今日もまた、あの夏の真ん中で死にたいと思った
中学2年生、夏

ずっと一緒に

 窮屈な東京から抜けだして、いつものように新幹線と電車を乗り継いで駅に下りる。いつも通りの、のどかな景色。迎えに来た祖母の車に乗って、いつもの話題を持ちかけられるより前に自分から大して知りもしない母の近状を伝えた。

 響の家が見えてきた。それから、響の待っている神社も。
 詠は運転する祖母越しに景色を見て、はやる気持ちを押し込んだ。本当のことを言えば、もう今ここで車から降ろしてほしいくらいだ。

 それから車はどこに寄り道することもなく商店街を通って咲村旅館に到着して、部屋に荷物を置いた詠はさっさとご飯を食べて、食器を洗って駆け出した。
 ここ一年、ランニングをサボったせいだろうか。神社までの道を走る身体が、去年よりも重たい気がする。

 響はいつも通り、長い石段の中間地点に座っていた。

「響」

 読んでいた本から詠に視線を移した響は、優しい顔で笑った。

「久しぶり」
「うん、久しぶり」

 響の言葉に詠はそう言って、石段の一番下にへたり込んだ。

「どうした?」
「クラクラする。走って来たからかな」

 一昨年の夏祭り、響から逃げるように旅館に戻った時より酷くはないが、似た感覚がする。運動をサボったツケが回ってきただけなのか、それとも夏は去年よりも暑くなってしまったのだろうか。
 
「水飲む?」
「うん、飲む」

 響は詠の隣に座ると、ペットボトルの蓋を外して詠に差し出した。

 口をつけると、水は唇と同じくらいの温度。
 気分の悪さが少しだけ引く。

 ペットボトルの冷たい水がぬるくなる程ここで待っていてくれていたのかと思うと、申し訳ないような、嬉しいような。

 毎年夏休み中盤の昼過ぎに来る事なんて響はもう分かっているはずなのに。

「待っててくれた」
「いまさら」

 〝待っててくれた〟たったその一言で、何が言いたいのかを明確に理解した上で響が返事をしてくれる。それが堪らなく嬉しくて。世界中のどこを探してもこんな人にはまず出会えないと思うのは、まだ世界の広さを知らない子どもだからだろうか。

 響は詠から水の入ったペットボトルを受け取ると、何のためらいもなく口を近づけた。

 つまりそれは、間接キスというやつで。

「あっ」
「あ」

 その言葉が浮かんで一秒もしないうちに詠は思わず短く声に出すと、響も同じことを思ったのかほとんど同じタイミングでそう呟いて、水が唇に触れるより前にペットボトルを口から離した。

「詠、気にする? こういうの」

 少し戸惑っている様子の響に、詠は首を大きく横に振った。

「いや、全然。響が気にするかなーと思っただけで……」
「俺も全然。っていうかもう手遅れか」

 詠が飲んだ時点でもう間接キスなのだから、今更気にしたって手遅れ。
 響は吹っ切れたようでいたって普通に水を飲む。

 なんだか気恥ずかしい気持ちになるのは、最近クラスの子達がやたら〝間接キス〟に敏感だからだと思う。
 詠は気持ちを切り替えるように溜息とは違う息を吐いた。
 この夏を楽しみたい。だからいちいち学校のクラスで騒ぐ内容なんて思い出したくない。

 それから二人は石段を上がって、神社の社殿に手を合わせた。
 今年も、夏が始まった。

「いろいろ考えたんだけど、まとまらないんだよね。詠は何かしたい事ある?」

 石段の一歩目を降りた時、響は詠に問いかけた。

「とりあえずは響のおばあちゃんと、お父さんとお母さんに挨拶」
「よし。じゃあ行こう」

 石段を降り切って鳥居を潜り、響の家に行くために左に曲がったところで、詠は違和感を抱いて立ち止まった。

「響、身長高くなったよね」
「うん。なんかここ最近一気に伸びてる」

 去年は確か同じくらいの身長だったはずだ。響は振り返って詠の目の前に立つ。
明らかに詠よりも響の身長が高い。

「詠ちっちゃ」

 響は笑いながらそう言うと、踵を返して歩き出す。

 ドラマのワンシーンみたい。
 そんなことを考えて、詠は響の後を小走りで追いかけた。トクトクと規則的に鳴る心臓の音を聞きながら。

「響、彼女とかできた?」
「うわ、でた。詠の好きそうな話」

 響は嫌がる様子も好意的な様子もなく、目の前に出された議題に対しての素直な感情を口に出す。

「だって気になるんだもん」

 気になる。純粋に響の生活が気になる。それは去年までと何一つ変わらないのに、明らかに去年までの〝気になる〟とは違う何が混ざっていて。
 言葉にすれば、それは焦りのような。〝気になる〟よりも〝知りたい〟という気持ち。

「彼女なんていないよ」

 ほっと一息つきたいような気持ち。
 ほら。ただ現状が気になるだけなら、こんな気持ちになるはずがない。この気持ちは、今までの〝気になる〟とは違う。

「あー。やっぱりいないんだ」
「やっぱりって何だよ。そういう詠は?」
「私もいない」
「へー、意外。もっとちゃらんぽらんしてるのかと思ってた」
「なにそれ。私に対してどんな印象持ってるの?」
「さー。どんな印象でしょう」

 響の一歩後ろでむすっとした詠の様子は振り返らなくてもわかるのか、響は真っ直ぐに前を見ながら笑っていた。

 響の家に着くと、響の祖母は今年も快く迎え入れてくれた。

「響のおばあちゃん。今年もお世話になります」
「待ってたよ、詠ちゃん。そうそう。雑誌の詠ちゃん。凄く素敵やったねー」
「ばーちゃんのお気に入りなんだよ。ファッション雑誌の表紙が詠のヤツ」

 ファッション雑誌なんて響も響の祖母も普段は見ないだろう。きっと自分が写っているから、わざわざ買ってくれている。
 母は自分の娘が雑誌の表紙を飾っている事さえ知らないだろうし、今後興味を示すこともないだろう。

「家に二冊もあるんよ」
「二冊も?」
「そうそう。見るようと取っとくようと」

 祖母と話す詠をよそに、響は靴を脱いではしに避けた。

「偶然よねぇ。たまたま見つけて買ってきた日に響ちゃんも買ってきて、」
「ばーちゃん、いちいち言わなくていいから!」

 響は焦った様子でそう言う。当然詠は嬉しい気持ちで「ありがとう」と二人に笑顔を向けたが、いつも知られたくない部分を暴露される響が少し可哀想に思えた。

 去年、二人が見ていてくれるなら頑張って仕事をしなければと思ったおかげで、ここ一年詠は仕事を楽むことが出来ていた。二人が見ていてくれるだろうという思いがあったから。

「私も響ちゃんも、詠ちゃんのファンだからね」

 〝ファンです〟と言われる事の本当の嬉しさを知る。
 去年までの自分は少し、思い上がっていたのだと思った。仕事があるのが当たり前で、仕事が減ったところで親がいる立場なのだから、生活には困らなくて。

 本当は仕事があるというのはありがたい事で、この立場になりたくてもなれない人が山ほどいる。
 この気持ちが初心だと思って、芸能活動を頑張ろうと詠は気合を入れた。

「父さんと母さんに線香上げたいって」
「線香を上げに来てくれるお友達なんて、大人でもそうはいないよ。大切にしないとね」
「そうだね」

 響の大切なものは、自分も同じくらい大切にしたい。その考えは間違えていないと二人はそう思わせてくれる。
 まだ長く生きてもない人生。しかし、自分の考えが間違いじゃないと教えてくれる人に出会ったのは初めての事だ。

 詠はサンダルを脱いで響と同じように端に寄せて並べた。
 サンダルを脱いだ時にタイルに触れた足の裏が、ひやりと冷たい。

「お邪魔します」
「詠ちゃん、雑誌で見るよりもずーっと綺麗やね」
「嬉しい! 今年はいろいろ頑張ったんです」

 雑談をする二人を他所にさっさと先を行く響の後を詠は急ぎ足で追った。

 あの廊下は今年も、温かい光に溢れていた。この廊下に足を踏み入れる度に感じる。
 真夏の最奥。一年で一番幸せな時間がこれからやってくるという、確信。

 暖かい廊下を踏みしめて客間の隣にある響の祖母の部屋へと入ると、やはりそこには大きな仏壇以外には何もなかった。

 詠は仏壇に線香を上げて手を合わせた。隣では響も同じように手を合わせている。二人がほとんど同じタイミングで目を開ける。

 その途端、電話の音が鳴り響いた。

「びっくりした」

 びくりと肩を浮かせる詠とは対照的に、響は平然とした様子で音が鳴った方向の襖に視線を向けていた。

「はい。藤野です」

 襖の向こうから響の祖母の声が聞こえてくる。
 祖母の声が聞こえると、響は襖から詠に視線を移した。

「いつもありがとう、詠」

 急にそう言う響に視線を移すと、彼は優しい顔で笑っていた。
 自分の父と母に線香をあげてくれてありがとう。という感謝である事は理解できたが、何と答えたらいいのかわからずに詠は照れ隠しでそっぽを向いた。

「別に。響の為じゃないし」

 可愛気のない事を呟いた後、少し不安になった。しかし、それを聞いた響が笑ったという事は気持ちが伝わっている合図で。今度は心底安心する。

「響ちゃん。鈴夏ちゃんから電話よ」

 安心したのも束の間、少し声を張ってそういう響の祖母の言葉の中に「鈴夏」という名前を聞いて、詠は一瞬例えようのない気持ちになった。
 どんな用件で響に電話をするのだろう。
 焦りのような、不安のような。

 〝響、彼女とかできた?〟と聞いた時と、全く同じ気持ち。
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