを選んだのだろう。

「よろしくお願いします」

 詠はリビングに入ると、笑顔を貼り付けて数人に頭を下げた。

 あの夏祭りの帰りに鼻緒が擦れてできた傷もすぐに治った。
 誰もこの葛藤を知らない。

 ここにはいつも通りの〝咲村詠〟がいる。

 小学校の卒業式。母は来なかった。
 中学校の入学式にも、やはり母は来なかった。

 小梢はどちらも出席してくれて、「大きくなったね」と言って泣いていた。
 それに詠は「大袈裟だよ」と言いながら笑った。そして小梢は遠回しに母が来ない事についての慰めを言っていたが、詠はもうよく覚えていない。
 多分、「本の締め切りが迫っていて……」とかそんな事だったと思う。

 詠にとっては、どうでもいい事だった。
 母を前にすると条件反射でいい子でいようとするクセに、母がいない所では母の事なんてどうでもいい。
 そんな事よりも、問題は響の事だ。

「音どう?」
「いいです」
「照明はー?」
「いいでーす」

 詠の意識の外側で、大人たちが会話をする。

「お願いします」
「思いっきりやっていいからね」

 キリっとしたメイクを施した母親役の俳優が、優しい口調で詠に言って肩を叩いた。
 詠は「はい」と呟いてからキャメルの革張りのソファーに腰を下ろした。ヘアメイク担当の女性が、詠の身に着けた制服の襟を正し、髪を整える。

 詠の通う学校は一貫校で、中学になってもメンバーは大して変わらない。
 見慣れた顔を見ていると、気持ちを新たにしようという気もなくなってくる。

 しかし、廊下ですれ違えばほかの学年の生徒は「ほら、あの子だよ」と話し出す。堪らなく苦痛だった。自分が普通の子ではないと実感するばかりで。
 自分で芸能界に足を踏み入れたくせに。

 また、響に会いたい。
 しかし同時に、堪らなく怖い。次に会った時、響はどんな顔をしているだろうか。
 何か月も何か月もずっと考えているのに、自分を前にした響がどんな言葉を言うのか、詠には全くわからなかった。

 一緒に夏祭りに行くと約束をしておいて、途中でわがままを言って、挙句の果てに響を置いて帰って。
 一年間は会う所か話をする事も出来ないと分かっていたのに。響はもう芸能人だという事を知っている。だったら響は今、どんな気持ちでいるんだろう。詠には全く想像ができなかった。しかしそんな疑問を押しのけて、確信できる事がたった一つだけあった。

 きっと響は今年も変わらず、あの神社で待っている。
 それが今はほんの少し、プレッシャー。

「詠ちゃんは……オッケーね」

 監督の声が、通り過ぎる。

 鈴夏という子が心底羨ましい。誰の目も気にしなくてよくて、響といつだって遊ぶこともできる。喧嘩をしたらすぐに仲直りして。

 今の詠が欲しいものを、鈴夏は全て持っていた。

「はい、いきまーす。よーい……」

 俳優に圧をかけないように配慮された監督の声が響く。
 詠は短く太く息を吐き出した。

 羨ましい。
 何もかも持っているあの子が、羨ましい。

「……スタート!」

 ――どうして、私だけ、こんな場所に

 ソファーから勢いよく立ち上がる。
 母親が腕を掴む。
 その手を振り払い、押し返す。
 母親は尻餅をつく。

「〝私がどんな気持ちでいるか、考えたこともないくせに!〟」

 腹の奥底に溜まる口には出せない嫌悪感を、全部。
 ――私は、今

「〝大っ嫌い〟」

 誰かになり切っている事をいいことに、全部全部吐き出す。
 ――誰にこの言葉を言っているんだろう

 嫌悪感を全部吐き出した後に感じるのは、肩の荷が下りたような、言葉にするのは難しい感覚。
 でもまだ。まだ嫌悪感を持っていないといけない。〝私〟はまだ、誰も許していない。

 分離した内側で考える。
 このシーンが成功したら、今年もそっちに行くと祖父母に連絡しようか。

 どんな瞬間よりも長い数秒の沈黙。いつも無理矢理自分と向き合わされる。
 直前にどれだけ仕事をしたくないと思っていたって、この瞬間は決まって監督の声色を探る為に意識を集中させて、誰かになり切る感覚に心地よさを覚える。

「カット! おっけーい」

 ふっと空気が緩んで、詠は母親役の俳優に手を差し伸べた。

「大丈夫ですか?」
「全然大丈夫ー」

 彼女はにこりと笑って詠の手を握るが、ほとんど体重を預けずに立ち上がる。

「すみません。思いきり押しのけました」
「もっと思いっきり来てよかったのに」

 〝可愛い子役〟のイメージを払拭するためとはいえ、かなりダークな作品を選んだと思う。
 しかし詠は気楽にさえ思っていた。これくらいはっきりと口にする役の方が演じるのが楽しい。仕事なんてしたくないと思っていても、〝自分ではない誰か〟になりきる感覚には依存性がある。

 今日の撮影が終わったら、今年もまたそっちにいくと祖父母に連絡しよう。
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