今日もまた、あの夏の真ん中で死にたいと思った
小学5年生、夏

カメラを向けられない暮らし

 小学5年生、夏。

 詠は小学校が夏休みに入って祖父母の住む田舎へと向かう為、一人で新幹線から二度電車を乗り換えて、それから長い時間揺られていた。
 ずっと同じ景色を見ている。そう思いながらも詠は、車窓から海や田んぼや山の見慣れない景色をなぞった。

 電車が進むにつれて、人が少しずつ少なくなっていく。誰にも見つからずにここまで来られた事で少し気が緩んだ詠は深くかぶっていた帽子を少し上げた。

 詠にとって東京という場所は窮屈(きゅうくつ)だ。友達も、仕事も、日常も。全部全部、窮屈。
 田舎に来たのはほんの気まぐれ。次の映画で〝主人公が訪れる田舎に住んでいる子ども〟の役をする事になったから、ちょっと行ってみようかと思っただけ。

 母から聞いていた名前の駅に到着して、キャリーケースを引っ張って駅のホームへ出た。

 黒ずんだコンクリート。くすんだ白い木の壁の建物。ただの看板がおしゃれにさえ見える。
 山と、木と、草と。それから少しの花。空はこんなに広かっただろうか。

 何もない。お土産屋もなければ、駅員さえいなかった。
 駅のすぐそばにコンビニがあるが、そのコンビニ中でさえ誰もいない。

 ここが母の生まれ育った場所。
 太陽の光を遮るものがなく、よく風が通る。
 田舎は空気が美味しいというが、都会の空気との違いはよくわからない。代わりに風の違いを感じた。誰かの肌を撫でてにごった生ぬるい風ではなくて、さらりと乾いて通り過ぎるだけの、心地のいい風の感覚。

 顔を上げればビルの窓に太陽の光が反射して、下を向けばアスファルトが照り返す東京とは違い、太陽の光自体がいたるところに反射して、淡く眩しい。

「詠ちゃんね」

 聞きなれないなまった口調で呼ばれた方向を見れば、祖母と思われる人が嬉しそうに笑っていた。テキパキと動きそうな印象の60歳くらいの女性。

 母は詠の知る限り一度も帰省というものをしたことがない。当然祖母という立場の人に会うのはこれが初めての事で、どんな距離感で接したらいいのかよくわからないまま詠はこくりと頷いた。

「そうです」
「ずーっと会いたかったんよ。でも(すみれ)がね、『私も詠も仕事で忙しい』って言うて、全然帰ってこんから。でもテレビで見とったから、はじめましてって感じでもないね」
「いつもありがとうございます」

 詠は慣れた様子で嫌味もなく、さらりと流す。こうやって受け答えをする事にももう、慣れてしまった。
 自分は相手の事を全く知らないのに、相手は自分の事をよく知っている。もうそれが、当たり前。

「でもはじめまして。詠ちゃんのばーばです」
咲村(さきむら)(うた)です。二週間よろしくお願いします」

 舞台の稽古始めの要領でそう言って、詠はもう一度頭を下げた。

 祖母の運転してきた軽自動車に乗り込んだ詠は、助手席の窓から流れる景色を眺めていた。
 詠の住んでいる大都会、東京とはまるで違う。東京は眠らない。家の大きな窓から下を見下ろせば、いつだって明るく光っていた。この場所は一体、夜になるとどんな感じなんだろう。

「7歳の時やったかね。あの、ほら。時代劇の。主人公の子どもの頃の役をしたのは」

 大人はみんな、自分が演じたいくつかの役の中からその話ばかりをすることを詠は知っていた。

「そうです」
「あれはすごかったね~。ほかの子はいろいろおったけど、詠ちゃんが一番上手かった」

 身近な大人はみんな、同じことを言う。

「ありがとうございます」

 だから詠も、いつも通りに返事をする。祖母という立場の人間も、他人と大して変わりない事を話すのだと思った。

(すみれ)は元気ね?」
「はい。お仕事を凄く頑張っています」
「そうかね。いっつもこっちから連絡して、そん時に一方的な報告ばっかりしてから。あの子は小さいときから、一つの事に夢中になると他の事はなーんもできん子でね。お父さんも私も心配しとるんよ」

 確かに母は趣味でもドラマでも一度一つの事にハマると他の事には全く手が付かない性質があった。そんな集中力があったからこそ、離婚して幼い詠を抱えて本を書き、成功を収めたのだろうと詠は思っていた。

 母の性質は小さい頃からすでにあったのか。そう思うと、普段決して多くを語らない母の知らない部分に触れられた気がして嬉しかった。

「でも、自慢のお母さんです」
「……そうね」

 自分の母を誇らしく思う詠とは対照的に、自分の娘の話を聞いた祖母の口調はどこか暗い。

「菫に最後あったのは、詠ちゃんのお父さん連れてきた時やったな。その時にうちのお父さん……詠ちゃんのおじいちゃんと大喧嘩して。それで出て行ったきり。やめとけって言っても、聞く耳を持つ子やないから」

 なんだか深く聞いてはいけない気がして、詠は何も返事をせずにただ外を眺めていた。

 道の続きは、山に向かって真っ直ぐに伸びていた。その手前で左に曲がると、右手には山の(ふもと)まで大きな田んぼが続いている。いくつか家があり、奥には石で造られた鳥居が見えた。神社だろうか。左手にはぽつぽつと家があり、それからバス停。田んぼの少し奥には学校がある。

 絵に描いたような田舎の風景。所狭しと建物が並んではいないし、車が込んでいない。それ所か、ずっと一車線の道を走っているが、ほとんど車とすれ違わない。

 いつもとは全く違う景色に胸が高鳴る。見た事のない世界の入り口に足を踏み入れているような。

 詠の祖母は移動中ずっと、上手に演技して凄い、ご近所さんに自慢している、と詠に話して聞かせた。

 俳優、役者という仕事は、そして子役という立場は窮屈だ。
 知らない人から「詠ちゃん」「詠ちゃん」と声をかけられる日々。学校の帰りだろうが、買い物をしている最中だろうが関係なくそれは訪れる。

 撮影が入って学校を休むと、友達からはズルいと言われる。それが少し誇らしくもあり、同時に学校になじめない原因でもあった。

 道を真っ直ぐに進んでいると、分かれ道で先ほどよりも少し細い道に入る。商店街のようだが、〝〇〇通り〟と書いてあるよく見るアーチはない。
 昔ながらの建物がお行儀よく整列していた。いくつかの建物は店の名残を残しながらも一階にはシャッターを下ろしている。現在は店を閉めて住居として利用しているのかもしれない。

 車は商店街の中の細い道を右に曲がってほんの少し坂を上がり、広い駐車場の一角で停まった。
 詠はシートベルトを外して外に出た。大きく鼻から息を吸い込んでみてもやはり空気が美味しいという感覚は分からなかったが、かすかに潮の香りがする。

 詠の荷物を持ってくれる祖母について歩き、車で上がってきた小さな坂を下る。そして道を挟んで向こう側にある小さな旅館の中に入った。

 建物の中は少し古いが、綺麗に整頓されていた。和と洋が混じっていて、昼ドラサスペンスの温泉回でよく見る印象的な作りだった。

「お父さん。詠ちゃん」
「おーおー、詠ちゃんね。よう来たね」

 カウンターに座っていた男性は立ち上がると、嬉しそうに笑ってこちらに向かって歩いてきた。長年一緒にいると似てくるのか、祖父母の笑顔はよく似ている。

「おじいちゃんね、詠ちゃん来るの楽しみにてたんよ。『あと何日で来るんかね』って」
「余計な事は言わんでいいから」

 祖母の言葉を制した祖父は祖父はしゃがんで詠と視線を合わせた。詠は思わず背筋を伸ばして、それから口を開く。

「はじめまして、咲村詠です。二週間お世話になります」
「はじめまして、詠ちゃん。……って言っても、はじめましてって感じはせんな」
「私と同じこといいよる」

 そう言って祖父母は笑い合う。母の顔は祖父に似ていて、気の強そうな印象は祖母に似ているのだと思った。

 階段を上がって二階に移動する。床や壁に織物を広く使った場所独特の埃のようなにおいに、下腹部を締め付けられる。このにおいは嫌いじゃない。
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